闇の牢獄にて

第28話 再会と決別

 春の陽気は大学構内にも及んでいた。

 人通りが少なめな研究棟に近い通路に置かれた色あせたベンチ。

 そこに沢渡と、姫こと斯波葵しばあおいは並んで座っている。

 誘ったのは姫の方で、静かに話せるということでここを選んだのが沢渡だった。

「変わったね、沢渡君」

 座ってしばらくの沈黙の後、彼女から切り出された言葉がこれだった。

「そうかな?」

「うん、すごく堂々とするようになった」

 おそらくPTSDの治療と性欲抑止チートのせいだと沢渡は思った。

 特に性欲抑止は、姫の言動にいちいちおたつかない心を与えてくれている。

「……いろいろふっきれたんだ」

 噓は言っていない。沢渡は心の片隅でそう述べていた。

「それで話って?」

「うん、あのままで終わるのは嫌だなって思ったの、あの時は私もどうしていいかわからなかったから、ほっとして受け入れちゃった。だけどね」

 沢渡には姫がふっと息を吐いたように見た。

「……私の親友がね、言ったの。葵は許してもらったんじゃないよって。ただ拒否されただけだから、許されたなんて思ってると思い上がりだよって」

 実際、彼女がなにかつぐなおうと悩み苦しんだ結果が、沢渡に悪い形で降りかかったのだ。なにもしてもらわない方がましだったのだからしかたがない。

「拒否したつもりはないよ。あの時はああするのがお互いのために良かったんだ」

 そう、彼女を好きだった沢渡の心もいけなかった。

「でも私は何一つ、沢渡君につぐないができてない。ねえ、私どうしたらいい?」

 彼女は顔を上げて、真剣な面持ちで沢渡に迫る。

 沢渡は、答えるのをためらった。沢渡はなにもして欲しくなかったのだ。

 たとえ彼女を好きな気持ちが残っていたとしても、彼女になって欲しいとは言わなかっただろう。そもそもそれができたら高校生の時の苦しみはなかった。

 沢渡は好きだという気持ちを投げ捨てられたことにしみじみと感謝していた。

 どうあっても彼女とは結ばれないのがはっきりとわかったからだ。

 沢渡は穏便な言葉を探して、考えを巡らしていると突然声がかかった。

「葵、なにやってるの?」

「美貴! あのね、沢渡君を見つけてね、どうしたら許してもらえるか教えてもらおうって」

 姫が顔を輝かせて、声の方を見る。それで沢渡にもわかった。

 そこにはとても背の高い茶色がかったボブヘアーで怜悧な目つきの中性的な女性がいた。

 「姫」の「女騎士」とあだ名されていた黒江美貴くろえみきだった。

 相変わらず女性なのに女性からの告白を受けるような怜悧なたたずまいというか、大学生になって制服を着なくなった分、パンツルックが似合ってボーイッシュ成分がマシマシで、同性愛成分がありそうな女ならイチコロのハンサムガールがそこにいた。

 その彼女が、姫の言葉を聞くと怜悧な顔を押さえて、やってしまったという表情をするのだから面白い。この女騎士、意外とリアクションが豊富なのだ。

 そして黒江は沢渡に視線を移すと、謝罪のジェスチャーを始める。

 沢渡はなんとなく理解したつもりになった。

 そして姫に向き直る。

「わかったよ、斯波さん。許す条件を話すよ」

 心は落ち着いていた。姫が真剣な表情になる。

「斯波さんがやってしまったことを忘れないこと。そして二度とやらないように気をつけること」

「……それだけ?」

「それだけ。でも気をつけないとまたやらかすよ」

「でも」

「僕はそれでいい。というか、これが本当の反省じゃない? 謝っても同じ事やるのはだめだよね」

 沢渡の言葉をかみしめているのか、じっと考えていた姫はやがて顔を上げた。

「わかった、沢渡君。忘れないようにする」

「ありがとう、斯波さん。じゃあ斯波さん、そろそろ行った方がいい。みんなが待ってるよ?」

 沢渡が向こうの方でちらちらと姫をうかがうイケメン達を指し示すと、彼女はうなずいた。

「沢渡君、許してくれてありがとう。じゃあ、いくね?」

 そう言うと彼女は小走りにイケメン達の方へ去っていった。

 手を振って見送る沢渡の側に、長身の影が差す。

「……ねえ、本当にあんなので許しちゃうの?」

「許せるものか……」

 黒江の言葉の返答は、血を吐くような沢渡の独白が返る。

「中学高校の六年、地獄だった。本当に許せるものか。言ってやりたいことはいくらでもある! 姫を殴り倒す夢すらなんども見た! 皆殺しなんかなんども空想したさ! だけど!」

「沢渡……」

「僕は許さないが中学も高校も捨てた。姫を好きだった気持ちも捨てた。全部なかったことにしてやる! だからっ!」

 沢渡の怒りと恨みにつりあがった目が、同情に揺れる黒江に向けられた。

「二度と姫……いや斯波を、そしてあの学校の奴らを、僕の前に連れてくるな!」

 黒江の態度は急変した。深々と頭を下げたのだ。

「ごめん、沢渡。姫が沢渡に許してもらった気でいたから、つい、違うって……。本当にごめん」

 沢渡は怒りで目の前が焼き切れるような気分を味わっていたが、それでも黒江を罵倒するには至らなかった。彼女だけはずっと敵にまわらず、変なおせっかいもしなかったからだ。

 そしてPTSDの治療が、いじめの記憶にも効いたのだろうが? 

 沢渡は六年間続いた怒りの悲しみの発作が、治まってきたのを感じ、そして黒江が頭を下げ続けているのに気づく。

「黒江さん、頭を上げてよ。あなたが謝る必要はないよ」

 のろのろと黒江は頭を上げる。その目は悔恨と悲しみにぬれていた。

「いいんだ。決別するために許したんだ。黒江さんも僕のことは忘れていい。お互い、無関係になろうよ。斯波さんとの楽しい大学生活に戻りなよ」

 最後の言葉は、沢渡の口が滑った程度のものだった。決別の言葉に入り込んだ飾りの類い。

 けれども……

「沢渡。私と葵は親友だし、私が沢渡へのいじめを止められなかったのは本当に悪いと思ってる。でもね、もう葵と私をセットにするのはやめて」

「え?」

「私、葵とは違う大学に行ったの。勘違いしないでね? 葵を嫌いになったわけじゃないわ。でも葵の取り巻きが、私は嫌いだった。葵のそんな取り巻きを許すところも気に入らなかった。だからなの。今のあの連中も好きじゃない。それでも葵に誘われて、沢渡の大学に行くって聞いたから、参加しただけ」

 彼女が目線で、姫が消えていった方を示す。

「でも、沢渡には悪いと思ってる。ねえ、沢渡。私も、その捨てたい過去? 決別したい?」

 沢渡は首を横に振った。黒江にそこまでの感情はなかったからだ。

 それだけで黒江はひどく思い詰めていた瞳をゆるめた。

 そして先ほどの斯波との浮ついたものではない、本当にリラックスした空気が流れた。

「……沢渡。電話番号教えて?」

「……僕の?」

「うん、姫と高校の連中には教えていない裏垢のSNSに登録するから」

「面白いことなにも書けないよ?」

「いい。沢渡が元気だってわかるだけでいい。あ、言っておくけど恋愛とかそういうのじゃないから」

「いまさらなにを言ってるんだよ。……ほら」

「サンキュ」

 そう言うと黒江は、りりしいはずなのにどこかかわいい笑顔を浮かべたのだった。

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