第5話

 店を出ると、また雨が降り出した。昼を過ぎて陽射しは少しずつ勢いを増しているけれど、夏のように焼けるような暑さはない。冷たさを孕んだ風が頬や肩を通り抜けていくと、重苦しい湿気を含んだ空気が肌にまとわりついた。

 東大路通りを抜けると、商店街はそこで行き止まり八坂神社が姿を見せる。当然のように、商店街の屋根もなくなってしまうことを明子はすっかり失念していた。雨はぽつりぽつり、と降り続いている。傘を差さずに歩いても、さほど濡れはしないような強さだ。しかし、まるで意地悪をするように雨粒は大きい。朝の天気予報を信じて、ホテルを飛び出してきた明子は、奇人の隣で信号待ちをしながら、こっそりとコンビニに寄るべきがどうかを考える。旅行先でなかったら、明子は一目散にコンビニに走り込んでいたことだろう。千円でおつりのくるビニール傘を買っていたに違いない。しかし、今は京都だ。家に帰るには、予約している新幹線に乗らなければならず、余計な荷物を増やす手間と、このまま雨に濡れてしまうことを、明子はぼんやりと天秤にかける。買うべきか、それともこのまま歩き続けるのかをじっと考える。

 すると、信号がほどなくして青に変わった。どの観光客も隣にいる奇人を二度見してから、傘を開いて歩き出す。奇異の視線を受けていても、奇人は変わらずマイペースに大きな蛇の目傘のはじきを空に向けて押し込んでいる。同心円の模様が広がって、下から見上げるとかざり糸が美しい円を描いている。和装の奇人にはよく似合っていた。

「おや、何をしているんだ。入りなさい」と、下駄の音を響かせて、横断歩道へと一歩踏み出した奇人が言った。

「君は傘を持っていないのだろう。この季節に肌を冷やせば、体が病んでしまう」

 ほら、と言いたげに奇人は手に持っていた傘を明子に傾ける。明子は目を瞬かせた。それは願ってもない申し出だ。

「いいんですか?」

「構わないとも」

「では、お邪魔します」

 荷物を増やす必要がなくなって、ほっとしながら明子も足を進める。信号機が点滅をはじめ、少し足早になる奇人に歩幅を合わせる。誰かと速度を合わせながら、肩を並べて歩くことは久々で、なんだか可笑しな笑いがこみ上げてくる。

 八坂神社の前を通り過ぎ、暫く真っ直ぐ歩くと産寧坂に向かう坂道に到達する。明子のスケジュールにある清水は音羽山の中腹に位置しているから、行きはちょっとしたハイキングになってしまう。京都旅行は歩くものだ。何度かこの町を訪れたことのある明子は、そんな持論を心の中で振りかざして、今日もスニーカーを履いていた。清水寺に辿り着くためには、東大路通から続く産寧坂を登らなければならず、しかし京都随一の観光名所であるからか、道の両側には観光客向けのみやげ物店などが軒を連ね、多くの観光客が行き来している。清水坂や、五条坂からも連なる大きな観光スポットだ。日本全国だけに留まらず、世界各地からやってきているのだろう観光客が、誰に言われるまでもなく左側通行を基準として、列をなしてのったりと坂を歩いていく。雨が降っているおかげで道幅はより狭くなっているようだったけれど、色とりどりの傘がくるくると踊っているようで、見ている分には面白い。坂を登る前に、奇人の申し出でコンビニの前で一服をしてから、明子もその列に加わった。

 簪屋や、手ぬぐい屋や、土産物屋に視線を奪われながら、真っ直ぐに進む。いくら有名観光地だったとしても、向かっているのはお寺だ。今歩いているのは参道で、先にお参りするのが筋だろう、というのが明子の考えだった。それでも、普段見ることのない八つ橋や、いかにも京都といった和を基調をした土産物屋の前を通るたびに目を奪われる。人の間を縫うようにして、帰りに寄りたい場所を脳内でリストアップする。キョロキョロ、と首を精一杯回して、通り過ぎる店を眺めていると、隣から喉を鳴らしたような笑い声が聞こえてくる。

