第4話

 明子が朝食を摂っていないことを知ると、狐面の奇人はふむ、と暫く考えるような仕草を見せてから、「ならば、先に腹ごしらえにしよう」と提案した。

 四条通りの交差点で、明子はなんともあっさりとした奇人との再会を果たした。赤信号の向こう側にいた狐面の奇人は、信号が青に変わってもその場から動くことはなく、のったりとした仕草で明子に向かって片手を上げる。それが合図だとも言わんばかりに、明子は駆け足になっていた。横断歩道を行き交う観光客の間をすり抜けて、少しばかり息を上げて、彼の元へと小走りで向かい、そうしてようやく奇人との約束がなんとも不思議な形で守られたことに、なんとなく安堵してしまった。

「どうして、ここが分かったんですか?」

「鈴を渡してあったじゃないか」

 まるで明子がこの道を選ぶのを知っていたような奇人に対して、疑問を投げかけてみると、そんな釈然としない答えが返ってくる。その言い様が可笑しくて、理由や原因はどうでもいいように思えてしまう。昨日と変わらない奇人の口ぶりに、明子は小さく笑みを零した。

「今日は着物なんですね。昨日とは、少しお面も違うような……」と、明子は奇人を見上げる。祇園の真ん中で、端に寄って再会の挨拶を交わす二人を、通り過ぎる観光客達が一度は必ず振り返っていく。それはおそらく奇人のせいだろう。いくら京都でも、彼のような奇抜な格好をした人間はなかなかいない。

 鼻まで被さる白い狐面は、昨日と同じく朱い隈取が描かれている。それに加えて、今日の奇人は着物だった。鈍色の着流しで、黒い帯がきちんと結ばれている。相変わらず大きな下駄を履いていて、一見にすると何かの撮影や役者のような風貌だ。片手に持っている蛇の目傘が、また一層に趣をぐっと引き上げている。狐面がなければ、京都によくいるような和装をした観光客や、町並みによく似合う地元に人間にも思えただろうけれど、おかげで十分に目立っていた。

「今日は君と出掛けるのだから、動きやすい面にしたんだ。これだと美味いものを食べやすい」

「なるほど。じゃあ、美味しいものを紹介してもらえるって、期待しておきますね」

 うんうん、と頷く明子が屈託なく笑うと、奇人の方が驚いたような顔をした。

「君は変わっているな。こういう目立ち方は、好ましくないのじゃないか」

「そうですね。普段なら、常識的な判断をしてしまうのかもしれないですけど、今は旅行中なので。なら面白い方が、私は好みです」

「俺は面白いのか」

「十分に。じゃなきゃ、昨日会ったばかりの人に案内を頼んだりしませんから」

 軽い冗談に本音を混ぜて言えば、今度は奇人が「なるほど」と呟いた。まるで互いを知ろうとして探り合っているような感覚に、明子の頬は緩んでしまう。明子は面白いものが好きだった。奇人は確かに奇抜で悪目立ちをしてしまうような格好をしているけれど、その分京都らしさが漂っているような気がする。まるで古都に相応しい人間のように見えるのだ。もしも、都内で彼と出会っていたら、明子はきっと奇人を変な人と決定づけていただろう。しかし、日常から切り離すためにやってきた古都で、正解や不正解を置き去りにするような選択は面白い。今までしたことのなかったことで、この齢になって訪れた未知の経験を楽しめる程度には、明子は浮かれている。

