第18話

 崖下を覗き込むと、丁度稲荷大社の入口が見える。その向こうには広大な京都の街が広がっていて、陽光が雲間をじっくりと移動していた。誰もいないからか空気がやけに澄んでいて、晴れているのに雨の匂いがする。伸びきった草の合間には、小さな花弁が陽光を求めて首を擡げていた。

 明子は獣が人に変わりゆくのを始めて見た。それは一瞬の出来事で、骨格や、皮膚の色や、目の形まで全く別のモノに生まれ変わるようにも感じる。昨晩、人が獣になっていくのを眺めていたおかげか、衝撃的な驚きはなかったけれど、目の前の獣は奇人の姿の方がしっくりきた。見慣れているからかもしれない。現実味のなかった大きな獣の体躯よりは、成人男性の方が馴染みも深かった。下駄に濃い緑の着物も昨日と同じだ。顔の半分を隠してしまうへんてこな狐面も、きちんと後頭部で紐が結ばれている。淡々と見つめていると、奇人は「なんだ、やっぱり驚かないのか」と、少し残念そうな声を上げた。

 明子は京都の風景を瞼の裏に焼き付けてから、石段の中腹に腰を下ろす。ハイキングも、登山も、今まで日常には組み込まれていなかったから脹脛が、ぱつぱつ、と悲鳴を上げている。自身の運動不足を嘆きながら、翌日にやってくるだろう筋肉痛を覚悟した。そうしてぼんやりと見上げると、すぐに奇人のお面と視線が交わる。その下にあるだろう瞳を明子は見たことがない。

「オサキさん」と、気づけば勝手に声をかけていた。不思議なことに、奇人を見つめていると、やっぱり明子はどこか親しみを感じてしまう。

「ん?」

「お面の下は見せてくれないんですか?」

「君は直球だなあ」

 くすくす、と笑う声がする。地鳴りのような唸るような音は、もう聞こえてこない。聴き慣れた軽い口調だ。くつくつ、とこみ上げてくるような笑いを押し殺すように、奇人は肩を揺らしてから、返答の代わりに、着物の袖から伸びた手を後頭部に回す。

 長い指が狐面の鼻を押さえながら、ゆっくりと奇人の顔を隠していたお面が外された。既視感のある人の顔が現れる。切れ長で、どこか人を小馬鹿にしたような薄い笑みを浮かべている。弧を描く唇と一緒に下がる目尻と、まるで夜そのものであるような真っ黒な双眼が、明子を真っ直ぐに眺めていた。

「そういう表情をなさってたんですね」

 ほう、と溜息が出る。形や姿が違っても、仮面の下にあったのは奇人だった。見えていた口元によく似合う。それだけで、明子は小さく安堵する。

「恐ろしい怪物が現れるとでも?」

「まさか。オサキさんが、優しいのは知っています」

「本当は恐ろしい狐かもしれないぞ」

「優しくない人は、あんなに素敵な道案内をしてくれません」

 まるで幼い子供の脅し文句のように、口を少し大きく開けて犬歯を見せる奇人に、明子は苦笑する。仮面で隠れていると分からなかったけれど、薄い笑みを浮かべたままの唇とは対照的に、冗談と言うときの瞳は心底楽しそうに色づいていて、案外子供っぽいのかもしれない。

 かつかつ、と下駄が音を立てると、その分だけ奇人が明子に近づいてくる。数歩しかなかった距離を埋めるように、奇人の影が明子を覆い、人間にしては味気ないようで、随分と表情の豊かな黒い瞳に見下ろされる。本題に入ろう、と言うのだろう。吹き抜けていく空気が奇人の着物を揺らし、明子の髪を遊ぶように撫でていった。言葉ではなく、これみよがしに語る視線に、明子は小さく息を呑む。時に胡散臭くもある笑みに騙されそうになるけれど、奇人の唇や双眼は、言葉よりも豊かに物事を伝えてくる。

