第34話 地上への脱出

「……それは良くないな」

 あ、目のことかと沢渡は思った。女の手が沢渡の額にあてられる。柔らかくひんやりとした手だった。

「強制非発情だね。……目でわかるよ。こっちの強制非発情は集中状態に持ち込んでるようだね。即効性があるいいやり方だけど、人に攻撃サインを送る事にもなるから注意した方が……おっと話がずれた」

 コホンと女は咳払いをする。

「私の前では強制非発情は使わないで欲しい。せっかく君の反応を見て楽しんでいたのにつまらないじゃないか。非発情になる時は瞳孔が開いて目が怖い。君は優しい男なのに」

「……はい? いや、でも、あのままだとちょっといろいろまずかったりするんで」

 沢渡の言い訳に、女は小首をかしげた。長身でグラマラスなのにその仕草は妙にかわいらしい。

「まずい? なにが?」

 どストレートに聞かれて、沢渡の方がかえって恥ずかしくなった。

 なんてったって、絶賛童貞まっただ中な男だ。女の事なんかどうにもならないと放り出して、好きなんて気持ちはトイレに流してしまえと、生涯童貞へと舵を切ってしまった男だ。

 娼館でVRセックスをやりまくったって、女心の機微への対応は身につかない。

 と言うか、機会もないのに女の心の機微なんて知ってもしかたがないと判断した陰キャラである。

 殺しあったアーヤーとならば、敵同士ということで心冷ややかに話せるのだが、このレ、レなんとかさん……レクトラだったは、敵か味方かなんだかわからない。

 性欲抑止で心が落ち着いたはずなのに、沢渡は混乱し始めていた。

「……あ、えーと、……そのですね……い、いやらしい気分に……じゃなくて、そうエッチ!、エッチな感じ……違う、違います! その、ちょっとイケてない状態に」

 恐ろしいことに、沢渡は自分で自分の口走っていることが、まるでわからなかった。

 どうみても、挙動不審なチビオタク。これは終了って感じだと。

 早くこの女から蔑みの目と罵倒が来てくれたら、悲しいがこんな気まずい状態も終わって、あいつらと合流して街に戻り、この女はどっかのイケメンについていって、それで終わりっとなる。それで日常いつもが戻ってくる。

 そこまで思考が暴走した沢渡に、女がにこりと微笑んで、沢渡の思考は止まった。

「君は私の体でその気になったのだろう? セックスしたい気分になったのだろう? なにがまずいのだ?」

 思考に空白とはこのことかと沢渡は思った。なにも考えられず、口をぽかんと開けるのみ。

「馬鹿か、おまえ達は。なにじゃれあっている? 戦闘が一つ終わっただけなのに、余裕だな?」

「おおう! そうだな、まだ脱出には至っていなかったな。あっはっは! つい私も高ぶってしまった」

 あきれていたアーヤーの吐き捨てるような言葉に、女はしばしきょとんとした後、笑いだした。そして女は沢渡の耳にその唇をよせて、ささやく。

「後でゆっくりとおしゃべりをしようじゃないか、私のヒーロー君」

 性欲抑止を使っているはずなのに、彼女のささやきは沢渡の鼓動に、甚大な影響を及ぼしたのだった。



「ところで、おまえは私の言葉をえらくばっさりと否定してくれたな。根拠でもあれば聞こうか? どうせ屁理屈だろうがな」

 光量に乏しく足元が見えにくい暗い階段をゆっくりと上がっていく途中で、アーヤーが憎々しげに、レクトラに語りかけた。沢渡は思考が空白のまま、ただ身についた警戒行動だけで動いている。

 考え始めるととてもやっかいなことになりそうなので、考えないようにしていたのだ。

 レクトラが記憶を思い起こすような沈黙をした後、口を開いた。

「……ああ、あれか。男が恋愛や結婚に関わらず、その財と能力を自分自身のためにのみ用いている。男が女を愛さないのは男として欠陥だという話だったな。はっきり言おうか。君達がこのVRMMOより価値がないだけの話だよ」

