竜へ至る鉄路(レイルウェイ)
第17話 キリクの日常
四月半ば
十七時半を過ぎると、一人の小太りの男が立ち上がった。
「では失礼します」
某社の某部署。周囲は残業を熱心(を装って)に続ける中、小太りの男はそれをまったく気にせず帰り支度を始めた。その男は、30才ほどであるが髪の毛はぼさぼさ、顔はアトピー性皮膚炎の影響で、赤いところがある。もちろん間違っても顔がいいという評価はできず、最大限に褒めても「いい人」どまりだろう。
「あー
さすがに課長がみかねて声をかけた。四月にこの部署に異動してきてから、この小太りの男は、まったく残業をしなかったのだ。
しかし課長の声に、叱責の色はない。
「そのだな、時間があるようなら、やっぱり名越君の指導もできないものだろうかね?」
「課長。それは余計なセクハラ騒ぎの元になるだけです」
名越と呼ばれた美しく若い女性同僚に、小太りの男はちらりとだけ視線をやると、また課長と呼ばれた30代後半の男に視線を戻しきっぱりと言った。
「君の気持ちはわかるが……」
「私は、山田君の指導をしております。名越さんの指導は、森下主任となっているはずです」
「まあ、そうなんだけどね」
「業務のほうも進捗は充分なはずです。横浜の件は、今週中に終わらせられます」
「いや、それは本当にわかっているんだよ」
課長は言いよどんだ。
この都築という小太りの男、見てくれは本当に悪いのに、仕事は抜群にできるのだ。
本来なら前の部署の課長が手放さない男だし、事実この男の前の部署の前任者はかわいがって使っていた。しかしそこの課長が女性に変わり、彼はその風貌で嫌われて、おまけにセクハラ騒ぎまで起こされた。社内調査でセクハラは狂言にちかい言いがかりだったのがわかりなんとか収まった……いや収まらず彼は異動を希望してすんなりと通ったのだ。
以来、彼は女性部下の指導も残業も一切拒否していたし、その無理を通すぐらいは業績をあげている。
「名越さんは、高田先輩と非常に親しかったようですし、私では代わりになれませんよ、課長。名越さんは高田先輩の指導のほうが良かったんじゃないでしょうか?」
「つ、都築君! わ、わかったから。お、おつかれさま。帰っていいよ」
「そうですか。では失礼します」
そういうと小太りの男は去った。
それを見て、課長は胸をなでおろし、その他課員もやはり同様に安堵の表情を浮かべた。
高田先輩というのは、名越と社内不倫をしていた上に、繁忙期に有休をとって不倫旅行を決行し、それをSNSに載せていた豪のものである。
なんとか極秘裏に処分をしたということに社内的にはなっている。もちろん課内では公然の秘密だったが。
名越は高田が独身だと信じてだまされた被害者という扱いで処分を逃れた。
しかし高田の代わりに来た都築の容貌を知ると「くそみそ」にけなしていた。
都築がロッカールームに入ると、30代初めのすこしきつい印象がある眼鏡美人が都築を追うように入ってきた。眼鏡美人は都築の名を呼び、都築は振り返った。
「話があるの。名越の指導のこと」
「森下さん、俺には無理ですよ」
「私だって無理」
森下主任と都築は見つめ合ったが、色気一つなく、怪しい雰囲気も立ち上らない。
「セクハラ騒ぎは同情するけど、定時で帰れる余裕があるなら、あの子の面倒見て」
「名越は俺の言うことなんか聞きませんよ。アトピーキモデブとか呼ばれてやる気が出るとでも? 無駄です」
都築は小太りの体で肩をすくめる。それはしかし見かけよりも強い拒否を感じさせて、森下と呼ばれた眼鏡美人はひるみそうになり、勢いでごまかした。
「こっちだって、ババア呼ばわりされてるわよ」
「森下さんはきれいですから名越は嫉妬して言ってるんですよ、きっと」
「それ、あたしの目を見て、もう一度言ってごらん?」
都築は目をそらさなかったが、もう一度言うことはなく、代わりにあからさまな作り笑いを浮かべた。
誠意のかけらもないナンパ男より軽い美人呼ばわりとその後の表情に森下は軽く怒りを覚えた。