 だって旅行なんだから。そういう言い訳が自分に出来る環境に甘んじている。

「君は甘いものは好きか?」と、四条通りを二人並んで再び歩きだした頃、奇人は言った。背の高い奇人はそれだけで、何度も行き交う人の視線を釘付けにしている。

「ええ、洋菓子も和菓子も大好きです」

「なら朝食にはならないだろうが、葛切りはどうだろう。そこに美味い店がある」

「いいですね。是非」提案に乗っかるように明子は手を叩いて喜んだ。

 四条通りを進むと、すぐに奇人の言う葛切りの美味い店にたどり着いた。八坂神社の手前である商店街に立ち並ぶ店は朱い暖簾をかけて、いかにも京都らしい和菓子の老舗であるようだった。表には土産にもなる美しい和菓子やおいとをショーケースに並ばせて、奥に足を滑り込ませると、少し高級な喫茶店のような広い空間が現れる。奥まった造りにも関わらず、来客は多いらしい。清潔な照明と灰色の絨毯の床に木の優しい造りが特徴的だ。丁寧な笑みを浮かべる店員が明子達に気づくと、一度奇人を見てぎょっとしたように目を見開く、それでもすぐにぎこちない笑みを浮かべた。明子は、いかにも和を基調とした上品な店内の装いに感動し、ここの甘味は美味しいに違いないと確信する。空間を多く切り取って、パーソナルスペースを確保し、良いバランスの内装を誇る飲食店は、大抵何処も味が良いというのが、彼女の持論の一つだった。

 店内は満席だったけれど、それでも中はほどよい静けさが漂っている。都内の喧騒ばかりを耳にしてきた明子は、客まで上品なのだ、とまたひとしきりに心を浮つかせ、店員の「相席でもよろしいですか?」という問いかけに対し、大きく頷いてみせた。

 明子とは対照的に奇人は慣れているのか、ゆったりとした足取りで店員の背についていく。大きなガラスのはめ込まれた中庭の見える席に案内されると、彼はふと立ち止まった。

「おや」と奇人が小さく声を上げ、「なんだ、誰かと思えば嫁殿じゃないか」何処か親しげな口調で告げる。

「あら、先生。奇遇ですね」

 先客は女性だった。店員に相席の確認をされて、人の良さそうな笑みで頷いていた彼女は、奇人を見上げると、奇抜な格好に驚くこともなく言った。

「またここの葛切りを食べているのか。君も好きだな」

「先生こそ。今日はお一人じゃないんですね」

「ああ、なにかと縁のあるお嬢さんでね。まあいい、とりあえず座ろう」

 明子は、その先客がどうやら奇人の知り合いであるらしいこと、そうしてこれは偶発的な出会いであることを察知する。口を挟むことが憚られ、奇人の促すままに着席をすると、すぐに店員が冷たいお茶とおしぼりを持ってきてくれた。あまり多くないメニュウから、なんとなく葛切りではなくわらび餅を選んだ。ただ単純に、気分による選択だ。奇人はメニューに目を通すこともなく、葛切りを注文した。

 対面に座る奇人の知り合いは顔立ちのハッキリとした女性だ。カッチリとしたフォーマルな服装でありながら、少しカジュアルに着崩しているのがセンスがいい。頬にかかる髪を耳にかけて、透き通る葛切りを黒蜜に浸している。先生、と奇人を呼んでいたことを思い出し、奇人は何かを教える立場にある人なのか、と明子は思い描いてみるけれど、昨日と今日、少ししか言葉を交わしていなくとも、彼が誰かに何かを教示している姿は想像が難しかった。お面をつけて外を出歩く人間の思想や理念が、正しく他者に伝わるのだろうか。お茶を啜りながら、知己であるのだろう二人の会話をぼんやりと聞いていると、女性の視線がすっと明子へと注がれる。

「はじめまして、春海と言います」思っていたよりも、柔らかい声で春海が会釈する。

 明子も慌てて頭を下げてから、「雨森明子です」と快活な声で言った。どうやら春海は初対面の明子を気遣ってくれたようだ。人の良い笑みを浮かべている。美人だ、と明子は素直に感心した。自身よりも少し年上のような気もするし、それにしては若く見えるような気もする。奇人と同じく不思議な雰囲気が漂っているけれど、とっつきにくさは感じない。仕事柄、初対面の人間と会話をすることが不得手でない明子は、お酒がなくとも臆病になることはなく、堰を切ったように口を動かす。例えば、京都に旅行でやってきたことや、昨日奇人と偶然バーで一緒になったこと。丁寧な挨拶をされたことに気を良くして喋ると、春海も自身のことを自然と話してくれる。

