第12話 恋が止まる、想いが止まる
「私には性欲がない。自分への人体実験の中で失われた。しかし、私には悲しみも喪失感もないんだ。失われた時から今までね」
晴れて青空の中、休憩所を爽やかな風がふきぬけた。
そんな小さな休憩所でクラテの言葉が、低くしかし明朗に響いた
「君達、君達には私は男らしくなく見えるかい?」
確かに痩身で、筋肉がついているとはいいがたい。けれど女らしいかといわれたら違う。
沢渡は首を横に振った。
「私の男性ホルモンは今もちゃんと出続けている。男として生きていることを実感している」
クラテは骨と筋張った手を伸ばし、握った。それは固そうで決して女のものとはいない。
「だが、女性に反応しないのだ。心も下半身もね。もちろんいうまでもないが、男性にも反応しない。そしてね、私自身にはそれを悲しむ心もないんだ。ただ平穏で透明な心のみが残っている」
クラテは手を顎の前で組んだ。
「この私の状態だ。この性欲抑止、もしくは非発情状態というチートを君達にプレゼントしようと思う」
沢渡もキリクも、いわれたことに理解が追いつかず、黙りこくった。
それを見てクラテはわずかに微笑んだ。
「まずは原理を説明しよう」
クラテは自らの両耳を両の手で左右それぞれ、横から指さした。そして話し出した。
性欲は視床下部--そう耳と耳を結ぶ線の中心あたりにあるところだ--そこの内側視索前野がアクセル、外側視索前野がブレーキという制御で動いている。
これのアクセルを踏むことに相当するものは、様々なものがある。男性ホルモンの一種、ジヒドロテストテロン。そして視覚触覚嗅覚などの刺激、さらには大脳皮質が生む想像、そして帯状回と呼ばれる部分が司るイメージ記憶。
一方、ブレーキは理性、体の状態悪化、恐怖などの激しい感情ぐらいしかない。
私はPTSDでの悪夢とフラッシュバックの減少に、性欲が利用できないか? ぶっちゃければえろい夢を見ればPTSDの進行を止められないか実験してみたのだ。
結果は失敗した。MDMAのような幻覚剤の効果や離人症の効果を再現する方が効果があったわけで、今ではそっちのやり方で治療している。
問題は、私は実験で内側視索前野を過剰に刺激してしまったため、ブレーキである外側視索前野がより強くブレーキを掛けるために肥大し、反対に内側視索前野は過度な興奮の連続で萎縮した。
これによって私の性欲はおそらく死ぬまで失われたままとなったのだが、体感としては突然賢者になったというべきだろうな。
初めはすこし戸惑ったのだが、だが私の年齢を考えたとき、このうえなく便利な状態であることに気づいたのだ。
なんせ女性に全く惑わされなくなったのだ。
その後さらに研究して、大脳皮質の運動野の神経細胞に外側視索前野へ接続されているものがあるのだが、そのニューロンを包んでいる星状膠細胞を、この我々が使っているダイブデバイスで刺激してやることで、意識スイッチを作り出せた。
これが、私のチートの正体というわけだ。
「まあ細かい仕組みは理解できなくてもいい。便利な機械の仕組みは大まかに知るだけでいいのだから。それより君達に考えてもらいたいのは、私の提案だ。よく考えて望まないなら拒否していい。ただ、私と違って君達には、性欲抑止をオンオフできるようにする。そして、さらにもう一つ、地味だがプレゼントするチートがある。こちらはなにも考えず受け取ってもらっても害はない」
キリクが考えを巡らせるような顔をしたあと、視線をクラテに戻す。
「……気前がいいようだが一体なにが目的だ?」
キリクが固い声で尋ね、クラテはそれに微笑んだ。
「簡単なことだ。どうしてあのドS妖女は、女の形をしていたんだろうね? それが答えだよ」
キリクと沢渡は顔を見合わせた。
「女の形?」
「そうとも。彼女は敵意がなければ美少女とぐらいはいえる顔かたちじゃなかったかな?」
キリクの問いにクラテは答え、沢渡はそれにうなずいた。
確かに悪夢だったが、彼女は醜いわけではない。
「そんな彼女に油断してやられた連中も多い。男性の性欲をついた作戦ってわけだ」
「それで?」
「君達はそれを破った。だから私は、君達が今後敵に狙われる可能性があると思っている」
沢渡とキリクの顔がひきつった。その可能性は全く考えていなかったのだ。
「そんなっ」
「……っ」
「敵の上手くいっていた作戦をぶち壊してなにもなしとか甘いんじゃないかい? かわいい女の子が君達に近づいて、いきなりズドンはありうると私は思うね。そんな状況下で女性に鼻の下を伸ばしているのは危ないのではないかと思うのだよ。もちろん、どうするかは君達次第だが」
沈黙が落ちた。
やがて声を発したのは、沢渡だった。
「クラテさん、少しキリクと相談させてもらっていいですか?」
「もちろんだ。じゃあ私は少し席を外そう」
そういうと、クラテは立ち上がり、本殿の方に歩いていった。
「正直、よくわからん提案だな。チートという割には微妙で、人をだますにしてももっと上手くやればいいと感じだ」