「君は、楽しそうだなあ」と、感心したように傘を持ってくれている奇人が笑っていた。

 嘲笑にも見える笑みを見上げながら、明子はそれを悪意とは受け取らず、それよりも浮つくばかりの気持ちを抑えるように頬を高揚させた。

「ああ、すみません。フラフラしてしまって」

 身を乗り出すように店を眺めていた自分を恥じるように明子は言う。彼女が店に釘付けになるたびに、密かに奇人が傘を傾けている。

「いいや。俺が外に出ると大抵天気雨が降る。時期に止むだろうが、天気雨ばかりは人の予測も難しいだろう」

「へえ、不思議ですねえ」

「気性故なものだからなあ。ところで、先ほどは聞きそびれてしまったのだが、君は明子と言うのか」

 白い狐面がじっと明子を見た。そういえば、未だに自己紹介をしていなかったことを明子はすっかりと失念していた。葛切り屋ではしっかりと名乗っておきながら、今日一日を京都案内に費やしてくれている男に名前さえも言っていなかった事実を、ようやく思い出す。同じ傘に入り、隣を歩いている奇人が、ただ一晩のバーで出会っただけの男だということを忘れていた。まるで古い友人のような親しみやすさを持ち合わせた奇人に甘えていたような気分になり、明子は途端に恥ずかしくなる。旅行だから、と何もかもに浮ついて、社会人や大人といった枠組みに組み込まれているだろう自身の失態だ。

 明子は慌てながら「すみません!」頭を下げ、「雨森明子といいます」と改めて名前を告げる。

「耳心地の良い名前だ」

「本当にすみません。えっと……」

 明子はもう一度奇人を見上げる。奇人さん、と心の中で呼んでいることを、口にしてしまうのは憚られた。まるで可笑しな人だと軽蔑しているような響きがするからだ。かといって、戦国武将のように名を名乗れと前のめりに迫るのも、なんだか違う気がした。なんて呼べば良いのだろう。奇人の白い狐面を見つめたまま、明子は考える。

「俺は、大抵オサキと呼ばれている。先生はやめてくれ。実は誰かに何かを教えたことはないんだ」

「そうなんですか?」

「あれは嫁殿が勝手に呼んでいるだけだ」

 まるで困り事を抱えているかのように、奇人は小さく溜息を吐き出した。その様子が可笑しくて、明子はくすりと肩を揺らす。

「オサキさん」

「うん」

「舌触りの良い名前ですね」

 まるで何かを積み上げているような感覚が、明子の胸を過ぎっていく。足を止めていた明子と奇人の横を、下駄を踏み鳴らした舞子姿の観光客が通り過ぎていく。石畳の坂道にうっすらと頬は上気しているが、それが本当に坂を上がるだけで高揚しているのさえも分からなくなってしまいそうだった。

 ああ、来て良かったなあ、と明子は心底思う。旅行に来て良かった。少し遠いところに足を伸ばしてみて正解だった。正解と不正解の中を行き来する自分が、同時にうんうんと強く頷く。

 奇人は傘を持ったまま、どちらからともなく歩き出した歩幅に合わせて、変わらずに笑みを浮かべている。産寧坂を抜け、大きく道が開けると仁王像が立ち並ぶ門が見えた。変わらずに多くの観光客でごった返し、両側の広い石階段では並んで記念撮影をする団体客も多く見える。着物姿の金色の髪をした外国人がはしゃいだようにカメラを向け合っていて、制服姿の修学旅行生たちが弾んだように階段を登っていく。

「着きましたね」

「そうだな」

 続き坂道に少しばかり息を乱しながら明子が奇人を見上げると、天気雨はすっかりと止んでいた。

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