第6話
清水寺は平安京遷都よりも以前からの歴史を持った、古都の中でも数少ない寺院の一つである。日本でも有数な観音霊場でありながら、金閣寺や嵐山と並ぶ京都観光名所の一つである。季節は問わず、多くの参拝者が産寧坂を登って足を運び、他府県の修学旅行の行き先にもなっている。四百円のチケットを受け取って、轟橋を通るところで、手を洗いと口を濯いでから本堂へと向かう。観光客で賑やかしいにも関わらず、何処か厳かな空気が流れているような気がして、明子は背が伸びるような心持ちになった。明子が靴を脱いで、境内の観音様にご挨拶をしようとすると、奇人はふと「私はあそこにいよう」と組み立てられた寺の舞台を顎で指した。それは有名な清水の舞台であり、今や観光スポットの一つでもある場所だ。釘を使わずに山中に浮かぶようにして建てられた寺院の有名な場所には、多くの観光客が記念撮影をするために押し寄せていたけれど、一人分のスペースはなんなく確保出来そうだった。
明子は特に信仰深い人間でもない。だけれど、古都にやってきて、社寺のような場所に趣いた際には、そのルールやマナーを遵守する類の人間だった。その土地が神々しいとされる由縁があるのなら、まずは挨拶が基本であると、どこにでもいるような日本人の思考を持ち合わせている。しかし奇人は観音様には目もくれないようで、靴を脱ぎかけた明子を眺めてから、そんなことを言うのだった。思想は人の自由である。明子は一つ頷いて見せてから、観音様への列へと加わった。
明子が無事観音様に挨拶を済ませると、奇人は何故か外国人に囲まれていた。いや、囲まれているというよりは、最早絡まれているという状態に近かった。古都の景色に背を向けた奇人は、見たこともないように口を結んで両手を振っている。明子よりも随分と背の高い奇人の、更に頭の上に顔を乗せてしまえるような金色の髪をした男が、その前に立ちはだかり、何やら異国語を言い募っている。異国からやってきた観光客であるのだろう。異国人は何故か忍者のような格好をしていて、背には刀を模した傘を背負っている。まさに忍者スタイルであり、異国人は随分と大男であったけれど、この場所にいる誰よりも古都に相応しいような風体だ。
明子は数秒程、奇人と異国人のやりとりを眺めていた。まさか自身がしゃんと背を伸ばすような心持ちで観音様に手を合わせている間に、奇人が謎の出会いを果たしているとは思いもしなかったからだ。それに奇人は大層な変わり者であったから、葛切り屋のように知り合いかとも考えた。しかし、興奮したような異国人に言葉に奇人が応えない様子を見ていると、どうやら彼は珍しく困っているらしい。踵を踏みかけた靴をきちんと履いて、明子はゆっくりと奇人へと近づいていく。
「オサキさん。どうしました?」と、なるべく自然を心がけて声をかけると、奇人の顔を隠す狐面が助かった、という顔をしたような気がした。
「ああ、君か。いや、知り合いがいて、少しばかり世間話をしていたら、彼が声をかけてきたんだ。俺は異国語は分からないから」
「Hey!」
奇人の言葉を遮るように、頬を高揚させた忍者スタイルの異国人が声を上げる。どうやら彼にも、明子が奇人の知人であると伝わったようで、どうにもならない奇人を余所に今度は明子へと両手に持っていたカメラを差し出した。大男の忍者が持つと、デジタルカメラは更にコンパクトに見える。そうして、忍者は「Can I take a picture of his」と懇願するように言った。瞬間的に、明子の脳内に走馬灯のように学生時代の英語教師が出てきた。そうして、一つ一つの単語の意味を、ノートに書き綴った日々を思い出す。カメラを持っているからピクチャーは写真で、ヒズは奇人のことなのだろう。キャンとテイクがついてくるから――と、妄想にように広がっていく言語の意味を拾い上げる。
「えっと、多分、オサキさんの写真を撮りたいそうです」
「私の?」