 沢山考えた思考を口に出すのは、存外にも勇気を必要として、色んな緊張が沸き起こった。それでも、予定を潰してここまで来てしまった。費やすはずの時間は、約束もしていない奇人に使うと決めている。明日には、東京へ帰る新幹線に乗らなくてはならない。時間は有限だ。

「オサキさん」

「うん」

「私は、まだオサキさんと一緒には、いられません」

「……だろうね」

 ぐっと堪えるような声が返ってきても、明子は奇人から目を離さない。視線を外した瞬間に、目の前の不可思議な奇人が、消えてしまうような気がしたからだ。ただ見つめ合ったまま、明子は言葉を探す。

 アルコールに呑まれながら、ぐるぐると思考を回して出てきたのは、まだ死ねないということだった。母の顔が思い浮かび、友人たちが脳裏を過ぎり、まだやっていない仕事が蘇ってきて、気づけばこの旅ではほとんど出番のないカメラを担いでしまっていた。

 最初から、そうだった。怪物に出会ったあの日ですら、何も考えられていなかったはずなのに、一歩を踏み出すことは出来なかった。理性的でも、正誤の回答を持ち合わせていなくても、何処かに逃げ出したい自身を抱えながら、踏み止まる自身もいる。

 諦念にも似た溜息が降り注ぐ。明子を見下ろしたままの奇人の瞳は、怒っているようにも、寂しさを宿しているようにも感じられる。

「決着はついたかな」と、奇人は押しとどめるように喉元を鳴らしてから言った。

 全てを見透かしているカミサマは、冗談のようでいて、どこまでも明子に優しさを注いでいる。出会い頭から、奇人は決して明子を否定することはなかった。だから、この決着は、明子の決心に対しての言葉なのだろう。

 明子が唇と開くと同時に、奇人が遮るように矢継ぎ早に唇を動かした。

「いや、良いんだよ。確かに俺は、その答えが俺の意に沿わないのなら帰れ、と言ったが、こうして言葉を交わした方が、きっと良かった。悶えるというのも、はじめて体験したけれど、随分と厄介だった」

「……見えているんじゃ、なかったんですか?」

「言っただろう。見るものかと顔を背けることも出来る。狐は意外に臆病なんだ。ああ、でも、知りたくない答えというのも、そういえばはじめてだった」

 君には、はじめてばかりを与えられているな、と奇人は口元だけで笑って見せたけれど、隠れていない双眼が焦ったような色を灯している。そうして、ようやく明子は、奇人が何か酷い思い違いをしていることに気づく。なんだか釈然としない。交えていたはずの視線が、いつの間にか合わなくなっている。

「だから、まあ気にしなくて良い。人間の恋情というのは、そういうものだと聞き及んでいるし、俺は君に無理を強いたいわけではないから……」

「オサキさん」

「っ……」

 まるでラジオのように、誰かに向けて語り続ける奇人を、今度は明子が遮った。自身でも少し驚いてしまうほどの大きな声が出てしまうと、珍しくも奇人の肩が揺れる。そうして、そろりと、何かを恐れるように、再び真っ黒な双眼が帰ってくる。

 決して視線を外さずに、明子は恐る恐ると、近い距離にある着物の袖から伸びた奇人の指に手を伸ばした。あまりにも人間と酷似した節榑立った長い指先が、明子の爪先に触れる。怖々とした手つきが感染してしまったかのように、奇人の指が小さく震えた。そんなことに小さな親近感を覚えながら、明子は包まれてしまいそうな大きな手のひらを、自身の小さな手で掴む。優しく触れながら、逃がさないと言外で語りかけた。

「……すまない。俺は、何か早とちりをしていた」

 ほう、と短く息を吐きながら、奇人は明子の手を優しい力加減で握り返した。重ねた手は、もう離れないような気がして、どちらが捕まってしまったのかも分からなくなる。互いの体温を感じられる熱だけが、じんわりと広がっていく。

「オサキさんは、乱暴です」

「……うん」

「私が頷いたら、オサキさんは、私から全部を奪ってくれるんだと思うんです。死んだら楽になれると思ってる私を、オサキさんはきっと楽にしてくれる。私達は、まだ知り合って間もないのに、全部引き受けてくれようとしています」

