第3話
昨日とは、打って変わっての晴れ模様に明子は小さく笑う。四条通りの東側である東大路通りは京都のメインストリートであるからか、随分と観光客で賑わっていた。商店街の屋根の向こうに見える空は、昨日に続いて大雨を降らせていたが、今は随分と機嫌がいい。分厚い筋肉のような鈍色の雲が遠のいて、代わりに陽を透かす真っ白な雲がゆったりと動いている。観光客が波のように行き来を繰り返す四条通りを、商店街沿いに真っ直ぐ歩きながら、明子はくすりと肩を揺らした。
昼前に唐突に止んでしまった雨が、まるで人の気分のようで奇人の話を思い出したからだ。
狐面の奇人の去ったバーに残り、じっくりとアルコールを堪能した明子はマスターから名刺を貰って、ホテルに帰った。旅行の疲れとほどよいアルコールに脳や体は、大抵のことを小さな事だと決定づけて、深い眠りを明子に提供してくれたのだ。おかげで今朝の目覚めは爽快であったけれど、窓の外は洪水のような大雨だった。外に出られないほどの雨をぼんやりと眺めて、明子はどうしたもんか、と一時的に頭を悩ませたものの、昼前にはぴたりと止んでくれた。天気予報を見れば、台風が近づいているというのに傘は必要ないという。その言葉を信じて、外に飛び出して見れば、確かに美しいほどの晴れ晴れとした空が広がっている。まるで不機嫌な人間の機微のような空模様を目の当たりにして、明子は龍の話を思い出した。日常と切り離した旅行先で、降ったり止んだりする雨が龍の仕業だというのなら、なんてロマンが溢れているのだろう。
今朝も想い人を喧嘩をしたのだろうか。
そんなことを考えると、現実的ばかりの毎日に少しだけ彩りを与えられたような気分になる。古めかしい雰囲気を保ち、立ち並ぶ祇園の商店街をするすると歩いているだけで、御伽噺を演出されているような気がしてしまうのだ。記憶に残っている狐面の奇人が酔っ払った明子の見た夢や妄想の類ではなかったことに、変な自信が持てた。そうして、明子が考えるのは「京都を案内しよう」と言ってくれた狐面の奇人と何の約束も交わしていないことだった。
待ち合わせの時間や場所の一切を、彼と話してはいない。ただ酔いの回った心地の良い頭でうんうんと頷いていただけで、詳細な約束事を何もしていないと気づいたのは、ホテルを出る直前だった。名前を知らない男と一日を過ごす、ということは、やはり間違った選択だったのだろうか。明子はなんとなくそんなことを思いながらも、少しだけ残念になり、軽くイエスと答えてしまった自身を恥じる。それでも、スケジュールを変更するつもりもなく、そんなことは夜のバーではよくある出来事だ、と頭の隅に追いやっておく。酒の入った席での口約束ほどに、頼りないものはない。それはいわゆる経験上の確信であり、どうせこんなにも広い京都の町で、名前も知らない男を探し出すことなんて不可能なのだから、と早々に頭を切り替える。京都を目一杯楽しむために、わざわざ東京からやってきたのだから、多少の行き違いは間違いにはカウントしない。昨日だって、そんな思いで雨の中を駆け回っていたのだから、なんてことはない。ただ、不思議な気分ではあるけれど、多少の名残は惜しむように奇人に与えられた鈴だけは、鞄に括りつけておいた。
そうして、明子が歩くたびに鈴はシャン、と小さな音を立てて、鈴が飛び跳ねる。脳に残る心地良い上品な音が、明子の足のリズムに合わせて踊るように四条通りに微かに響いていく。そのたびに思い出す奇人の姿に、くすりと笑ってしまうのは、彼が面白かったからだ。明子とは、全く違う思想を持った男だった。それなのに気安く、もっと言葉を交わしてみたいと酔いが冷めても思ってしまう。雨の話をしただけなのに、自分では思いつかないことを言いのける奇人は、明子にとって興味の対象になりつつあるようだった。そんなことははじめてで、なんだか擽ったいような感覚がするけれど、それほどに彼との出会いが惜しかったのだ、と自覚する。違う形で出会えていれば、とありもしないことを思い浮かべてしまう。
「……あ」と、今まで黙って歩いていた明子は呟いて、動かしていた足を止める。商店街の向こう側で小さな雨粒がぽつりぽつり、と落ちてきたからだ。天気予想の言うとおり、空は白い雲と数片浮かべるだけで、澄んだ青が広がっている。それなのに、雨がゆっくりと降り注ぎはじめている。観光客が、なんだか騒がしく唐突に降り始めた雨を避けるように、商店街の屋根の下に逃げ込んでくる。交差点の手前で立ち止まった明子が、ふと手を差し伸ばすと、柔らかい雨が指先で弾けた。
リン、と涼やかな鈴の音がどこからともなく脳裏を過る。
顔を上げ、赤信号の交差点側へと視線を戻すと、記憶に強烈に残る白いお面が人垣の向こう側に見えた。
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