第16話

 一番に思い出すのは母の顔だ。

 アルコールに浮ついた頭が、ホテルのスプリングの硬いベッドの中で、ぐるぐると思考を回していた。ふわふわとした心地に睡魔が寄ってくるのに、あまりにも冷静で落ち着いている。

 それは今まで見て見ぬふりをしてきた怪物のことで、何度も、あの日の駅のホームに明子を立たせた。雨が降る。ぽつぽつ、とした雨粒が屋根にぶつかって音を立て、風に流されて揺れるカーテンのようにホームに入ってくる。雨音を吹き飛ばす軋んだ轟音と、汽笛のようなブレーキの音が、目玉のようなライトを光らせて、明子を目掛けて走ってくる。

 あの時の明子は、何も考えていなかった。理性的に思考すべき脳は疲労に侵食されて腐食し、なんの為だとか、誰の為だとか、そういう何もかもが、雨に押し流されていて、ただ本能的な眠さと逃げ出したいという欲求が、足を動かそうとしていたように思う。毎朝の通勤のように、ただ一歩足を踏み出すだけだった。その数歩だけで、明子は「楽になれる」と考えていた。グダグダに疲れた体も、何一つ上手く出来ない自身も、消えてしまうだけだ。まるで風呂場のカビを落とすような、潔ささえ感じていた。

 ふかふかの枕に顔を埋めて、近寄ってくる睡魔が見せるあの日の夢に、ハッと閉じかけた瞼を押し開く。アルコールの抜けつつある体がだるくてたまらずに寝返りを打てば、ホテルの簡素な天井が、電気の消えた薄暗い部屋の中にぼんやりと揺らいでいる。

 電車のドアの開く音が鳴り響いた時の恐怖が、ぐずぐずと足元が這い上がってきた。嫌な汗が首を伝い、途端に寝苦しさを感じて、明子は上体を起こす。そのままベッドから降りて、電気も点けずに室内を彷徨って、備え付けの小さな冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。

 ――どうして、あんなことをしたのだろう。

 考えても、結局答えはいつも同じだ。忙しくて体も精神も摩耗していた。理性的に正誤の問題が解けなくなっていて、目の前の何かすらも見えなくなって、色んなものが頭から抜け落ちていた。ただそれだけで、人は死への一歩を踏み出すことを、明子は痛感している。忘れようとして、リフレッシュの旅行にやってきた。だから、奇人に暴かれて焦ってしまった。そんな自身が恥ずかしく思え、未だ右往左往しながらも、時々死んでもいいと、脳に過ってしまうのを見透かされていることに、明子は清水寺から身を投げてもかまわない自身がいることに気づいてしまったからだ。

 それなのに、京都の街を歩き回り、見知らぬ誰かと知り合って、不可思議を目の前にした。思い描いていたリフレッシュ休暇とは、全く違った旅だったけれど、酔いの覚めつつある頭でも「悪くない」と思えてしまう。まさか、忘れるどころか掘り起こされるとは思いもしなかったけれど、きっと良い機会だったのだろう。いつかは自身の中で、決着が必要だったのだろう。

 そうして、考えることが増えた。思考を費やす問題が積み重なっている。それなのに、随分と頭の中は冴えている。

「不思議だなあ」

 明子は冷たいミネラルウォーターを喉に流し込んでから、誰に言うでもなく呟いた。

 この年齢になって、まさか生死について頭を悩ませるなんて、思いもしなかった。人は生きて、いつかは死んでいく。当たり前のことが、明子には、まだ遠い日の出来事だったはずだ。あの駅のことさえなければ、明子は死の匂いを身近に感じることなんてなかったはずだった。

 死の淵に、本当に踏み込んでしまったら、一体どうなってしまうのか。

 明確な答えは用意されていない。死人は語らず、何も体現せず、煙になって土に還っていく。だから、誰もその先を知らない。少なくとも、生きている者はみんな平等に死について何も知らない。それでも、もしも自身が――そういうことを考えてみると、今はまず母の顔が思い浮かぶ。次に友人と残してきた仕事のこと。まるで走馬灯のように、そういうものが次々に浮かんでいく。