 不思議なことに、カミサマを名乗る奇人は、まるで叱られた子供のような表情をする。

「私、オサキさんのことちゃんと知りたいです。私は人間だから、貴方が何をして、何を思っているのか分かりません。この旅行で、貴方の世界に少しだけ触れて、私は、私が思っている以上に、ちっぽけな人間だって知りました」

 千里を見渡す力もない。一人でバーにもたどり着けない。たった一つのかけ間違ったボタンでさえ、上手く外せずにいるのに、正しい道を探して右往左往している。選択肢がいくつもある。正誤の問題を抱きながら、答えを導いてもそうじゃない、と言う自身がいる。逃げ道ばかり探している不甲斐ない自身を思い描くと、随分とスッキリした気分になった。時々苦しくて、逃げ出したくて、安直かもしれないけれど、何もかもを捨ててしまいたくなるのに、置いていけない自身が、どうしようもなく恥ずかしくて疎ましい。

 だんだんと言葉が喉に引っ掛かって、尻しぼみに声が小さくなっていく。きちんと伝えたくて、山道を歩いてきたはずであったのに、口から吐き出しているうちに、何を言いたかったのか分からなくなってしまったからだ。

 繋いだ手を見つめて、明子は必死に相変わらず忙しなく回り続ける思考を整理する。

「確かに」そんな明子を見かねたのか、僅かな声が頭上から降り注ぎ「人間は、ままにちっぽけだ。生ある者は、長い日々の一端しか知らぬものだから。だけど、私は君の、そういうところが面白くてたまらない」と、少し困ったように眉を下げて言った。

「私は面白いですか」

「面白くて、不思議だ。世界が世知辛いと言った口で、陽気に笑う」

 もう片方の空いた奇人の手が、明子の頭の上に乗る。まるで、母や父がそうしてくれたように、幼い子供をあやす手つきで、髪を撫でられた。それがどうにも心地よくて、明子はじっと奇人を見上げたまま動けなくなってしまう。視線がまた交わり、薄い笑みばかりを浮かべていた奇人の瞳が、柔く細められていく。

「だからかまわないんだ」

「え?」

「君が、世知辛さに耐え切れなくなった時に、俺は逃亡先でかまわない」

 聞いたことのない奇人の柔らかい声だった。そうして、その言葉は、やっぱり明子の全てを見透かして、暴いてしまう。心体の疲労に何かがぽっきりと折れて、どこかギリギリな感じがあるというのに、見えている道は単純な繰り返しの日常だった。何処にも行けず、曲がり道も、回り道も分からなくなっていた頃は、駅のホームにやってくる怪物に食われてしまうことだけが、唯一の逃げ道に思えてしまっていた。

 明子にとって、死はそういうものだ。

 伽藍堂になった思考が、唯一手に取れる手段でしかなく、それは酷く短慮で浅ましいのかもしれない。それでも、肉体を投げ捨てることだけが、救いに思えてしまう。何もかもが無くなってしまうことが、あの時の明子の逃げ道だった。

 木々の間を通り抜けていく風が優しく抜けていく。誰にも手入れのされていない社の前で、伸びきった花や草が揺れ、奇人の後ろの広大な空に浮かぶ雲がのったりと流れていく。まるで冷やされることのない体温が、揺れる大気に触れると心地よかった。

「それは……」と、明子は唇を震わせる。

 まるで衣服を脱ぎ捨てて、唐突に四肢を空気に晒したような心許なさと、整理しきれなかった思考を言い当てられた驚きが、衝動的に沸き起こる。

「大丈夫、俺には何も見えていない。まだ見るのが怖いんだ。だから、聞こう。人間の言葉に耳を寄せるのも俺の仕事だ。特に想い人の言葉なら、俺は不思議と聞きたいとすら思っている」