 春海は京都で清掃会社を営む夫の手伝いをしているのだという。奇人とは、夫との繋がりでよく顔を合わせるらしかった。京都の生まれではないけれど、もう随分長く京都に住んでいる。この店の葛切りが好きでよく通っている。そんな話を聞いてしまうと、明子の興味は俄然と湧き上がる。初対面とは思えないほどに、まるで暫くぶりに会った友人と話すような気軽さで、春海を言葉を交わすことが楽しくなってしまう。交互に互いのことを喋り、自然と差し出された名刺を受け取ると、「龍神清掃株式会社」と大きく社名が書かれていた。

「龍神……」と、明子はその文字を撫でるように目で追って呟いた。

「どうかしたのか?」

「あ、いえ。なんだか昨日から龍に縁があるな、と思って。ほら、昨日のお話とか」

 これも京都の成せる業なのか、と夢見がちなことを描きながら、小首を傾げる奇人を見上げて明子は笑う。今朝降った大雨を龍の仕業だ、とふと過ぎってしまう頭が、まるで幼い子供になってしまったみたいではしゃいでいるからだ。

「龍?」昨日のバーにいなかった春海は不思議そうな顔をする。

「ああ、この古都で降る雨は、大抵は龍が降らせているという話をしてね」

 奇人が少しばかり弾んだ声で答えると、春海は少しむっと眉を寄せた。それは龍がどうの、という妄言を訝しんでいるというよりは、奇人の言葉そのものに腹を立てているようだった。白蜜に浸した葛切りを吸い上げながら、奇人はくすくすと喉を鳴らして笑っている。

「先生、人が悪いですよ」

「昨日、電話を切られてしまったからね。仕返しだ」

「どうして貴方たちは、そう変なところで子供っぽいのかしら」

「人間の基準がよく分からないんだ」

 もちもち、と葛切りを咀嚼しながら奇人と春海は正反対の顔をする。明子は会話の半分も理解が出来なかったけれど、それが本気の喧嘩でないことだけは理解をして、きな粉のたっぷりかかったわらび餅を口の中へと放り込んだ。うっとりするほどに口当たりの良い冷たい餅が舌の上を転がって、歯を立てると丁度いい弾力が返ってくる。さっぱりとした甘い香りが口内に広がって、ちょっとした感動を覚えてしまう。春海の向こうに見える中庭には、大きな蔵が見える。狭い空間を古都らしく演出している蔵の中を勝手に想像しながら、わらび餅を噛み砕くと、自身がずっと京都で生まれ育っているような、そんな気分になった。そうして、そういうものは、なんだか奇人に似ているように思えた。隣で可笑しそうに唇を歪めている男は、まるで京都の町並みのようだ。古くて、奇怪で、少し懐かしい。そういう雰囲気が漂っている。出会ったばかりだというのに、気安さを感じさせる。他者との会話を耳にしているだけでも、随分と面白い。

