第7話

「俺は出雲にも呼ばれる伏見に居座る古い狐でね。たまにこうして人里に下りて、人間の驚く顔を見るのが好ましい者だ。そうだな、君たちからすればカミサマというやつかもしれないが、まあ、そのあたりはどうでも良い。つまりは領分を違えた者であり、昨晩話した龍の類……つまりは古都の獣の一種のようなものだ。老いもなく、病もなく、しかし君たちよりは退屈を持て余している。そういう者だ。気まぐれに人の願いを叶えてやることもある。叶えることも出来る。当然出雲に赴くのだから縁も結ぶ。時折気性で雨が降る。喜ばしい時が多いだろう。身内が婚姻を結んだ時などは、雲もないのによく降るもので、だから傘が手放せない」

 カラカラ、と小気味の良い下駄の音が明子の耳に届いていた。すれ違う観光客達は相変わらず奇人を目にすると一度は振り返る。奇人の背を追うようにして、清水寺の観光ルートを辿る明子には、それがよく見えた。有名な縁結びの神様も元へは寄らず、工事中の参拝ルートを抜けて、小さな坂を下る。舞台から見えた木々の合間に朱い絨毯を敷いた甘味処の前を通り過ぎても、奇人は意気揚々とそんなことを語っていた。着流しの裾がゆらゆらと揺れ、つい先ほどまで隣を歩いていたはずの奇人の背を明子はじっと眺めながら、ぼんやりと後ろをついて歩いた。

「オサキという名は古い馴染みがそう呼んでいる。元より名前などは持ち合わせていないのだが、こうも人が目まぐるしく発展と後退を繰り返す様を眺めていると、時節に入り込むのに必要だから、そう名乗っている。オサキは尾の裂けた狐と書く。確かに俺の尾は見事に裂けているから、これは言い当て妙だと気に入っている」

「……えっと。オサキさん」

「うん?」

 明子が奇人を呼び止めると、ゆらゆら揺れていた背がぴたりと止まり、そうして狐面が振り返った。

「神様ですか」

「うん」

 明子は奇人の全身をくまなく眺めて見た。

 平安遷都から千年が経過している京都には、今でも無数の社寺が残されている。そこにはさぞ聡明な神様達が、まさに八百万のごとく人間を見下ろしているだろう。京都の南部に位置する伏見は、確かに稲荷神で有名だ。しかし、全国の稲荷の総本山におわす神様というには、目の前の男はどうにも説得力が欠けるような気がする。奇人の発言は確かに何処か奇想天外だったけれど、彼は実に親しみやすく人道的な御仁に思えていたからかもしれない。神様とは何か。明子は実際に見たことがない。例えば、日常的に顔を合わせている上司に「俺は実は神様だったのだ」と言われたところで、信じられるかどうか。目に見えないから神様なのではないか。

 明子がぐるぐると思考を回していると、奇人はそれも見透かしたように「おや、君、信じていないな」と笑った。

「半信半疑です」

「半分は信じているのか」

「からかわれていますか?」

「いいや、俺は生真面目な性質だから」

 喉を鳴らして笑う奇人はそのまま歩いて行くので、二人は既に最初に訪れた仁王像のいる門まで戻ってきてしまっていた。生真面目という割には笑みを零す奇人が、唐突にどことなく胡散臭くも感じられる。笑ってする話なのか。神様ってそういうものなのか。その思考が既に彼を信じ始めていることだと気づいて、明子は首を横に振った。

 石階段を降りると道が開けて、再び観光客でごった返した産寧坂へと続く参道が現れる。行きは傘でぎゅうぎゅうと詰まっていた細い小道も、雨が上がってしまえば人だけになる。その分、まるで重箱に詰めたような人の多さを感じ取れるのだけれど、それも観光地ならではだった。

「俺のことは話した。今度は君の番だ」

 産寧坂に足を進める頃、奇人は何一つ顔色を変えずに言った。

「私のこと……」

「名前は聞いた。雨森明子。酒が好ましいことも昨晩で知った。だが、その他のことは聞いていない」

「そうですね」

 自己紹介を促され、明子は少しばかり考えてみる。そうすると、何を話せばいいのかわからなくなる。自己紹介なんて、おそらく学生時代のクラス替えの時ぐらいしかやったことがない。あとは今の会社に入社した時に、新人のおぼこさを残して緊張しながら名前と出身の学校を述べたぐらいだ。奇人はずんずんと産寧坂を下っていく。人の合間をすり抜けて、時々波に抗う走った子供の避ける。その後ろをついていきながら、明子はなんとなく自身の日常を思い出しながら口を開く。