「ほんと、都築は性格悪いね。協調性とか知ってる?」
「業務は人並み以上やってますし、山田の面倒も見てます。実際山田はだいぶん使るようになったでしょ? そもそも半年もあったのに山田をろくに育ててないとか、いったいなにやってたんです」
思わず口をついたいやみに、痛いところを突き返され、森下は責任転嫁をはかった。
「エロ田が名越を贔屓して、山田を放置したのよ」
「協調性があるなら、森下さんが高田先輩の代わりに山田を育ててやれば良かったんですよ」
「そういう屁理屈はやめて。私だってエロ田のせいでいろいろとばっちり受けたんだから」
痛いところをがっちりついてくる都築に、森下はひるみ、愚痴をこぼす。
「森下さんが指導するはずだった山田は、俺が引き受けたでしょ? 名越は任せます」
「だーかーらー!」
森下は、男受けする美貌の名越と合わないのを自覚していた。むしろ仕事できないくせに男にくっつくことばかりがうまい女が嫌いだったし、だからといって山田という要領の悪いできない新人の男も嫌いだった。
目の前の都築は、確かに仕事はできるかもしれないが、女の扱いが最低だと思った。
「はあ、もう。じゃあ名越にイケメンがいそうなところへ異動願い書かせればいいでしょう? それぐらいは森下さんがやってくださいよ」
仕事できるんだからすこしは私を助ければ良いのに、顔が悪い分、察してやってくれればいいのにと森下は思ったが、都築はかたくなだった。
「……わかったわよ。にしても、都築。あんた本当に女に冷たいわね。ただでさえ外見があれなのに、その性格じゃ本当にもてないわよ。将来孤独死するわよ?」
「森下さん、会社は恋愛するところじゃないですから」
「じゃあ、都築は会社以外で恋愛できるの?」
「恋愛できないですよ。それがなにか?」
都築は、胸を張った。
森下はいやみが全然効いておらず、むしろ胸をはってることにめまいすら感じる。
都築は変人だと思った。仕事ができる分、とてもやっかいな変人。
「都築、女として一つ忠告。ひねくれてあきらめちゃだめ。あんたは性格悪いけど仕事できるしまじめだし頭もまわるんだから、外見をましにする努力をして、真面目に結婚相手探しなさい」
都築はなにかを言おうとして口を開けたが、すぐに頭をふって黙った。
森下は都築の言おうとしたことがすこし気になった。
「なにか言いたいの?」
「なにもないですよ。それじゃお先に」
きびすを返して、都築はロッカールームを出ていった。
森下は、釈然としないものを抱えながら次の手をうちに、課に戻った。
会社のビルから出て、都築はひとつ伸びをする。
「森下さん、きれいごとを言うのだけはほんとお上手。高田先輩にはそのきれいごとを言えなかったくせに。名越の面倒くらいみろってんだ」
ぶつぶつとぼやいて、そして都築はふと額を指で押さえた。
(それにしても、性欲抑止が思ったより使える。これほどとはな)
女性の美しさに影響されなくなった、気後れがなくなった、そうキリクは感じていた。
かつては美人に強く言われると負けてたのが、今では突っぱねることができる。
女性に対して心にもないおべんちゃらだって言るようになった。
性的なものをまったく意識しないから、女の美醜がどうでもよくなり、ゆえに天気の話と同じように適当に褒めることができるのだ。美醜を感じないからきれいですねと言っても嘘ではないという感覚があった。
その他にも、女性への複雑な思い入れが消えて、恋愛や結婚でのもやつくことや悲しみもすべて吹っ飛んだ。
(性的な人間でないということがこんなに楽だとは思わなかった)
「人生はシンプルに……か」
キリクはつぶやいて、会社のことについて考えるのをやめた。
元より会社の外に出たら一切仕事のことについて考えないようにしている。
足取りも軽く、キリクは家路を急いだ。
彼の本業は、VRMMOプレイヤーである。会社員は金策副業にすぎなかった。
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