第10話
「少し、落ち着きました?」
優しい声が降り注ぎ、差し出されたカップには温かな紅茶が揺らいでいる。何時間かぶりに、明子はようやく日常的な会話を耳にした気がして、表面を熱くするカップを丁寧に受け取りながら、春海を見上げた。
「すみません。ご迷惑をおかけしてしまって」
「ううん。困ったことがあったら、って言ったのは私ですから」
テーブルを挟んだ向こう側のソファに腰掛けて、春海は数時間前と同じような、パキパキとした口調で、柔らかい笑みを浮かべた。彼女の隣には、春海の夫が居心地の悪そうに腰を下ろしていて、時々明子と目が合うと視線を逸らしてしまう。
渡月橋の上で途方に暮れていた明子を拾ってくれたのは、連絡をしてからすぐにやってきてくれた春海だった。夫婦揃って買物に出ていたという春海に、何度も謝罪を繰り返して、動揺を落ち着かせるために連れてこられたのは、夫婦で暮らしているという嵐山のマンションだ。
迷子になっていたのは自身の思考だった、と明子が気づいたのは、春海の夫だと紹介された泰貴の車の中だ。近年流行りのアーティストの、ノリの良いテクノポップの曲調が車内に連続再生されているのを耳にしているうちに、明子は自身が随分と困惑していることに行き当った。嵐山にいるのなら、電車でもタクシーでも使えば、簡単にホテルまでは戻れたはずだ。それなのに明子はマップ検索も、乗換案内も、道端で片手を挙げることさえも思い浮かばず、だんだんとそんな自身に焦りを覚えて、残したばかりの発信履歴から春海の番号を指で探り当てていた。
明子は、まるで喋り続けるラジオにでもなってしまったかのように、春海に全てを話した。橋の上で、春海が「大丈夫ですか?」と声をかけてくれてから、自身でも驚くくらいに何もかもが言葉になって出てきて、今はそんな自身すらも恥ずかしく思う。奇人の知人だという春海なら、もしかしたら奇人のことを知っていたのかもしれない。奇人がカミサマというやつで、人間の格好をして、誰かを驚かせていることも、ふらりと何処かに消えてしまうような胡散臭さも、まるで物語のような出来事を、助けてくれた夫婦は肯定してくれるのかもしれない。無意識のうちに、出会ったばかりの夫婦にそんな期待を無意識に抱いて、目の前から消えてしまった奇人のことを、明子はべらべらと喋り続けた。
答えが欲しい、と言った奇人の声が、どうにも頭から離れない。旅行のおまけのような好奇心だけでは、どんどん説明が出来なくなってしまっている。脳内だけでは物事の整理がつかなくなって、言葉にしなければパンクしてしまいそうだった。そんな混沌とした思考のままの明子が喋り終えるまで、春海は辛抱強く頷いてくれていた。
そうしてやってきたマンションは、広くて清潔で、生活がそのままそこにあるような、今まで奇人との時間が嘘みたいに日常的な空間だった。
「突飛と言いますか……その、変なことを言ってしまってすみません」
並ぶ朗らかな夫婦を眺めながら、明子は謝罪を口にする。テーブルの上には、明子に差し出されたのと同じカップが夫婦の分も並び、上品な洋菓子がお茶請けとして、大きな丸い皿に乗っている。日常的に、ごく普通に、客人としてもてなされているのが分かる。それだけのことなのに、気持ちはすとん、と落ち着いていく。
奇人との全ては、とてつもなく嘘のような物語だ。カミサマだとか、不老不死だとか、大人になって口にすると、夢見がちな人物という印象を抱かせるような気恥ずかしさがある。どこかの物語を夢中になって話す子供のような気分になって、明子は紅茶を啜りながら、小さな羞恥心に苛まれる。現実的でない経験は、明子ですら信じがたいものだからかもしれない。
すると、今まで目を逸らしていた泰貴が、なんだか不思議そうな顔をして、「ああ、そうか。可笑しいのか」と、一人で納得する。
「あなたが言うと洒落にならないわよ」
「これでも勉強してるんだ」
「ドラマでね。信じちゃダメって言ってるのに」
「でも、あいつよりは幾分かマシになった……はずだろう?」
「ちゃんと答えを待ってくれる分、先生の方がまだマシかもしれないわ」
私は考える暇なんてなかった、と春海が語気を強めると、泰貴はしゅんと表情に陰を落としてしまう。
その光景すらも、今の明子には新鮮だった。奇人の隣は親しみがあって安堵したけれど、異空間めいた居心地であったからかもしれない。距離感のバランスがちぐはぐで、コロコロと変わる気分に揺さぶられていた。夫婦である春海と泰貴の会話は、関係性のバランスをほどよく滲ませていて、ゆっくりと呼吸が出来る。
奇人の言った通り、春海と泰貴は仲睦まじいようだった。夫婦という言葉が、飾らないでよく似合う。ハキハキとした口調の春海は、昼間と変わってはいないはずだけれど、泰貴が隣にいると、なんだかとても可愛らしい女性に見えてくる。葛切り屋で言葉を交わした時は、なんだか格好良い印象だったから、余計にそう感じるのかもしれない。明子となかなか合わない泰貴の視線の先が、いつも春海に向いているからだろうか。
ほう、と息を吐き出して、砂糖とミルクのよく混ざった紅茶を胃の中へ運ぶと、混乱していた脳がまた活発に動き出した。
「……オサキさんの方がマシ?」と、明子は目の前で繰り広げられる会話を再生する。
