第9話

 冷水を被ったように凍りついていくのが分かった。

 それは明子自身の血管や細胞のような気もしたし、思考という目には見えない脳の作用でもあった。目の前の奇人が笑っていることが妙に恐ろしく、もはや何か正しいのか、間違っているのか、明子の裁量では断じることが出来なくなっていた。咀嚼していたサンドウィッチの味が唐突に分からなくなり、呑み込んでいていた煙草の煙が喉に詰まる。和やかであった空気が冷淡さを帯びていき、それはあの日、電車を待っていた時のような浮遊感にも似た恐怖だった。

 明子が目を丸くして、言葉を失ったままでいると、奇人は薄らと口角を持ち上げたまま「すまない。俺はどうにもせっかちだ」と、恥じ入るよう素振りを見せながら言う。

「だがいい顔だ。ようやく驚いた君の顔が見れた」

 一人で満足そうに笑う奇人に、ようやく明子の思考にゆっくりと血が通っていく。

「……からかっていますか?」

「いいや、事実で本心だ。俺は狐だから化かすのが好ましくてね」

「いえ、そっちではなくて」

 明子はなんとか言葉を探しながら両目を右往左往させている。懐かしさにも似ていると感じていた奇人が、今はなんだかあの日の電車そのものに見える。自身でもどうしてだが分からない不正解の獣のように見えてしまう。京都にやってきた理由を見抜かれ、誰にも言えずにいた秘匿した部分を暴かれて、そうして目の前に対峙する男は明子の死を欲している。その理由も魂胆も、具体的なことは何もかも不明なままなのに、それだけは明子にも理解が出来ていた。汗をかいたグラスの中で、積み上げられた氷が溶け出して、からんと音を立てて崩れていく。通り過ぎていくだけの音が、なんだか恐ろしい怪物のようにさえ思えてしまう。

 自殺をしようとしたわけではない。それでもあの日は一歩を踏み出してしまいそうになった。逃げ出したかったという浅はかな理由は、今も明子にまとわりついている。あの頃のように、猛烈に忙しいわけでもなく、仕事は既に乗り切ったはずなのに、気づけばこうして小さな旅行に出掛けてしまっている。正誤の関係ない浮かれた旅行をしよう。そう決めていたはずなのに、目の前のカミサマは、それさえも明子から奪っていく気がした。

「ふむ。君の心地は理解出来る。秘匿を暴かれて怒っているんだろう?」

 交わす言葉を探していた明子に、奇人は意外にも自省している声で言う。

「……はい?」

「これは証明であって、君を貶める為の行為ではないのだが。気分が悪かったのなら謝ろう」

「あの、オサキさん」

「うん?」

「私、怒ってないです。そうじゃなくて、いきなりカミサマだとか、死を与ると言われても……その、ちょっと話についていけていないというか」

 奇人は明子の言葉に耳を傾けながら、ほう、と安堵したように息を漏らした。小さな息遣いは奇人の顔を隠している代わりに、彼の感情を豊かに表現しているように思えた。その様子が可笑しくて、明子はくすり、と笑ってしまう。奇人の言うことが、少し怖かったはずなのに、それだけで落ち着いてしまっている。なんだか不思議な気分だった。まるで天気雨のように、明子の気分が目の前の奇人によって、コロコロと変わってしまう。

 自殺をしようと思って、京都にやってきたわけではない。そういう気持ちは、もしかしたら何処かに残っていたのかもしれないのだけれど、この旅行は明子にとってリフレッシュであり、楽しみの権化のような前向きなものだったはずだ。あの日の電車を思い出したから、気分が塞いでしまったのだと納得して、明子は目の前の奇人を見つめる。

 奇人は、どうにもちくはぐな男だ。

 秘密を言い当てたと思ったら、今度は自己反省をする。昨日出会ったばかりなのに、関係性の深みが捉えきれない。馴染み深い知人のようなことを言いながら、何処か余所余所しくもあって、例えば東京のバーで出会うような、初対面という場面を逸脱したような、そんな不可思議な心地になる。互いのことを知らないはずなのに、なんとなく分かりあってしまえるような気がするのは、奇人が本当にカミサマであって、明子のことはなんでも見えてしまっているからだろうか。カミサマだから、人間同士の交流のような初対面の初々しさが欠落してしまっているのだろうか。

