第17話

 多くの鳥居の下を進んでいく。珍しく誰もいない千本鳥居の連なる参道は、どこか寂しげで、京都にいるはずなのに、まるで知らない場所のような不安感が沸き起こった。

 昨晩、バーのマスターに奇人の場所を問いかけると、答えは案外簡単に返ってきた。京都の狐といえば伏見である。稲荷大社の総本山に奇人の住処がある、と柔和な笑みのままマスターは言った。

「本当にカミサマだったんですね」明子は多少の驚きを隠さずに呟き「なんだか、ますます分からなくなってきました」と、アルコールを飲み干しながら漏らした。

「まあ厳密には、シズネはんとこの水神様のようなもんでは、ないんですけどねえ」

「違いがあるんですか?」

「長寿の狐はそれなりの力を持ちはるもんです。まあ、それは狐だけやのうて、狸でも人間でも同じかもしれませんけど……オサキはんの場合は、元々この土地に根付いたもんですから、どちらかと言えばシズネはんのような、キイチはんのようなもんに近いんとちゃうかなあ」

「土地に根付く?」

「まあ、私らにとっては、どちらでもそう違いは感じてへんのですけれど。命があるか、ないか。尺度はそこしかありしまへん」

 だから愛については難しいんですよ、とタケキリは目を細めて笑みを浮かべ、明子にまた新しいグラスでカクテルを出してくれた。

 つまり奇人は、厳密には、カミサマというわけではないらしい。それでも日本には、古来から八百万のカミサマがいるというのだから、心根の変わったカミサマがいても可笑しくはない。どちらにせよ、人智を超えた奇々怪々な現象を目の当たりにしてしまったら、明子にとって、それはカミサマであろうとなかろうと、自身とは全く別次元であることには変わりなかった。

 鳥居の下を歩き続けていると、長く続く石段が見えてくる。段の高さは低いけれど、頂上まで登るには、きっと苦労するだろう。参拝者用に作られた道であるのか、土の坂を踏みしめていくよりは負担が少ないのかもしれない。それでも、普段は都内の通勤ぐらいでしか足を使わない明子は、登るたびに脹脛が重くなっていきそうだった。京都は歩くものだと心に決めて、スニーカーを履いた足を持ち上げる。木々に囲まれて影の多い参道は、街中よりもずっと涼しい。夏の残した気温を肌に感じながら、明子はゆっくりとマイペースに足を進めていく。

 不思議なのは、前にも後ろにも人がいないことだ。稲荷大社は京都でも有数の観光地であるはずなのに、雨が上がってから麓のお土産屋の店員と、社寺の人にしか会っていない。

 明子には、この感覚に覚えがあった。

 寒々しいほど人間の気配のない空間に迷い込んでしまった不安感は、嫌というほどに昨日感じたものだった。じわりと浮かぶ汗が、山登りで上がった体温のせいなのか、それとも焦燥感からなのかは分からない。昨日と違って視界はクリアだ。前方が見えなくなるほどの靄も霧も見当たらず、雨上がりの湿気た空気だけが、のったりとその場で沈殿しているように肌を包んでいる。それでも自身の歩いている道に現実感はない。まるで同じ風景の映画の中にいるような感覚に、明子は足を止めた。

 手に持っていた鈴を無意識に握り締める。金属の感触を確かめながら、深く息を吸った。

「オサキさん。いらっしゃるんですね?」

 確信めいた口調で、明子は道を外れた木々の向こうへと声を投げつける。こういうことが出来るのは、領分の異なる者であることを、明子はもう知っている。

「うん」

 どこからともなく返事が耳に届き、がざり、と草が音を立てて揺れた。

「……オサキさん、ですか?」

「驚いた。驚かないのか」

 明子は瞬間的に目を見開いたものの、昨晩の経験のおかげか落ち着いた声音で、木々の向こう側へと視線を向ける。そこにいたのは、冗談のような口調が特徴的でよく知った声の、真っ白で大きな獣だった。大型の肉食獣よりも、まだ大きい。白磁の体毛に覆われていて、尖った鼻と耳でかろうじて狐のようにも見える。顔だろう体毛の一部が朱く変色していて、まるで歌舞伎の隈取のようだった。長い牙と大きな口がにんまりと笑っているようで、明子なんて一呑みに出来そうだ。昨晩見た化猫の体躯よりもずっと大きい。もしも、昨晩までの奇々怪々な出来事を体験していなかったら、明子は悲鳴を上げて逃げ出していたかもしれない。その獣が奇人と同じ声でなかったら、明子は呼吸すら忘れていただろう。