「私は、東京で商材カメラマンをしています」

「商材きゃめらまん?」

「企業の出した商品の広告にする写真を撮る仕事です。所属は広報部というか、宣伝部というか、そういった類のものです。勤続は七年で、大学は出ていないので、最終学歴は専門学校を卒業した時になります。趣味も仕事も主に写真で、こうして旅行をするのが好きです」

 拙い言葉を絞り出していると奇人は「なるほど」と納得したように呟いた。前を歩いていた彼は、また明子の隣で歩幅を合わせている。

「しかし、この古都ではきゃめらを何かに向けていないな」

「なんだか、オサキさんのおかげで目まぐるしくて、カメラを出す暇がないんです」

「楽しんでもらえているということか」

 自信ありげな顔をする奇人を見上げて、明子は頷いた。

「それは僥倖。さあ、ついた」

 突き進み続けていた奇人が足を止める。

 いつの間にか産寧坂の喧騒からはぐれてしまっていたらしい、と明子が気付いたのは、この時だった。雨であろうと、雪であろうと、おそらく年中大勢の観光客で賑わっているだろう産寧坂を歩いていたはずであるのに、首を回してみると奇人以外には誰一人として見当たらない。京都小路の下り坂が延々と続いていて、甘味や土産と書いた旗を吊り下げる家屋が軒を連ねている風景は相変わらずだ。なのに、ひどく静かだった。茶や黒の格子のついた古都らしい窓が石畳の縁に連なっていて、引き戸状の扉も並んでいるけれど、どれも閉まっている。いつの間にこんなところに来てしまったのか明子は思い出せず、奇人についていくばかりであったから、道順も記憶していない。しかし、京都の観光スポットであるにも関わらず、人がいないなんてことは有り得るのか。陽の光は相変わらず、澄み切った青空の向こう側から地面を照らし、清水寺を参る前に降った雨のせいか石畳は濡れている。それでも、空気がやけにのったりとしていた。秋らしい生温い風は吹かず、まるで肌に張り付くような感触が触れているような気さえする。今まで賑やかな場所ばかりにいたせいか、物音一つしないことに、明子の中に若干の恐怖が芽生えていた。薄らと不気味さすら感じている。

「慄くことはない。帰り道は俺が知っている」と、奇人はまた見透かしたように言った。

 明子がまた頷くと、奇人は満足気に笑って、閉じていた引き戸に手をかけた。店の前にメニュウがあったことに明子が気付いたのは、既に奇人が店内へと足を進め始めた時で、結局眺めることは叶わなかった。

 茶色の梁や柱が出っ張った店内は、昨晩訪れた〈Bar.moon〉によく似ている。町家造りの店内には、テーブル席とカウンターがあり、中には一人の女性がいた。彼女は「いらっしゃいませ」も言わずに、奇人と明子を交互に見やると小さく会釈をする。明子もつられて小さく頭を下げているうちに、奇人はまるで我が家のような顔をして、窓際のテーブル席に腰を下ろしてしまった。

 明子が、この店が喫茶店であると気付いたのは、テーブルに広げられていたメニュウを目にした時だ。種類の多いコーヒーと軽食に紅茶やソフトドリンクが書き連ねてある。

「話の続きする前に腹ごしらえにしよう。昼前に葛切りを食べたきりだ。空腹は機嫌を損ねる敵だ」

「神様もお腹が空くのですか?」

「空かないさ。君の腹具合の話だ」

 半信半疑の思いを揶揄すると、奇人は唇を釣り上げながら逆に明子をからかうように笑う。なんだか釈然としない気持ちになりながら、確かに小腹は空いていたので、サンドウィッチとグリーンティーを頼んだ。奇人は空腹は訪れないと断言した通りに、ウインナーコーヒーを注文した。ほどなくして運ばれてきたドリンクを啜り、サンドウィッチにかぶりついていると、コーヒーを一口飲んだ奇人は興味ありそうな視線を明子に向ける。