「私は、ここに死に場所を探しにきたわけではないんです」

「ああ。そうだな。でなければ、君は今日もこの古都を歩くことは出来なかっただろうから」

「どういう意味ですか?」

「昨晩立ち寄ったバーは、そういう場所だ。あれは生きている者が立ち寄る場所じゃあない」

「へ?」

「君は死へと一歩踏み出していた。あの場所は、冥府に行く者と、俺たちのような領分の者が遊ぶ場所だ」

 つまり死んだ者が行く場所で、本来なら生きている人間に見える店じゃないのだ、と付け加えながら、奇人は煙草に火をつける。仮面の下に伸びた唇が、ほう、と煙を吐き出した。

「気の迷いというやつさ」

「私、そんなつもりじゃ……」

「昨日の旅は雨のおかげで上手くいかなかった。君はこの古都に気晴らしに来たのだから、それではどうにも気が迷うこともある。君は人間だからなあ」

 それは質問ではなく断定的な口調だった。明子自身がそうでなかったと言っても、奇人は知っているらしかった。明子は、あの日の正誤問題を抱えている自身を認めてしまわなければならないような気がした。過ぎ去ったはずの羞恥心が、足元までやってくる。奇人はそんな明子の胸中も察しているのかもしれなかったが、言葉を止めようとはしなかった。

「だから俺に会った。でなければ、俺のような領分の違う者と、ほいほい出くわすわけがない」

「でも、例えそうだったとしても、私は今日も元気です」

「そうだな。そこが実に好ましい所だよ。君は龍の雨で予定を狂わされていたのに、龍の雨の話を楽しんでしまう。面白い」

「面白がっているんですか?」

「いいや。好ましいと思っているんだ。だから同じ領分に君を連れ去ろうとしている」

 不可思議な雰囲気が立ち込めて、明子はようやく奇人が本心を語っていることに気づいた。彼は可笑しな男であるはずなのに、随分と生真面目な声で物事を語る。そこに嘘は無いように思えたし、何よりも明子を「好ましい」と言う度に、奇人の頬がやんわりと染まる。カミサマだという割に、それは随分と初々しい告白だ。まるで小さな子供のようにはしゃいでいて、羞恥なんてものを知らないみたいだった。

 人を好きだ、と言葉にすることを、いつから恥ずかしいと感じるようになったのかを明子は覚えていない。齢を重ねるごとに、それは慎重かつ冷静に見極めなければならない事象に変化していたし、抱いた恋心をほいほいと伝えることは間違いのような気がしていた。精査をして、何度も自身に問いかけて、ようやく一つの言葉に感情を収めながら、相手を見据えるようになってしまった。適合性の有無を口にすることを憚るようになったのは、明子が大人だと自覚しているからなのかもしれない。

 奇人が自身を好いているということを、どうしてか明子は確信していた。言葉に乗せられる感情は、奇人の顔色を隠す代わりに流暢で、よくよくと胸に響いてくる。疑心を持つことはきっと出来る。それでも、それを嘘だと糾弾する気持ちが浮かび上がってこない。食べ尽くしてしまったサンドウィッチの乗っていた皿を見つめて、明子は自身が奇人の言葉の嘘を見抜けなくなっているような気がした。だから、次に浮かぶ不安は、どうしようもない滑稽なものだった。

「あの、私とオサキさんは、違う生き物だということなんでしょうか?」

 脳内で仮定と想像を繰り返しながら、明子は言った。姿も言葉も人間と同じに見える奇人を眺めていると、そんなわけないだろうと思う。それでも、彼の言葉だけを呑み込むと、聞かなくてはならない気もする。

「うむ。そうとも言えるかもしれない。まあ、俺は生き物ではないんだが」

「そうだと……そう仮定して、オサキさんがカミサマだったとして、私と一緒にいたいから死ねということなんですか?」

 そうだとしたら、なんて残酷なことを言うのだろう。心の中で抱きながら、汗のかいたグラスを指で撫でる。心臓が妙にうるさかった。明子には、もう正誤の問題が解けなくなっている。なにが正しくて、なにが間違いなのか。浮ついた胸中では、判断をしかねている。そうであって欲しいのに、そうであってしまったら自身はきっと困るのだと想像している。

 奇人の提案が冗談であって、別の何かがあることに密やかな期待を抱いていた。

「君は直球だなあ」

「今の私には、きっと物事を判断する情報が足りないんです。カミサマなんて、会ったことがないですから」

「なるほど。やっぱり君は面白いなあ。半信半疑なのに、俺を信じようとしている」

「信仰心に似ていますか?」

「いいや。それに、そんなのは求めていないよ」

 そういうのは人間が勝手に思い願うことだ、と付け加えて奇人は可笑しそうに笑った。そうして、くつくつと何かを思い出したように肩を揺らしてから、仮面の下にあるだろう眼差しが、すっと明子を捉えたような気配がする。灰皿に押し付けられて消えていく煙草が、妙に視界に飛び込んでくる。