言葉の意味を探りあぐねて春海を見ると、夫に呆れていた顔を生真面目にして、明子に向かい合ってくれる。コトリ、とカップがローテーブルの上に置かれ、注がれた紅茶が揺らいでいる。
「私達にとって、明子さんの話は別に突飛というわけじゃないですし、変なことでもないんです。狐に縁があるって言ったでしょう?」
「えっ、あ……葛切り屋さんで」
「そう。明子さんは龍じゃなくて、狐と縁があっただけなんです。この街には、そういうのがわんさかいますから」
神妙な顔つきで明子を肯定しながら、春海は自嘲気味に笑みを浮かべて泰貴へと視線を向ける。春海の落ち着いた声は、奇人の発する口調と少しだけ似ているような気がした。不可思議なはずなのに、染み渡るように耳に響いて、事実だと認識してしまいそうになる。だけど、態度は奇人よりもずっと真摯で、嫌な気分にはならない。奇人から時々感じられた気紛れな畏怖はなく、もっと手近な安心感に似ている。春海の口調や、言葉には、ちぐはぐさが無かったからかもしれない。距離が丁度いい。話す言葉や、相槌の間や空気感が、慣れ親しんだ人間のものだった。
「あの、春海さん。どういう意味でしょうか?」
思わず飛び出る言葉には、素直な疑問が乗っかっていく。明子は紅茶を啜りながら、春海をまじまじと見つめた。すると春海は、少しばかり呼吸を繰り返してから、ゆっくりと唇を開いた。
「龍に縁があったのは、私だから」言いながら、春海が少し照れたように口元を持ち上げると、つられるように泰貴も頬を緩ませた。
そうして明子が口を開く前に、春海が隣で足を曲げる泰貴の膝の上に手を乗せる。
「その龍がこの人。突飛で変な話かもしれないですけど、私には、もう老いがやってこないんです」
「えっ?」
「私は一目惚れだとか言われて、何も分からないうちに龍神に嫁いだくちなんですよ」
だから先生の方が少しはマシ、と冗談めかして春海は苦笑する。
明子は目を瞬かせた。ここにもまた不可思議なことが起こっているからだ。それは奇人が自身をカミサマだと名乗ったような時によく似ている。しかし春海の言葉にも、表情にも、やっぱり嘘はないように思えた。集団で騙されているのかもしれないけれど、そうだとしたら目的も見えず、嘘を吐く意味も想像に及ばない。詐欺にしては稚拙な設定であったし、これならいっそ一攫千金を匂わせる迷惑メールの方が現実味がある。
何よりも、奇人の言葉も春海の言葉も、明子は信じていたかった。夢想のような現実を間違っている、と言いたくはなかった。自身の思考や想像だけでは、様々な考えが巡ってしまうけれど、もしかしたら明子の知らない世界は、こうして不変的に存在しているのかもしれない。だから、今は言葉だけを呑み込んで、深呼吸をする。奇人と同じような斜め上の回答を、ゆっくりと咀嚼する。
「あの、春海さん」
「はい」
「私が聞いても、良いお話なのでしょうか?」
嘘のような現実を言葉にするのは、きっと勇気のいることだ。笑われるかもしれない。嘯くな、と妙な叱責を受けるかもしれない。先ほどまで感じていた恐怖を思い出しながら、明子は慎重に言葉を選ぼうと決意する。
そんな明子とは正反対に、春海は堂々とした口調だった。
「実は私、ちょっと期待していたんです」
「期待、ですか?」
「先生が人間の女性を連れてることなんて、今まで一度もなかったものですから。夫にも話していたんですよ。もしかしたら、同じ境遇の友人になれるんじゃないかって」
気遣いばかりの声音に、明子は首を横に振る。驚きもあった。脳内はやっぱり混乱している。それでも、春海が不可思議な者と出会って、こうして生活をしていることを、ゆっくりと示唆してくれようとしていることに安堵もしていた。生活感のある室内は、彼女がここで、龍だという泰貴と生きているということだ。好意の先にある死は、奇人の言うとおり直接的な死への道ではないのかもしれない。そう思うだけで、足元を通り過ぎていく間違いばかりの、夜の電車の音が遠ざかっていくような気がした。
「私も、今すごく心強いです。何から考えていいものか、わからなくて……」
「この人達は、いつも突飛なんですよ。本当に。だからお気持ち分かります」
なんでもないことのように、春海は口元を持ち上げてみせた。それが落ち着いて、と言われているようで、明子のふわふわとした足が、ゆっくりと地面についていく。
「あの、もし良かったら聞かせて頂いて良いでしょうか。春海さんと泰貴さんのこと。頭ごなしに、色んなことを否定したくないんです」
奇人の言葉を何度も頭に過ぎらせながら、明子は小さく頭を下げる。ただのリフレッシュで訪れたこの街で出会った不可思議を、きっと不思議で終わらせてはいけない。好奇心を抱いたのは明子自身であって、既に奇人とは知り合ってしまった。それはもう偶然の災難だと、無かったことには出来ない。間違いを秘匿したあの日のように、逃亡を選べば、何かが心にのしかかることを明子は知っている。
下げた頭を持ち上げると、爬虫類に似ているのに、どこか温かい瞳が明子を射抜いていた。
※島原ふぶきさん宅の龍神夫婦をお借りしています!ありがとうございます!
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