 明子が三つ目のわらび餅を口に放り込んだ頃、春海の電話が鳴った。こちらを気にする彼女に「お気になさらず」と声をかけると、春海は小さく会釈をしてから電話に出る。

「きっと夫殿だな」と、奇人は見透かしたように言った。

「分かるんですか?」

「あそこの夫婦は仲が良い。まあ、喧嘩もよくするのだが、その分仲直りも早い」

「へえ。まるで、今日の天気みたいですね」

 朝の大雨を思い出しながら、明子はわらび餅を口内で転がす。きな粉の風味を堪能していると、奇人は驚いたように静止してから、ゆっくりと唇で弧を描いた。

「面白いなあ、君は」

「夢想家なだけですよ」

「いやいや。そういう考えには、なかなかに至らないものだ。これは嫁殿に感謝しなくてはいけないかな」

 まるで面白い発見だ、とも言いたげに奇人が口を開けて笑う。白く整っている歯並びから浮き上がるようにして、立派な犬歯が見えた。昨日は顔全体がお面で覆われていたから見えなかった奇人の表情が、少しずつ浮き上がっていることに明子は密かな楽しみを覚えている。澄まし顔で結ばれている唇や、悪戯っぽく緩む頬を見るたびに、昨日のバーではどんな顔をしていたのだろう、と想像する。すると、出会ったばかりの男のことが、少しだけ分かったような気になる。確信を持って言えるのは、彼がきっと悪い人ではない、ということだ。

 明子と奇人がそんなことを話しているうちに、春海の電話は終わったらしい。大きな溜息を吐き出した彼女は、半分ほど減った葛切りを名残惜しそうに見つめてから、大きな鞄を持って立ち上がった。

「呼び出しがきてしまったので、今日はこれで……」と、伝票を掴んだ春海は歯切れの悪そうに言った。

「やはり夫殿だったか。仲睦まじいことだ」

 奇人はうんうん、と頷くと、春海は不快そうな顔をする。それでも、明子が少し残念心持ちで彼女を見上げると、春海は眉尻を下げて微笑してくれた。

「バタバタしてしまってごめんなさい。旅行中、何か困ったことがあったら連絡してください」

「ありがとうございます。こちらこそ、お話出来て楽しかったです」

 気遣いのある言葉を吐き出す春海に、本心を告げる。今回の旅行は良縁ばかりに恵まれていると、明子は本気で思っていた。一人きりで過ごすはずだった旅行が、昨日の夜から随分と賑やかだ。旅行先で知らない人と出会うことは難しく、それが楽しいものであるのは奇跡に近い。馴染みのない土地に、まるで馴染んでしまうような感覚は、おそらく奇人や春海の与えてくれたものだろう。それをそのまま、言葉に乗せると気の強そうな彼女の表情が一瞬だけふにゃり、とふやけた。

「私も。また機会があったら是非」

「はい。私も名刺を持ってれば良かったんですけど……なんだか名残惜しいので、あとで着信入れてもいいですか?」

「喜んで。それと、本当に縁があるのは、龍じゃなくて狐だと思いますよ」

 人の良い笑みを浮かべた春海が、そう言い残してレジへと進んでいく。明子には始終柔らかなトーンで声をかけてくれた春海の言葉に、明子には目を瞬かせた。意味をあまり理解出来ずに隣を見ると、そこには白い狐面を被った奇人がいる。なんだか、ぐっと笑いがこみ上げてきてしまって、会計を終えて表通りへと消えていく春海の背中を眺めながら「なるほど」と、また小さく呟いておく。

 確かに狐だ。龍の話にはしゃいでしまうのも、龍神清掃株式会社の名刺を貰ってしまったのも、全ては隣で葛切りを啜る狐面の奇人がきっかけだ。奇人といると不思議なことばかりが起こる。そのことに明子は気づいていた。それでも明子は彼がお面をつけている理由や、待ち合わせ場所に示し合わせたようにやってこれた理由を聞こうとは思わない。踏み込むには、まだ距離が足りない。きっと今、それを口にしてしまったら、おそろく楽しい旅行は一瞬で消え去ってしまうのだろう。炭酸の泡みたいに、ぱちぱちと弾けてしまうに違いない。そうなってしまったら、きっとこの旅行は明子にとって、後悔ばかりの苦い思い出になる。間違った選択をしないように、好奇心を踏み止まらせる。

 そうして、明子は自分が思っていたよりも、奇抜な奇人を気に入っているのだと自覚して、小さく口内で転がるわらび餅を噛み締めた。




  ※島原ふぶきさん宅の春海さんをお借りしています!ありがとうございます!

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