「死ね、というのは乱暴だ。だが、確かに俺は君にとって、死と同等のものを望んでいる」

 キッパリとした口調で、恐れもない口調だった。明子の途端に喉が乾いてくるけれど、それもぐっと呑み込んで、冷静さを失わないように、奇人の言葉を咀嚼する。

「同等?」

「ああ、肉体はそのまま人間として残すことも出来る。勿論、ただの肉にすることも容易だが、それではあんまりだろう。君達は死へと歩む者だ。生を受けて世の中を回し、死へと近づく者達だ。だから死というものが、大仰で、君の若さでは、君だけの問題ではないことも、俺は理解しているつもりだ。それに俺は、別に死肉が欲しいわけじゃない」

「どういうことですか?」

 流暢に話す奇人が、さらりと恐ろしいことを言いのけた気がしたけれど、明子はあえて無視をする。確信を得たいのは、そこではないからだ。言葉を重ね過ぎると、脱線を繰り返すことを明子は、もう学んでいる。

「俺は死はない。だが、君は死へ歩む者だ。それが俺と君との、最大の領分の違いだ。惚れた相手の死など見たくないだろう? 一緒にいたいじゃないか」

「……オサキさん、直接的過ぎます」

 瞬間的に脳内が沸騰するような気分になる。頬が熱くなるのはいつぶりなのだろう。大層なこと言われているはずなのに、胸中が浮ついてしまう。線路から外れるトロッコのように、思考が転がってしまいそうだった。そうして気づくのは、明子が目の前の奇人を随分と気に入ってしまっているということだ。バカンスのはずの旅が、いつの間にか奇人との時間になっている。

「普通に生きるのなら君は死ぬ。そうだな、八十年ぐらいだろうか。まあ、人間はそんなもので死への旅路へ足を進めるものだ」

「いや、それは百歳過ぎるので、もうちょっと早いかと思いますけど……」

 自身の年齢を足しながら、明子は苦笑する。

「後、八十年では、俺にとっては一瞬だ。それが人間の、どういう感覚なのか例えようもないが、百だの二百だのでは早すぎる」

「オサキさんは、おいくつなんですか?」

「さあ、数えたことがないんだ。だからまあ、有り体にこの世が出来た頃にはここにいた、ということにしている」

 奇人がにんまりと笑うから、明子はまた冗談なのかと思ったのだけれど、それも嘘ではないようだった。奇人の笑みは、いつもそこにある空気のようなものなのかもしれない。親近感があって、どこか胡散臭いのだけれど嘘がない。奇人自身のような、ちぐはぐさが滲み出ている。

「ああ、そうか。命がないなら、年齢なんて意味がないんですね」

「察しが良い。俺達には終わりがないんだ」

「でも、私にはあります」

「そう。だから君をこちらに連れて行くわけだ」

「終わりのない人生……」

 つぶやきながら、明子は汗ばんだグラスの水滴を指で拭う。考えたこともないことばかりが、頭上を通過していくような気分だ。ただ当たり前のように日常を生きて、まだ死の予感すらも感じたことはなかった。間違いの手前で立ち止まった時でさえ、明子は自身の死について深く追究はしなかった。してはいけないような気がしたし、何よりも恐ろしかったからだ。

 たけれど、確実に選択を迫られている。それがどのような手法なのかは、あまり問題ではないような気がした。きっと目の前の奇人は痛みを伴うような苦しみを明子に与えたりはしないだろうし、奇人が真実にカミサマであるのなら、きっと出来ることなのだろう。明子の秘匿を暴いたように、千里を見つめるという奇面の下の眼差しと同様なのだろう。

「新しい人生になるのでしょうか?」

「生まれ変わるわけじゃない。君の死と時間を俺が与るだけのことだ。君は雨森明子のままだよ」

「それはきっと私の時間が止まる、ということですよね。勝手なイメージですけど、不老不死に似ている気がします」

「ああ、そうだな。人魚の肉を喰らうのとは、また違うけれど。そんなものに近いだろう」

「私の時間が停止して、それでも周りはそのまま進んでいくんですね……」

「君は呑み込むのが上手だな」感心したような口調で奇人は唇で弧を描いてから、「そういった類に造形が深いのかい?」と好奇心に満ちた声で言った。

「まさか。現代には、そういう物語が沢山あるだけですよ」

 娯楽でしか知らなかった物語を思い出して、明子は苦笑した。不老不死なんて言葉を、こんなに真剣に発することがあるなんて、想像もしていなかった。現実離れした感覚は、何処か夜の京都のバーの空気に似ている。あの時の奇人の言葉は、何処か別次元の遠い世界の物語でしかなったはずだ。なのに、今の明子は娯楽の中でしか知らなかった言葉を、無意識に受け止めている。