 言いながら奇人は膝を折る。まるで、普段は見えていないカミサマがそうしてくれているように、明子と視線の高さを合わせてくれる。ふざけてばかりの、冗談のような雰囲気は、いつの間にか消えてしまっていて、ただ背筋が伸びるような想いが明子の中に駆け巡る。

 本当に不思議だと、明子はこの旅行で何度も思ったことを、また巡らせる。奇人の言葉一つで、唐突に何もかもが揺らいでしまう。知り合って間のない男の声と視線が、明子の感覚を麻痺させ、次の瞬間には正常に戻してしまう。

 まるで、コロコロと変わる予想のつかない天気雨のようだった。

「本当に良いのでしょうか」

「どうして?」

「だって、それは私にとって、都合が良すぎます」

 普段は、なんでもなく出来ている言葉を選び、吐き出すということが、とてつもなく難しい。奇人はゆったりと腰を折ったまま、明子の手をしっかりと握り締めている。

「俺にとっても都合が良い。君が弱った時に、君がこの街にやってくるのなら、俺は君を迎えられる」

「……」

「明子は、生を捨てたとしても、人間は捨てられないのだろう? 君の眼は、そういう色をしている」

 まるで全てを見てきたように、奇人は柔い声のままだった。

 明子は小さく頷く。渦巻く思考の中にあるのは、現在の明子が何も捨てられなくなってしまっているということだ。それは自身の生命ではなく、とりまく現状だ。この世に赤ん坊として声を上げたときから、やってきたこと全てだ。時に母や父に愛され叱られて、時間がゆっくりと満ちていくように歩いてきた。やりたい仕事をしている自負がある。まだ返しきれていない愛情や恩が残っている。そうして、時々、その全てが疎ましく感じることもある。

 死を預けてしまっても、明子はきっと龍神夫婦のようには、まだなれない。全てをオサキに差し出すことは出来ず、それでも逃亡先なんていう言い訳をするほどに、持て余している恋情が胸中にあった。

 なにもかもから離別は出来ない。それなのに正しい選択が分からない。

 奇人の言うように、それはきっと死と同等であるだろうから。

「俺は、かまわない。君が捨て置けないものを後生大事に抱えたとしても、俺が君に望んでいることの同等にも満たないだろう」

「どういう意味ですか?」

「君が首を縦に振れば、俺は領分の違いを正す為に、君の死を与る。そこに生命はないんだ。今の君が、君の日常に戻ったとしても、いつかは瓦解する。君の恐れていることが先延ばしになるだけだ」

「よく、分かりません……」

「いいか、明子。君の領分を俺に寄せるということは、いつか君ではなく、君の周りが死へ歩むということだ。俺がそうしてきたように、君はそれを眺めるしか術はなく、そういうことが永遠に続いていく。俺は君に、そういうことを望んでいる」

 明子は、まるで唐突なゲリラ豪雨に遭ってしまったように目を丸くする。それは、最初から分かっていたことだったはずだ。領分が違う、と奇人が明かしてくれた時から、人間を眺めているしかないのだと聞き及んでいた。だから、バーで顔色の悪い客に彼らは声をかけないのだと、教えてもらっていた。

 それも何処か現実味がなかった。想像だけを膨らませ、実感を得たような気になっていただけで、事実として明子は、突きつけられたような言葉に驚いている。しかし、明子は知っている。生きていても、それはいつか訪れることだ。死へと歩んでいる限り、遅い早いかの違いでしかなく、いつかは誰かとの別れる時がくる。それは摂理だ。人間には、どうしようもない自然の流れだ。ここで奇人の言葉に耳を寄せていなくても、もっと齢を重ねた頃に、明子は一人になってしまうのかもしれないし、誰かを一人にしてしまうのかもしれない。その時の自身が寂しさに塗れているのか、それとも人生の経験を積んで達観しているのかも、明子には分からない。

 まるでちぐはぐだ。明子は自身の望みを卑怯だとすら感じていて、奇人もまた口にした望みに自責の念を抱いている。願いは、きっと同じはずなのに、不可思議だ。

 互いの持て余した熱情と心地よさを引き換えに、すり合わせなくてはならない。これもきっと、人間でない奇人と、カミサマでない明子の、どうしても埋まらない領分の違いなのだろう。