「きっと観光の方ですよ。オサキさん、着物ですしお面もつけてますし。これぞ日本って感じがして、記念に一枚、ということではないでしょうか。きっと私もヨーロッパで素敵なドレスを着た貴婦人を見かけたら興奮しますから」
観光スポット特有の興奮であるのだろう。異国では着物は民族衣装という認識であるのは想像に容易く、そうして現代社会では着物を来て、歌舞伎や狂言のようなお面をつけた人間はそう多くない。それは探す方が困難だ。そう思えば、奇人はやはり目立っている。国外から見れば日本人らしいと思われるのだろう装いは、日常では変わり者だ。
自身の解釈と交えた明子と大男の忍者を交互に眺めてから、奇人はふむ、と呟いた。
「そういうものなのか」
「多分ですけど……」
「写真は別にかまわないが、気の毒だなあ」
忍者を眺めながら、奇人は少しばかり同情するように言った。それは喧騒に混じってしまうような声だったけれど、明子の耳には届いている。
「えっ?」
「いいや。彼に伝えてくれ」
「あ、はい」
何故かにやりと唇を歪める奇人を不思議に思いながらも、明子は金髪の忍者に「オーケー」と身振りを添えて伝える。大男は興奮が最高潮に達したように拳を突き上げてからガッツポーズをする。一緒に撮ろうか、と明子が申し出ると、彼は大きく首を振り、カタコトの日本語で「わびさびがなくなってしまう」と笑う。奇人が日本のわびさびたる文化の象徴になってしまわないか、明子は瞬間的に不安を過ぎらせたけれど、それでもいいかと思い直した。
奇人はこの街によく馴染み、まるで街そのもののような気さえする。どこか懐かしいと感じさせる古都のような雰囲気を思い出しながら、今度は明子がモデルとなった奇人を待つ番だった。
〇
遠い土地を高い場所から眺めるというのは、人間には随分と贅沢なものだ。まだ日によっては残暑を感じる季節であるからか、清水の舞台からの景色は、所々に橙や黄に色づいた木々が点在しているだけで、紅葉の見頃というわけでもなかった。それでも広い古都の町並みを一望出来る。昨日訪れた鞍馬山や、バーのある二条が見えているのかも明子には分からないけれど、確かにこの街を昨日から歩いていることを確信する。そうして眼下を眺めると、多くの人が行き来している小路が見える。崖のように高い場所なのだ、と思い知らせるような舞台の真下には、これから自身が歩くのだろう観光ルートを大勢の人間が行き来している。途中ある甘味処は盛況のようで、目立つ赤い絨毯の上に膝を折る観光客の姿もある。
たった十二メートルの高さを感じて、明子は明後日には戻る予定の東京の駅を思い出していた。それは明子の会社のある街の最寄り駅で、最大でも十分待てば電車がホームに滑り込んでくる。小さな駅であるからか、まだホームドアは設置されていない。繁華街に挟まれた小さな街であるからか、乗降する人は東京であるのに少なく、何処か寂れていて、終電近くになるとホームにたった一人で佇んでいることもある。そういう駅の姿が、ふと蘇ってくる。
休暇が取れると分かる前、明子はそのホームの先に一歩足を進めようとした。その日も丁度雨が降っていて、繁忙期であったから明子は終電間際の電車を待っていた。コンクリートに打ち付けられる雨音に紛れて、繁華街からやってくる電車の音がゆっくりと近づいてくる。車掌のよく聞き取れないアナウンスが流れてきて、ぼんやりとした二つの光がホームを照らしかけていた。夜道を照らす光も、ただの雑踏も、いつも聞いているはずの雨音も、その時は何か差し迫ってくるような怪物に思えていたのかもしれない。
思考が曖昧だったことを覚えている。逃げ出したい、と願っていたのも覚えている。今、一歩を踏み出せば、何処か遠くへ行けてしまうのではないか。理性をなくした木偶のように、酒に酔った浮遊感のようなものが頭や身体を動かしていた。それなのに、まるで大勢の前で話す時のような、奇妙な緊張感もあった。