「君は俺を疑っているな?」

「疑うというか、よくわかりません。神様を自称する知り合いはいませんから」

 イレギュラーな事態です、と付け加えて、明子は卵サンドを頬張る。柔らかい食パンと、マヨネーズとよく混ざった卵のバランスが丁度いい。

 明子はそれなりに出会いを繰り返してきた類の人間だった。それは時に友人であったり、同僚であったり、先輩であったり、後輩であったり、恋人であったりする。残念なことに新たな家族に出会ったことはなかったけれど、その代わりにふらり、と立ち寄ったバーでその場限りの会話を繰り広げるような出会いには恵まれてきた。商社マンもいれば、ジャズシンガーもいる。保険会社のセールスマンもいれば、塾講師の女性もいた。しかし、恐れ多くも神様を名乗る人間には出会ったことがない。そういうのは、嘘であるからだ。すぐに暴かれる嘘を人はあまり吐かない。そう考えれば、奇人がすんなりと神を名乗ったことは、逆の意味で信憑性があるのかもしれないのだけれど、経験がなければ判断は出来ない。つまりはよく分からなかった。

 明子の言い分に、奇人は首を捻った。

「カミサマであるかどうかは詮無いことだと思うのだが」

「人ではない、と自称することが、割と重要な問題なのだと思います。信用問題です」

 嘘を吐く、吐かれる、ということが明子にとっては問題だ。分からない嘘ならば騙されていればいいのかもしれないけれど、分かりきった嘘は暴くのが正解だからだ。そうして、騙されたという事実は、明子の中に不和を残す。わだかまりが残ってしまうと、この旅行はきっと嫌な思い出になるのだろう。例えば、奇人に観光案内を頼むのではなかった、という不正解が積み重なってしまう。

 それは悲しいし、寂しい。現在の明子は昨晩から非常に楽しい気分で旅をしているのだから、台無しにはしたくなかった。

「そうだなあ」と、奇人は珍しくも首を捻り続けている。手に持ったカップを口に運んでから「いやしかし」呟いたかと思えば、「沽券の問題もある」とぼそぼそ言う。そうして、彼はふむ、とまた零してから、半分ほど飲み終えたカップをソーサーに置いて、ゆったりと煙草に火をつける。明子もつられたように、鞄から出しておいた煙草を一本咥えた。

「本来ならば、話すべきことではない。君たちがこういうことを嫌がると、俺は人間を娶った知人からよく聞かされているから、悪くは思わないでくれ」

 薄い紫の煙を吐き出した奇人は、何処か楽しげな言い方で明子を見ていた。テーブルを挟んで向かい合いながら、明子も小さく煙を吐き出して頷いておく。

「俺は、別に君から話を聞かなくとも、大抵のことは知っている」

「えっ?」

「見えているということだ。見ようと思えば千里の彼方を見据えることも出来る。見るものかと顔を背けることも出来る」

「……どういう意味ですか?」

「人智を超えたものを示さなければならないのなら、俺は君が古都にやってきた理由も暴けてしまう」

 昨晩から雰囲気の変わらない奇人とは裏腹に、明子は噎せた。動揺して、喉奥の肺にではなく変なところに煙草の煙が入ってしまった。毒を飲んだような味が口内に広がって、グリーンティーを思い切り流し込む。コンコン、と耐え切れずに咳をしながら奇人に反射的な謝罪を述べて「まさか」と呟いた。

「君はここに身を投げる場所を探しに来たのだろう?」

 唇を突き上げて笑う奇人が、はじめていやらしい笑みを浮かべているように、明子には見えた。急激に血の気が引いていくような感覚に、小さな目眩が起こりそうだった。それは、明子にとって秘匿すべき事実であったからだ。誰にも言わず、拭いされない浮遊感の落とし場所を探しに旅に出ることにした。この旅行の発端は確かにそこにある。でもそれは、誰にも言っていないし、誰にも知られていないはずだった。明子が東京の駅のホームで、爪先を削り落としそうになったことでさえ、明子以外は知らないはずだ。

「……どうして」

 浮かぶ疑問が幾つも飛び出してきて、それしか口から出てこない。

「六割の世知辛さに耐え切れぬことは、何も悪いことではないだろう。君は人間だ。そういう領分の持ち主だ」

「大したことではないんです。ちょっと疲れていただけで」

 落ち着きを失った脳に糖分を運ぶためにストローでグリーンティーを吸い上げ、呼吸を上手にこなすために煙草の煙を思い切り吐き出す。口からは即座に言い訳のようなものが飛び出している気になる。