 レクトラの言葉には嫌みも揶揄も入っていないがゆえに、残酷なほどの言葉の切れ味があった。

 妖女が、殺気混じりの怒気を吹き上げる。

「男のいいなり女が。男に尻尾振ってそんなに愛されたいのか? 女と向き合う意気地もない男にそんなに媚びたいのか?」

「もちろん愛されたいものだね。……前々から思っていたのだがね。君達は男達に現実へ帰れと言うが、その現実に帰った男を愛せるのかね? 愛せないんじゃないのかな?」

 レクトラの声が笑みを含んで転がる。

「それに君達が女の素晴らしさ、女を愛することの崇高さを自己宣伝すればするほど、君達の男は君達から離れていっているのがよくわかるよ。愛されている女は、男は女を愛せと遊び場を壊しにいったりしないものさ」

「だまれっ! 男の不甲斐ない逃避のせいだっ! 男が悪いのだ!」

「ふふっ。彼らは君達に迷惑掛けないように、VRMMOで遊んでいるのに? 君達の気に入らない男達は君達から去ったじゃないか? なぜ引き戻そうとする?」

 レクトラは湯気を立てて怒るアーヤーに、意趣返しでもするように言葉を返し、それによって妖女はさらに怒りを募らせた。

「いいか、良く聞け。男には女を幸せにする義務がある。男は女と子供を幸せにするためにもっと努力するべきなのだ。こんなところで遊んで義務が果たせるか? この世には男と女しかいないのだぞ? そして子供を産めるのは女だけなんだぞ?」

「理解したまえよ。ここに来た男達が愛し幸せにしたいのは、君達じゃない。君達から生まれる子供もいらない。なぜなら君達は要求ばかりをして、男達になにも与えられないからだ。だから逃げられ、好き勝手にされる。君がここでやっていることは、その憂さ晴らしに過ぎないね」

 レクトラは、アーヤーの怒りとは対照的に、どこまでも冷笑的な態度を貫いていた。

「社会は子供が生まれなければ衰退し、滅びるのだぞ!」

「君がここでこんなことをしている間に、好みの男のところに行って、セックスをして妊娠する方が先じゃないか? VRMMOのプレイヤーを虐待しても人口は増えないぞ?」

「だまれよ! そんな簡単に好みの男とセックスできるわけがないだろ! だいたい、妊娠出産は女の命をかかた事業なんだ。簡単に言うな」

 階段を上がりながら、アーヤーがわめき散らし、レクトラが揶揄してからかう。

「ははは、君こそ、男に向き合ってないんじゃないか? モテる男にきちんと向き合って、孕ませてもらえばいいだろう? 周りの女がごちゃごちゃ言うのぐらいは自分でどうにかしたまえよ?」

「うるさい、うるさい! こんなVRMMOで遊んでいる女が言うな……え?」

 なぜか黙り込んだアーヤーと、彼女に対して含み笑いをするレクトラを見て、沢渡は小さな違和感を覚えたが、けれどもそれはすぐに忘れ去られた。




 初心者達が入れられていた牢の前まで来ると、沢渡は少し安堵した。

 多くなった照明とそこに立つ見知った人影は、緊張を解くのに充分だった。

 アーヤーとレクトラももう口論もせずに、アーヤーはそっぽむいて距離をとっている。

 沢渡は待機していた初心者達に手を上げて合図をすると、彼らも安心したように駆け寄ってきた。

「異常は?」

「ない。一人ダイブインしてきただけだ」

 沢渡は手短に情報交換を行い、拾ってきた銃を彼らに渡した。弾はあまりないことを念押ししておく。

 アーヤーと王子イケメンを、負傷している二人に任せ、襲われてどうしようもない場合は逃がしてもいいと説明した。

 そしてレクトラを紹介する。

 アーヤーとは口論していたが、レクトラは拉致されてきた初心者達とはもちろん和やかに挨拶を済ませた。基本、落ち着いている人物なのだろうと思う。あの抱きつきはよくわからないが。