キリクの顔には困惑の色が強い。
反対に、沢渡は軽く興奮していた。
「いや、これはすごいんじゃない? 性欲の発動を止めることができるんだよ? 24時間賢者タイムだよ?」
「それはそうだろうけどな」
「僕達が襲われるかもってのは、それはちょっと神経過敏じゃないかなとは思うけどね」
「ああ、生き残ったのもぎりぎりで、ほとんど偶然だしな。狙われるほどたいしたことはしていない」
二人はうなずきあう。沢渡がさらに続けた。
「でも、チートの内容はすごいよ。恋愛とか結婚できない悩みとか、もてない悩みとか、オナニーの惨めさとか、全部無くせるんだよ? 痴漢とかセクハラとかそういうのからも自分を守れるし」
「まあ、それはな」
先ほどと違い、沢渡の興奮にキリクは同調していない。
「それに現実世界ならこんなことは無理だよ? キリクだっていってたじゃないか。現実世界でできることをここでやるなんてありきたりだって。現実でできないことをこのVRでできるから、価値があるって」
「それは確かにそうなんだが」
キリクの冷静さで、少し興奮していた沢渡も、落ち着きを取り戻した。
しばし沈黙が流れた。
「……ねえ、キリク。この性欲抑止ってさ、未練とか好きになっても仕方がない人への思いとか止められるのかな」
「尋ねてみるしかないが、あいつの様子をみるとできそうな感じだな。戻ってきたら尋ねてみればいい」
そう答えたキリクが、沢渡の表情に、少し目を見張った。
「……僕は、もう恋することも想うことも止めたいんだ。……だから」
泣き笑いの一歩手前、見る人がみればみっともない笑顔。でもキリクは、そこからあふれ出る哀切に言葉をしばしなくした。
「……そうだな。想いを止められるなら……」
キリクもまた嫌な過去を思い出す。
その根本となったあの感情は、いまでこそ遠い過去だが、それでも長くキリクに刺さっていた。
キリクは眼下に広がる街を眺めた。
「確かに、この俺達にとっては、チートなのかもな」
クラテが戻ってきたのは10分後だった。
「ふむ、他の精神疾患由来の偏執や執着だったら難しいが、けれどそうでない恋や愛の衝動なら、抑えられるよ。愛していた妻に浮気された男へ性欲抑止を施したことがあるんだ」
沢渡の問いにクラテの顔は微笑みながら答えた。
「自分でいうのもなんだが、劇的に彼は立ち直ったよ。冷めてみたらどうしてあんなに苦しんだんだろうって思うぐらいですって彼はいってた。財産分与を慰謝料で相殺してゼロにしてから、笑顔で寝取った男と握手して、元妻をよろしくっていって別れたらしい」
キリクと沢渡は、話のエグさに顔をひきつらせながら、黙って聞き続けた。
「その話を聞いた時は私も効果が強すぎたかなって思ったぐらいだがね。いずれにしても、いいか悪いかはともかく、未練とか残した想いなんてものは消えるし、私自身のものも消えた。それは間違いない」
そしてクラテは頭をひとさし指でこつこつとたたいた。
「信じられないかもしれないが、PTSDの治療と、失恋の苦痛軽減は、似ている部分があるんだ。私がこうなったのも、その類似点を追求したからさ。振り切るべき思いを適切に振り切るというところでね」
そうしてクラテが語り終えると、聞くべきことは聞き終えたともいうべき、弛緩した沈黙が漂った。
やがて沢渡が意を決して語りかけた。
「クラテさん、僕はクラテさんの提案を受けてみようと思います。ただ今はPTSDの治療中なんですが、大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。治療に影響はない」
沢渡の問いにクラテはうなずく。
「俺は、シュンが受けてから決めたいのだが」
「わかった。シュン君の様子をよく見て決めてくれ。去勢的な意味があるから抵抗感があるだろうしね 」
キリクの提案にもクラテは快くうなずいた。
「それと、もう一つのチートってのは? 気になるんだが」
続けてキリクが尋ねる。クラテは大きくうなずいた。
「うん、集中力を増強して、意識的に集中状態に入りやすくするものだ。私がPTSD治療の研究で考えたもう一つのアプローチで、治療には結びつかなかったが、研究はこれで大いにはかどった。地味だが役に立つ」
「こっちの方がすごいじゃないか」
クラテの答えにキリクが感嘆の表情をしめした。
そして沢渡は頭を下げた。
「クラテさん、ありがとうございます。プレゼント、ありがたくいただきます」
「こちらこそ、妙なものを受け入れてくれてありがとう。拒否されても仕方がないと覚悟していたんだよ」
クラテが手を伸ばし、沢渡が頭を上げて手をとり、握手が交わされた。
クラテはキリクとも軽く握手をした。
そして
「じゃあ、本殿に行こうか。実験設備がそこにあるんだ」
立ち上がった三人を、山だけが静かに見つめていた。
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