明子が一歩を踏み出す瞬間に、電車が目の前を通過して、ゆっくりと停車した。踏み出した一歩を留めた明子の靴先は、少しばかりホームから突き出していて、場所が悪ければ足の指を無くしていたのかもしれない。どっと冷や汗が流れて、それでもその電車に乗り込んでから、明子を襲ったのは恐怖だった。いつも正解と不正解を行き来している自身が取ろうとした選択が、あまりにも信じられなかったからだ。
自身が何をしようとしたのか、どうして一歩を踏み出そうなんて考えたのか。そんなことは正しい選択ではないことを知りながら、何故身体が動いていたのか。
眼下を楽しげに歩いていく自分と同じ観光客を眺めながら、明子はぼんやりと考える。その答えは未だに解明出来ず、ただ明子にとっての不正解が巻き付いている。身を投げたところで、何も変わらないことを知りながら、広大な美しい景色よりも十二メートル先の足元を覗いている自身が、とんでもなく恥ずかしい人間のように思えた。
「そこから落ちるには、君の背では幾らか足りないのではないか?」
自身の羞恥に巻かれている明子の耳に、酷く冷静な声が届いた。驚いて顔を上げてみれば、ようやく撮影会から抜け出せたのだろう奇人が、唇を釣り上げて横に立っている。まるで思考を見透かされていたような言い分に、明子は口を金魚のようにはくはく、とさせた。
「いつからッ?」
「つい先ほどだ。君があまりに熱心に下ばかりを見つめているから、いっそこのまま落ちてしまうのではないかと思ったが、君が乗り越えるには、舞台の手摺は高く頑丈ではないか?」
奇人は昨日と変わらない口調で、舞台の手摺を軽く叩く。確かに奇人の言うとおり、手摺は明子の胸元ほどの高さがある。
「思ってません。思ってませんよ」と、明子は慌てて両手を胸の前で振る。彼女が思い出していたのは、あの時の怪奇な浮遊感ではなく、羞恥だったからだ。強く否定を剥き出しにすると、奇人は面白がるような顔をして頷いた。
「そうか」
「あの忍者の外国の方は……?」
「ああ、彼ならきゃめらを俺に向けて、何やら騒いだあとに去っていったよ。やはり気の毒なことをしてしまったなあ」
「そういえば、何が気の毒なんですか?」
「いや、なに、あれは写真機であるのだろうが、現像とやらをしても俺の姿など残せやしない」
夏の気配を残す生温い風が清水の舞台をさらりと通り抜けていく。さも当然のように、不可思議なことを言いのける奇人に明子は暫く目を瞬かせた。そういう時、明子はいつも正解と不正解を考える。この場合の正誤問題は、昨晩から思い浮かんでいる奇人に対しての疑問を彼自身にぶつけても良いか、ということだ。
明子は奇人を気に入っている。旅先で出会った奇妙な人物は、見た目こそ悪目立ちをしているけれど、随分と親しげで隣を歩いていると何故か明子は心底安堵してしまう。この古都そのもののような男を明子はもっと知りたいと、既に密やかな願望を抱き始めている。昨晩よりは随分と距離は縮まったのだろう。明子はそう確信を得ていたが、彼の不可思議に対する確信は何一つ得ていないのだ。龍の話をする狐面の奇人は、明子の日常に照らし合わせると、随分と人間ではないようなことを会話の端に感じさせる。
それを、どう言葉にしていいのか。それに、どうリアクションをすればいいのか。明子は考えあぐねているのだった。
まるでからかうような笑みを浮かべる奇人は、意図的にそのような言葉を発しているようにも見える。まじまじと白と朱い隈取のお面の奥を見つめると、奇人はまた口角を持ち上げた。それがどうにも明子には、この古都に住まう狐狸のようにも思えてしまう。
「君は面白い。俺に興味があるという顔をしている」
「興味は、あります」
「奇遇だな。俺も君に興味がある。なに、短い旅のついでだ。観音の膝下で散歩でもしながら、そろそろ互いのことをじっくり話そうじゃないか」
人はそうするのだろう? とまるで何かの真似をするみたいに、唇だけがやけに親近感のある笑みを浮かべている。
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