 何かを上手く出来なくても、母はきっと笑い飛ばしてくれるだろう。友人たちは「下手くそ」だと冗談みたいに笑って、慰めるように一緒に酒を飲んでくれるに違いない。もしもあの時、実家に電話をしていたら。誰かより何かが上手く出来なくて立ち止まった明子を、実家の母は「馬鹿ねえ」と笑ったのかもしれない。上手く出来ない自身が恥ずかしくて、誰にも言えなかった愚痴をこぼしてしまっても、もしかしたら誰にも責められなかったのかもしれない。

 ベッドに腰掛けて煙草に火とつける。薄闇の中に白い煙が立ち上り、瞬時に動いた空気清浄機が紫煙を吸い寄せていく。口に咥えて大きく深呼吸をすると、苦々しい味が口内に広がって、喉がじんわりと焼けていく。ぼんやりと見つめたカーテンの向こうには、ガラスを一枚挟んで京都の街がある。

 あの日の怪物に身を委ねていたら、きっと母も、父も泣いただろう。明子が上手く出来なくても、上手く生きていけなくとも笑うだろう母は、訃報が届いた瞬間に膝から崩れ落ちるのかもしれない。父は馬鹿娘だと明子を詰り、残された後悔に押し潰されてしまうかもしれない。手を尽くされた自覚がある。この年齢になってまで、一人で歩いてきたなんて、明子はきっと言えない。反対の立場であったなら、明子もきっと大切な誰かを詰るだろう。どうして、と繰り返して、何も知らずに手を尽くせなかった自身を責めるだろう。悔しさとも、悲しみとも、寂しさとも言えない痛みを抱えてしまうのだろう。想像だけでも、思わず眉が寄ってしまう。

 そう思えば思うほどに、明子は不思議で仕方なかった。

 一歩を踏み出せば、何もかもが消えてしまうのに、生きた分だけの目に見えない何かが残る。死へと歩む存在だと奇人は言ったけれど、歩いた分だけ人間は何かを残して消えるのかもしれない。それが逃げであっても、恥に塗れた逃亡でもあっても、冷たい雨のような何かが残ってしまうのかもしれない。生きる理由なんて、明子には到底思い浮かばなかった。それでも、物事はもっとシンプルだ。

 この街で出会った奇妙で不可思議な、領分の異なる奇人は言った。

「六割の世知辛さに耐え切れないのは、悪いことじゃない」

 思い出すように呟くと、その言葉すらも空気清浄機の中に吸い込まれていく。領分を分かつから、いつか来る別れがある。ただシンプルに、問題を提起した奇人の言葉が、今更になって臓腑に染み込んでくる。

 どうして悩んでいるのか。この理由もシンプルだ。夜中になって、こうして考えもしなかったことに思考を回しているのも、バーで前のめりになってしまったのも、明子はもう自覚している。

「悪くない」

 全然悪くない。逃亡を責めないその人の佇む領分が違ったとしても、雨の中で同じ傘の下で感じた温かさは、あっさりと熱を持ってしまっている。誰にも言えなかった秘匿を暴いてくれた人に、用意出来る答えがある。選ぶべきは手段でしかない。

 正誤の問題が、いつの間にか正しさに変わっている。

 だから言葉にしなくてはいけない。歩いて分だけの残留物を、今の明子は残していくことが出来ないだろう。

 煙草を消して、もう一度ベッドに転がるとスプリングが弾んだ。また思考がぐるぐると回り出す。ふわふわとした感覚に瞼を閉じると、明子はまた同じ場所に立っている。脳に残ったいた雨の降る深夜の駅のホームが、再び目の前に現れたけれど、電車がやってくる前に、明子は睡魔に身を委ねた。

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