 ああ、ちゃんと考えてる。

 理性的な感覚は正誤を探る自身のものだ。よく知っているし、常に身近に佇んでいるものだ。

 嘘のような、冗談のような奇人との会話を、明子はもう信じていて、吟味している。だから、聞きたいことは純粋で単純な疑問だった。

「あのオサキさん」

「うん?」

 喉が渇いているけれど、随分と話し込んでしまったおかげで、頼んだグリーンティーも薄緑の泡立った水滴が氷に付着しているだけだ。指でグラスを拭いながら、明子は奇人を真っ直ぐに見上げた。

「私達、昨日出会ったばかりです」

「うん」

「バーで酔っ払って、少しの時間を共有しただけでした」

「そうだね」

「どうして、ですか?」

 今までの人生で、何度か向けられたことも、誰かに向けたこともある感情の色が浮き上がってくる。確信的な言葉の断片は、決して嘘や冗談を含まずに真摯で清潔だ。理由なんて、本当は要らないのかもしれなかったのだけれど、明子は混乱ばかりしていて、こじつけてしまいたいのかもしれなかった。

「そうだな。それは内緒にしておこう」

「は?」

「だって、俺ばかりでは狡いだろう? 俺は君から何も聞いていないし、俺だけを丸裸にされてしまっては」

「……神様も気恥ずかしくなったりするんですか?」

「うん、これは初体験だ。そもそも俺は、人間とあまり言葉を交わす性質ではないから」

 こんなに流暢に舌が回っているのに、と明子が目線だけで訴えると、奇人はまた少しだけ頬を染めて笑った。それが顔の半分を覆う狐面とは、あまりにもアンバランスで、なんだか可笑しな騙し絵でも見ているような気分になる。そうして、明子は奇人の素顔も知らないことに気づいた。二条のバーでも、今日の観光案内も、奇人は常に顔を隠したままだ。

 顔も知らない人物に好意を持っている。それはきっと危うい行為に違いなく、普段の明子ならきっと危険信号を持て余して、間違いだと自身を諭すに違いなかった。なのに、まるで昨夜のまま酒に酔っているみたいに、思考がふわふわとしている。

 あやふやな思考を明瞭にするために、聞きたいことは幾らでも出てくるようだった。まるで自身が正しいのだと証明するように、情報を得ようとしているみたいだ。

「オサキさん」

 明子が再び問答を続けようとすると、店内の柱時計が大きな音を立てて鳴った。地面を這うような、空気を裂くような鈍い鐘の音だ。明子が驚いて首を回すと、言葉を発さない店員がカウンターの中にある柱時計の前に立って、こちらを見つめている。

「おや、もうこんな時間か。ここも俺も、今日は五時までなんだ。一日の終わりは見届ける主義でね」

「えっ」

「俺はせっかちでも、癇癪持ちでもないから、ゆっくり考えると良い。君の答えが俺に沿えなかったら、俺はきっと辛いから帰りの列車に乗ってくれ」

 慣れた様子の奇人は、大きな音の中でそう言って席から立ち上がる。すると、明子の視界がぐるりと回転し、尻に敷いていたはずの椅子がなくなって、瞬間的な浮遊感がやってきた。そうして少し大きな話し声の波、車の駆動音、流れていく水音が押し寄せて、随分が感じていなかった空気の流れが頬を撫でていた。

 気づけば、人々の行き交う大きな橋の歩道にいた。

 隣の椅子に置いていた荷物から、中身が飛び出して散乱し、まるでそこで転んだみたいに尻餅をついて明子は座り込んでいた。

 真昼の上空に浮いていた太陽が、傾き初めて夕日になってしまっている。雲がかかったりしながらも、澄み渡る青さを広げていた空は、薄暗い灰色の塊を斑模様に描きながら橙から薄紫へと変化しつつある。

「まだ、顔も見てないのに……」

 突飛な出来事に困惑しながらも、落ちた鞄を握り締め明子は歯噛みする。アスファルトに擦れた鈴がチリチリと無情の音を鳴らしていた。

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