「お稲荷さん、なんですか?」

「そう呼ぶ者もいるが、まあそうでもないような者だよ。形は狐ではあるけれど、それも詮無いことだ。人間にもなれる。狸や天狗や猫にも化けられる」

 曖昧なんだ、と奇人はすこし得意気に笑った。

「昨晩、バーに行きました」

「ほう。今の状態でたどり着いたのか。大したものだ」

「キイチさんとシズネさんが、案内してくれました」

「なるほど。この街は噂が回るのが早いからなあ」

 感心したような口調の大きな狐が喉を鳴らすと、唸り声のような地響きが空気を震わせる。奇妙な姿を明子はじっと見つめたままだ。

「オサキさん」

「うん?」

「私、沢山考えました」

「うん」

「あと、ちょっと怒ってます」

「うん」

「だから、ちゃんと聞いてください。言い逃げはなしです」

「うん。だからこうして、ひょっこり出てきてしまったんだ」

 おいで、と狐が明子を誘う。一歩を踏み出せば道のなくなる茂みの中で、狐の姿をした奇人が待っている。明子は躊躇せずに、雨に降られたばかりの泥濘んだ土をスニーカーで踏みしめ、水滴を残す草葉にTシャツを濡らす。木々に隠れきれていない明子を踏みつぶせそうな前足がのったりと動き出す。重量を考えれば、地面を揺らしそうであったのに、奇人が動いても足音の一つも聞こえなかった。落ち葉を踏んでも、濡れそぼった土が跳ねても、柔らかそうな毛は汚れることもなく艶やかなままだった。

 明子が追いつくと、奇人は大きな体躯を翻す。まるで白い小山が動くような感覚だった。

「オサキさんって、尻尾はないんですか?」と、石階段よりも歩きにくい急斜面に足を取られながら明子は言った。白く大きな獣を見つめながら、奇人との会話を思い出したからだ。

 横をのったり歩く獣は、狐というには尾が見当たらない。尾が裂けているから「オサキ」ではなかったのか。もしかしたら、それも冗談だったのかもしれない、と明子はなんだか冷静に思考を回してみる。

「いつの間にか無くなってしまったんだ」

「昨日は尾は裂けているから、オサキと言っていました」

「嘘じゃない。俺の尾は見事に避けていたから。長く在ると狐の尾は裂けるんだ。今だってやろうと思えば、尾ぐらいは簡単に出る。それで、多分裂けている。一本に纏めることも出来る」

「生えるんですか?」

「生やそうと思えば、いくらでも」

「……面白いですね」

 大きな獣のお尻に、太く柔らかな毛で覆われた長い尻尾が生えているのを想像する。それは奇人の言葉通りに何本かに分かれたり、一本になったりする。まるでアニメーションのような想像が明子の脳内を駆け巡り、なんだか楽しくなってしまう。くつくつ、と肩を揺らすと、先の方にあった隈取のある鼻先が振り返る。

「俺は面白いのか」

「面白いですよ。少しだけ不思議で怖くもありますけど」

「俺からすると、明子の方が不思議だ」

「なら、私達はお互いに不思議同士なんですね」

 斜面を横に進みながら、明子は笑った。多少ヤケクソな気持ちもあったけれど、お互いのことをほとんど知らないのに、やっぱりなんだか楽しくなっている自分がいたからだ。道のない土の上を歩くなんて、いつぶりなのかも分からない。小さい頃は、好奇心に襲われて木々の中に突撃していたけれど、大人になってからは舗装のされた道を選んで歩いていた。小風に揺れる木々の音に耳を澄ませることを忘れ、雨上がりの水分を含んだ土の匂いよりも、陽光に焼けたアスファルトの匂いの方が傍にあった。