 明子は、煙草を吸うときのように深く呼吸をした。

「オサキさん」

「うん」

「少しだけ。少しの間だけ、私に狡さを行使させてくれますか?」

 死をいう逃げ道を、この街と奇人に預けてしまうことを許して欲しい。

 明子には、自信がない。真っ直ぐに前だけを見つめて、疲れも恐れも知らずに、小石に躓かずに歩ける気がしない。上手に生きていくことも、きっと出来ず、またあの怪物に一歩を踏み出そうする日が来るだろう。かといって、何もかもを置き去りにすることも出来ない。そういう身勝手さを持て余している。

 それでも、離れ難かった。この街から、もう二度と出会えないかもしれない目の前の不可思議な男と、このまますんなりと納得をした別れを切り出せる気もしなかった。携帯番号すらも知らず、何をして、何を考えてそこに在るのかも掴みきれない男を、遠ざけてしまうことが惜しかった。

 明子が真っ直ぐに見上げると、不意に握り締めていた手を引かれる。階段に座っていた明子の尻が持ち上がり、顔が滑らかな布に衝突する。後頭部の髪が撫でられたかと思うと、押し付ける力が少しだけ強くなる。視界の端に濃い緑の着物が見えた頃に、ようやく明子は、自身が奇人の胸に飛び込んでいることに気づいた。ぐっと、体温が上がる。男の胸に抱き留められるなんてことは久々で、妙な羞恥心が沸き起こってくる。それなのに、奇人の胸からは鼓動の一つも聞こえない。血脈が巡っているように温かいのに、心臓は動いていないようだった。

 決定的な差が浮き彫りになったのを耳で感じて、明子は衝動的に反抗しかけた腕を奇人の背に回す。

「俺にとって、八十年はあっという間だ」

「私にとって、これから誰かの死に立ち会うのは、今までと何も変わらないことです」

「君の街に俺も足を向けよう」

「また京都に遊びに来ます」

 埋まらない溝を埋めるように、ちぐはぐなことを言いながら、抱きしめ合う。ぴたり、とくっついた身体に隙間はないのに、どうしてだか少しだけ遠くに感じる。言葉だけでは埋められず、歩くだけでは近づかない距離がもどかしい。それなのに、耳を擽るような、奇人の低い音吐が心地よかった。まるで人間同士がそうするように、戯れるような言葉を重ねていく。自身の歩み寄れるものをひけらかしながら、そうして暫く抱き合っていた。

 互いに差し出せるものが無くなってしまった頃、奇人の広い手のひらが明子の頬を掬い上げた。つられるように顔を上げると、今までもよりもずっと近くに奇人の顔がある。

「好きだよ、明子。俺が言うと、人間の真似事でしかないのかもしれないが、こういう想いもはじめてだ」

 恥じ入ることもなく、真っ直ぐに見つめられて、奇人の言葉が降り注ぐ。照れてしまうのは明子の方だったけれど、それでも加速していくような気がした。頬に当てられた手のひらに、猫のように擦り寄って、明子は目を細める。

「私も、オサキさんが好きです。あ、でも、痛いのは嫌ですよ」

「大丈夫だよ」

 カミサマが人間を慈しむように、奇人の瞳も細められる。唇が弧を描き、ゆったりとした動作で後頭部にあった手が背中へと滑り落ちていく。連鎖するように明子に影が落ちてきて、弓なりの唇が重なった。どうしようないちぐはぐさも、これから起こるだろう様々な問題すらも、吸い上げてしまうような口付けを受け止める。背に回した腕に自然と力を込めると、同じ分だけ太い指から返ってくる。

 決して交わることのない領分が違う不可思議な奇人の隣に、明子はようやく並んだような気がした。 

 雨が降る。

 冷たくもなく、糸のように細くて、音もなく落ちてくる雨が、広大な青空からゆっくりと降り注いだ。

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