第8話
トンネルを抜けるとそこは雪国だった。
有名な小説の一節は中身を知らなくとも、誰かしらから一度は耳に入る素晴らしいキャッチフレーズのようなものだ。事実、明子の脳裏にも瞬間的にそんな言葉が浮かんでいる。耳に馴染んだキャッチフレーズ調に述べるのなら、明子の場合は、甘味屋の戸をくぐるとそこは渡月橋だった。
眼下を流れていく静かな桂川のせせらぎのおかげで、明子の脳はなんとか正気に保たれている。事態を呑み込むまでの間、非常に混乱していた。困惑と驚愕が濁流のように一気に押し寄せて、あれよあれよと思考が流される寸前だった。正直、今でも状況を飲み込めているわけではないのだけれど、それでも自身の立っている場所が、桂川にかかる渡月橋の上だということは理解していた。渡月橋は嵐山にある京都の観光名所の一つだ。その昔、亀山上皇が橋の上空を移動していく月を眺めて「くまなき月の渡るに似る」と感想を述べたことから渡月橋と名付けられた、と明子は何処かのガイドマップで読んだことがある。月は橋を渡っていくのかもしれなけれど、明子はぼんやりと川の流れを見つめたまま動けない。
少し前まで、明子は産寧坂を下っていたはずだった。道順の知らない小路に迷い込んで、喫茶店に入って、それからまた観光客に紛れて坂を下って、立ち並ぶ土産屋の前で足を止めたりするはずだった。それが何故か、渡月橋の上にいる。隣に狐面の奇人の姿はなく、明子の背後には慣れた足取りで橋を渡っていく不変的な人間や、明子とは全く違った面持ちで立ち止まり眼下を流れていく桂川を眺める観光客がいる。信じられない、と明子は強く思う。それでも、瞼を閉じて開いても、目の前には桂川がある。雨が続いているせいか、前に訪れた時よりも川の水量と勢いが増しているような気がした。
一方通行に流れていく川を眺めながら、明子は目を回してしまいそうになる。そうして思い出すのは奇人の言葉と、自身に起きている目を疑うような現実だけだ。カミサマがいたんだと知らしめられているような気さえする。まるで自身の常識が全部剥奪されて、放り出されて迷子になってしまったかのような気分だ。それでも、そこから動くことは出来ない。握り締めた携帯機器の着信履歴には、奇人以外に唯一頼れるだろう春海への履歴が残っているからだ。
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