第19話

 今日も今日とて忙しい。

 長期休みの間に溜まったメールの整理や、大量の京都土産の配布に、これから撮影しなければならない製品のスケジュールを立て、休んでいた間に起きた小さなトラブルの報告を聞いているうちに、気づけばもうすぐお昼休みだ。それなのに、明子は少しだけ気落ちしていた。今後の方針とスケジュールの確認をするために、上司と各階に備え付けられているミーティングルームに入ったまでは良かったのだけれど、どうにも会話の雲行きが怪しくなってきている。

「いいよなあ。俺も有給取りたいわー」と、聞こえるように届く声は、対面に座った上司のものだ。

 京都旅行の感想から始まった雑談は、いつしか有給申請をした明子への嫌味へとすり替わっていた。

 明子のいる部署は、カメラの専門的な技術が必要で、それゆえなのかどうにも万年人手不足が続いている。抱えすぎている案件の多さと、スタジオと会社を行き来しながら、事務作業もある多忙な環境で、器用にこなせるようになるまでは時間がかかる。そうしているうちに一人、二人、と去っていく。明子も、目の前の上司も、生き残った側だ。忙しさに振り回されながら、何度もシャッターを押して、足を動かしてきた。余程のことがなければ有給は使わない。そんな暗黙のルールが部内には蔓延していて、今まで明子もその不文律を守ってきた。京都に行こうと決めた時に、始めて有給申請をしたのは、疲れていたからだった。

 お盆の代わりの、時期の外れた長期休みにプラスしての、二日ほどの有給に対し、上司である男は目くじらを立てているのだろう。小腹が空いたと、明子の持ってきた京菓子に手を出していた姿は、もうどこにもない。

 渡された今後の納期の記された資料に目を通しながら、明子はたはは、と乾いた笑みを浮かべる。床をよく滑る回転式の椅子に腰を下ろしてから、もう随分と時間が経っていた。時々挟み込まれる嫌味をスルーして、明子はリストを追っていく。

「誰かさんが有給取ったおかげで、こっちはてんてこ舞いだったからさぁ」

「すみません。ありがとうございます」

 今日は一段とご機嫌斜めの上司に小さく頭を下げる。

 有給申請は労働者の権利に過ぎず、本当に忙しい時期は外しても、事実として明子の抜けた穴を埋めてくれていたのだろう。大抵の先輩たちは「ゆっくり休めたか?」と、親しみのある笑みを浮かべ、京都から帰ってきた明子を迎えてくれたけれど、会社というのは時に、こうして馬の合わない人間も存在する。タイトなスケジュール、人員の不足、補いたくても一人抜ければ、何処かできっと無茶が出てくる。悪循環をなんとかしようと採用枠を増やしても、結局長期的に人数は増えない。だから、明子の抜けた穴を埋めてくれていただろう上司に、胸中で感謝という文字が浮かんでいたけれど、どうにも口で真っ向から攻撃を受けると、ひねくれてしまう。人間とは、本当にコロコロと天気雨のように気分が変わるものだ、と明子は実感する。

 それでも、明子が望んで入った業界であるのだから、多少のことでは揺るがない。入社当時は、半べそになっていた気の合わない人間の些細な意地悪も、今となっては蝉や雑踏と同じレベルの公害でしかなかった。

 しかし、そろそろヤバイ、と胸中で警報が鳴っている。それは落胆や、失望や、憤りと言った類の憂慮ではない。饒舌に動く上司の口を、なんとか閉ざしてしまわなければならない。そんな使命感に似ている。いい加減に仕事の話を進めよう、とぼんやりと見つめていた窓の向こうから視線を戻す。そうして、ほとんど聞き流していた心無い言葉を止める術を模索する。その間も、忙しい忙しい、と喚くような嫌味の連鎖は止まらなかった。

「いやさぁ、別に有給だって当然の権利だし。悪いことじゃないんだけどさぁ」

 明子が口を挟もうにも、フラストレーションが溜まっているらしい上司の唇は止まらない。

 少し強引に割り込もうと、明子が唇を開いたときだった。

 唐突に、ミーティングルームの蛍光灯がチカチカと点いたり消えたりして、向こう側には何もないはずの壁が、まるで誰かが叩いているようにノック音が響き出す。地震が起きたわけでもないのに、資料を乗せた机がぐらぐらと揺れ始めた。

「な、なんだ!?」と、驚嘆の声がミーティングルームに轟く。見れば、上司が慌てたように立ち上がり、不可思議に動く机や、チカチカと点灯する蛍光灯を見上げている。

 その間にも、どこかで空気の破裂した音が室内に反響し、机の上の資料が風もないのに落ちていく。誰も座っていない椅子が、無造作に倒されて、いくつもの大きな音が連鎖する。明子は、驚いたように目を見開いていた。慌てる上司がわなわなと震え、怯えるように悲鳴を上げているのが見える。今までの嫌味はどこへ行ったのか。まるで唐突な事故や災害が起きたみたいに、上司は壁際に身体を寄せ、なんだか分からない言葉を吐き出してた。

「あ……」

 明子が声を上げると同時に、柱にかけていた時計が十二時を示し、昼休みを告げるチャイムが鳴る。

「あ、えっと。先輩、続きは午後からにしましょう。私は先にランチに行ってきます」

「は!? お前、この状況で……」

「それでは失礼します!」

「あ!? おい、コラ!!」

 まるで怯えた顔をした上司を振り切って、明子は自身に配られた資料だけを持ち、逃げるようにミーティングルームを飛び出した。

 ポルターガイストのような不可思議な現象は、そのうちに収まるだろう。足早でデスクに戻り、三段の引き出しから鞄を取り出す。明子と同じように、チャイムを聞いてデスクに戻ってくる仲間達に、軽く挨拶をしながら、一目散にエレベーターに乗り込んだ。

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