 沢渡は全員をぐるりとながめまわした。

 五人の中身入りと五人の歩けるログアウトボディ、一人の負傷したログアウトボディ、二人の捕虜、一人の対象外救助者、これを率いて脱出する必要がある。

「じゃあ、行こう。脱出だ」

 沢渡の言葉に五人とレクトラがうなずいた。



 さっきよりは明るいけどもまだほの暗い階段を上がっていっても、敵の気配はなかった。

「待ち伏せがないな」

 すぐ後ろについてきている初心者、おおよそ同年代の若い男があたりを見回しながら言った。染めていない黒髪、痩せ気味の体にやぼったい服は、沢渡の同類であるオタクという感じだ。名前は確かレンと名乗ったはずだと沢渡は思い出していた。

「八人倒して一人捕虜にしてるから、残り少ないのだと思う。この廃墟の様子や君達の状況から見て、ここに転送されてきた人間を取り押さえるだけの人数しかいなかったんだろう」

「八人? そんなに倒したのか。すごいな」

 沢渡が推測を述べえると、レンは目を丸くして驚いた。さすがに面はゆいので、手を振って謙遜したが、あまり効果はない。

「運が良かったんだよ。腕もたいしたことはなかったし」

「それでもさすがだな。で、取り押さえるだけの人数って?」

「推測だけど、ここはいわばMMOにおける監獄とかお仕置き部屋みたいなものなんだ」

 沢渡は廃墟の階段をとんとんと足でつついた。

 仕組みは、MMOでゲームマスターに呼び出された時に入れられる説教部屋や牢獄と同じ。

「ふむ」

「あの妖女が君達をここに転送機で転送し、待機していた看守達が取り押さえて武装解除。そしてあの牢獄に放り込む。それだけでいいんだ。牢獄に入れたらリスポーンポイントも牢獄になるし、VRMMOだから食事も排泄も世話の必要がないから。むしろ彼女らは、早くゲーム止めて欲しいわけだしね」

 プレイヤー、特に初心者のモチベーションをたたき折る方策として、閉じ込めは上策だ。死が軽いVRMMOならなおさら。

「なるほど」

 世話の必要がないというところで沢渡は肩をすくめる。レンは苦笑した。

「だからもともとそんな人数は必要ない。必要ないからいない。なので、途中で中途半端に襲ってこないんだ。おそらく一番上で待ち構えているんじゃないかな」

「俺達はどうしたらいい? 戦闘を手伝うか?」

 沢渡の待ち構えているという言葉に、レンは緊張を示した。

「負傷が軽いレンには手伝って欲しいが、その他の人は脱出して、連絡をとって欲しい。連絡がつけば僕がやられても、後から来る人がなんとかしてくれるしね」

「やられてもとか言わないでくれよ、シュン。せっかくかっこいいんだからさ」

 言葉と共に沢渡の背中が軽くたたかれる。沢渡は目を丸くしていた。かっこいいという評価は初めてだったのだ。

「かっこいい? 僕が?」

「ああ。

「ああ。このくそ看守どもがさ、何かあるとすぐ俺達に女にもてずゲームに逃げたクズとか煽ってくるんだ。この女も助けてほしいって言ったから助けてやったのに俺を騙してくれるし。ムカついていたから、今こいつらにざまぁって感じにさせてるシュンはかっこいいと思う。GPFやっててよかったよ」

 沢渡は照れて頭をかいた。そんな沢渡にレンは笑いかけた。

「女性までさらっと助けてきちゃうのに、妙に照れるんだな」

「……助けたのは偶然というかなんというか」

 沢渡は真っ赤になった顔をうつむけた。これが褒め殺しか! くっそむずがゆいなどと思ったりする。

「ところで、あの女性。あの人はなんで閉じ込められてたんだ?」

「……なにかの研究成果を狙われたらしい。それ以外はわからないな」

 レンがレクトラの方を見ていたので沢渡もレクトラをちらりと見た。

「シュンがわからないなら、俺達にもわからないな」 

 話はそれで止まった。近くにいたレクトラは聞いていたはずだが、笑みを浮かべたのみでなにも言わなかった。話を聞いても良かったが、沢渡は聞かなかった。

 階段がもうすぐ終わろうとしていたからだ。

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