 奇人には、いつも静けさがまとわりついているようだった。雑踏に紛れる足音や車のエンジン音は存在しない。唸る電車の轟音も、きっと奇人の耳には届いていないのかもしれない。

 夜闇に紛れる汽笛のような音を鳴らす怪物は、奇人の隣を歩いている時だけは、まやかしだったような気さえする。正誤の問題が積み重なり身動きが出来ないはずであったのに、耳に残る雨音を引き裂いて、乾いた埃臭くて生暖かい風を引き連れてやってくる。棺桶のような電車の前に飛び込もうとした。秘匿すべき恥ですら、静けさに耳を寄せていると、ただの悪夢に思えてくる。

 静寂が穏やかであることも、明子は忘れていた。

「オサキさん。一昨日は、どうして声をかけて下さったんですか?」

 ほう、と肩を通り抜けていく小風に頬を撫でられながら明子は問いかける。二条にあるバーにやってくる人間に、奇人は声をかけないと聞いた。それなのに、自力でたどり着いてしまったバーカウンターに腰掛けていた明子に奇人は親しげに話しかけ、友人である龍の憤慨を披露してくれた。思い返せば、それが始まりだ。千里の彼方まで見通せるという奇人は、こうなることが分かっていたのだろうか。不可思議を目の前にしている明子は、なんとなく奇人に期待をする。

「……煙草を切らしていたから」

「へ?」

「俺は酒を飲むと、どうしてだか煙草が吸いたくなるんだ。アレは不思議で面白いが、一昨日は持ち合わせがなくてね」

 明子が転げ落ちないように、斜面の下側をのったりと歩く獣は、恥じ入るような声を混ぜている。明子は瞬間的に口を輪ゴムのように開いてから、また肩が震えた。期待通りではない返答が、あまりにも日常的であったからかもしれない。気づけば落胆よりも、領分の異なると豪語した奇人に共感している自身がいる。

「オサキさん。人間っぽいです」

 隠しきれない笑みをこぼして言えば、奇人は返答を寄越さなかった。もしかしたら恥ずかしがっているのかもしれないし、侮られていると拗ねているのかもしれない。秘匿したかった事実を暴かれてばかりだった明子は、少しだけ気分が良い。どうやら奇人は嘘を吐かないらしい。バーで出会ってから、不可思議なことばかり言うけれど、そこにきっと嘘はない。

「俺にだって、好ましいものぐらいはあるさ」

「だからきっとオサキさんは怖くないんですね」

「ん?」

「私の身近にいる怪物は、そういうのなさそうでしたから」

 迫ってくる電車の影を思い出しながら、明子は笑う。生き物のように轟々と音を立てて駆けてくる怪物は、もっと無機質だったような気がする。

「ああ、世知辛さとは、目に見えないものだからなあ」

「あの日の雨も冷たかった気がします。死の向こうに何もないような気がして、私は怖かったのかもしれません」

「君たちにとって、死とはそういうものだろう? 生きる者は往々にしてそういうものだ」

「でも、オサキさんは、私に違う死をくれるんですよね」

「俺が与るだけだよ。君の死を」

 そこで獣の歩みが止まった。明子も動かしていた足を制止させる。膝が笑いそうになっていて、随分と獣道を進んできていることに気づく。大事なところではあったけれど、明子は視線を上げる。すると、並ぶ木々が途切れていて、どうやらそこで森は終わりのようだった。丘のように盛り上がっていて、数段のひび割れた石段が静かに佇んでいる。奥に視線を動かすと、手すりも柵もなく崖になっていて、京都の街が見えている。まるで展望台のように高い場所であることが、その風景で分かる。

 そうして、崖の手前と鳥居の丁度中間に小さな社があった。もう何年も手入れをしていないのか、足元には苔が生え、草が伸び、木造りの神殿はギシギシと軋んでいる。それでも、社には鈴がついていて、気持ちだけの賽銭箱も置いてあった。

 空気が流れ、頬を撫でる冷たさに背筋が伸びる。

「俺の住処だ。ようこそ、明子」

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