 灰皿に落とした灰を見つめながら、明子はここ数ヶ月のことを思い出していた。それは走馬灯のように心に残っているから、すぐに駆け巡っていく。時間が経っても忘れることの出来ない様は、どうにも中毒性の高い酒のようだった。

 あの雨の日に明子が駅のホームにふわり、と身を投げようとした原因は、おそらく疲労であるのだろう。あの頃は仕事は猛烈に忙しかった。とある案件を巡って上司と戦争の如くやりあってもいたし、作業量が多すぎて、残業の概念が消えかかっていた。もはや法を犯す勢いで、定時退社など夢の向こうに消えていき、定められた休日でさえ納品日に間に合わない恐怖で自主的に抹消している状態だった。

 カメラマンチームのリーダーを任されるようになってから、明子の日常は慌ただしくなったと言えるだろう。毎年入ってくる後輩の指導をしている間に時間が過ぎ去っていき、案件だけを巧妙に投げつけていく上司はサラリーマンとしては有能だったけれど、部下の管理には手緩い。同じ立場になるはずだった同僚は、そそくさと部署異動を申し出ていたし、残っていた先輩達は同じ状況をこなすだけの術を身につけていた。最早休憩時間の食事の味でさえ味わう時間もなく、終電間際の電車に飛び乗って自宅に帰ったとしても、明日の仕事内容をイメージトレーニングしているうちに夜が明ける。事ある毎に社運を賭けたプロジェクト云々の言葉が耳に入ってきて、気合を入れすぎていたことも否めなかっただろう。つまりは身心の疲弊だった。一緒に歩いてきた同僚がいなくなり、頼るべき先輩達は明子以上の忙しさを両手に抱えながら駆け回っていて、後輩を導かねばならない状況に、ついていけない自身の情けなさに歯ぎしりをするような悔しさもあった。

 気づけば不正解ばかりだったのだ。躍起になって仕事をしていたことも、仕事に対して選んだ手順も、全てが不正解の積み重ねに思えた。給料に還元されることだけは有り難くあったけれど、自身の中で成果に達しないのは、おそらく選び取ったものが不正解であったからだ。

 そうして、あの日以降、明子の思考の片隅には、常に不正解が付きまとっている。繁忙期が過ぎてようやく休暇を与えられた時、明子は遠くに行きたいと思った。駅のホームで抱いた「何処かへ行きたい」という些細な願望が頭を過ぎったのだ。行くなら東京近郊ではなく、もっと遠いところがいい。そんなふうに考えたから、新幹線のチケットを手配した。

 仕事のことだ。身心共に休目ているうちに心は軽くなるに違いない。駆け巡る記憶と、しかしそのことを知っているという奇人の、それが神様であるという証明になるか、という疑問だけが明子の思考をぐるぐると回していた。

「君の内なる側面がどうであろうと些細な問題でしかない。俺がカミサマであるかどうかも、瑣末なものだ。問題なのは、俺と君の棲まう領分が異なっていることだ」

 思考を持て余した明子に、奇人はきっぱりと言いのけた。口から漏れ出す煙が静かな喫茶店の空気にマッチしていて、妙な胡散臭さを際立たせている。

「領分ですか……?」

「言っただろう。俺は老いもなく、病もない。そもそも生命ではない。ただの狐であるが、もはやただの狐ではなくなってしまった」

「は、はあ」

「理が異なるのは厄介だ。どちらかが寄り添うしかないのだから、どちらかがどちらかに合わせねばならない。でないといずれ分かつ時がくる」

 奇人はやけに饒舌だった。しかし明子にとって、それは難解な言葉のように思えた。どうして奇人がカミサマかどうかの真偽を定めていたのに、このような話になっているのだろうか。疑問符が脳内を駆け巡っているのに、畳み掛けるような奇人に口を挟む暇がなかった。そうして、なんとか言葉を呑み込もうとサンドウィッチと一緒に言語を咀嚼していた明子に、思いも寄らない言葉が飛んできた。

「俺は君と離れがたく思っているんだよ、明子」

 奇人は言った。多少、頬が赤く染まっているのは、そういう意味があったのだろう。思いがけず、目を見開いてしまう。

「君が旅のついでに身を投げるのなら丁度いい。君の死は俺が与ろう」

 もはや混乱していて、正誤の判断が出来なくなった。

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