第3話 リンカーンは極貧農家の出だったのか?

 リンカーンの父親の系譜はこれまでの研究によって比較的信頼できるデータが公開されている。

 それによると、米国に移住した最初のリンカーンは、一六一九年に英国東部のノーフォーク地方Hinghamで生まれたサミュエル・リンカーンで、一六三七年にマサチューセッツ植民地プリモスに上陸している。Hingham出身者はボストンの南に定住地を開き、出身地のHinghamを町の名に定め、面した湾は今日でもヒンガム湾と呼ばれている。

 このようにリンカーンの先祖は清教徒の移住者の一員だったが、清教徒移住者の多くが自営農家や地域の指導者的存在だった層には属さず、使用人の身分だったとされる。

 二代後の一六八六年にその米国Hinghamで生まれたモデカイ・リンカーンは、いったんニュージャージ植民地に移り、その後にその西に位置するペンシルバニア植民地に移住している。クエーカー教徒だったロンドン在住のウィリアム・ペンが英国王から荘園として与えられたのが、ペンの名を冠した広大な現在のペンシルバニア州である。他宗派の受け入れに寛容だったクエーカー教の影響で、ニューイングランドの厳しい戒律を嫌った英国系や、欧州での迫害から逃れたアーミッシュやメノナイトなどのドイツ系がこの地に多数移住している。

 大統領の祖先もそのような移住者のひとりであった。リンカーン一家が奴隷制を嫌ったのは奴隷制度に批判的だったクエーカー教徒の影響を受けたのも一因とされている。


 ペンシルバニアに移住する前のニュージャージで一七一六年に生まれたのが、大統領の三代前に当るジョン・リンカーンで、このジョンはペンシルバニアから更にバージニア植民地の北西部にあるシェナンドア渓谷に移住している。この時代には同じように豊かな地味を求めて多くの農民がシェナンドア地方に移住した。

 このバージニアで生まれた長男が大統領とは同名のアブラハム・リンカーン(誕生は一七三八年または一七四四年)で大統領の祖父に当る。この祖父がバージニア植民地の属領だったケンタッキー地方に移住し、現在のルイビル市郊外に農地を得て三人の息子と二人の娘を抱えていた。

 農耕シーズンが始まった一七八六年五月に、三人の息子たちとトウモロコシの種まきをしていた祖父一家は突然インディアンの一団に襲撃された。祖父はその場で死亡し、長男が応戦している間に次男が応援を求めて近くの集落に走った。その間祖父の遺体に寄り添ったのが大統領の父親になる当時十歳のトマス・リンカーンであった。

 黒人奴隷の解放に貢献しながら、ミシシッピー川の西側の大平原に追われた原住民に対しては、大統領になる以前も大統領としてもリンカーンは格別の配慮をしていない。またイリノイに移住後原住民部族との戦いに志願しているのは、この祖父の虐殺が一因とする見方がある。

 このように父親の血統は英国人で、大陸から渡来したサクソンと英国原住民との混血であるアングロ・サクソンに属し、ケンタッキー地方に多いバイキングの末裔であるスコッチ・アイリッシュとは異なる人種に属していたことになる。


 リンカーンに関する出版物は五千冊を越えるとされる。その多くが大統領は読み書きもろくにできない両親の間に生まれ、極貧の幼少時代を過ごしたとし、そのような境遇にもかかわらず自己研鑽を積んで大統領にまで上りつめたアメリカン・ドリームの具現者として最も尊敬される大統領のひとりとしている。日本にも同じようなイメージが伝わっている。


 はたして正しい史実だろうか?


 ケンタッキー州中央部に住んでいたリンカーンの父親のトマス・リンカーンは、前回記したように、一八〇六年に結婚し長女のサラが翌年の二月に、大統領は一八〇九年二月十二日に生まれた。

 大統領が生まれる六年前に当る一八〇三年にトマスが住んでいたハーディング郡の納税記録が現存する。

 それによると、トマスは課税対象の資産として三百エーカー(およそ三十六万坪で二十七ホールのゴルフ場に相当)の私有地を保有していたとある。仮に自宅がその真ん中にあったとすれば、玄関から目にする周囲の土地がすべて自家のものである広さに匹敵する。

 十九世紀はじめの米国には所得税が存在せず、政府による徴税はその対象が所帯主の保有する私有資産で、土地や家屋、農機具などが主たる課税対象であった。

 この私有地は一八〇三年九月に前の地主からトマスが購入した記録も存在し、現金で支払ったことが登記されている。二十七歳の独身男がそれだけの現金を蓄えていたことになる。

 インディアンの襲撃で死亡したトマスの父親(大統領の祖父)はオハイオ川に面したルイビル郊外から州中央部のレキシントンにかけて五千五百四十四エーカーの土地を保有していた。十八ホールのゴルフ場二十七面の広さに相当する広大な私有地だった。しかし、当時のケンタッキー地方の法律は英国法に順じたバージニア州法を引き継いだ長子相続だったために、三男のトマスはこの広大な農地を相続することはなかった。これがリンカーンの生家は極貧だったという神話を生んだのだろう。

 結婚した翌年の一八〇七年にトマスが保有していた土地は一件だったが、大統領が生まれる前年の一八〇八年の年末には新たに三百エーカーの二件の土地を追加購入している。この時にも二百ドルの現金を支払い、前の地主が土地を担保に借りていた小額のローンを引き継いだとある。

 一八一四年にトマスが保有する資産の価値はその地の住民九十八人中十五番目だった。このように、大統領が極貧の農家の生まれだったとするのは後世の創作と考えるのが妥当だ。


 トマスが支払った土地代は一エーカー当りがおよそ七十セントだった。一八二〇年代の政府所有地の民間への払い下げ価格の全米平均値が一エーカー当り一・二五ドルなる記録があり、ケンタッキーは平均値よりも割安だったことが分かる。ちなみにまだメキシコ領だったテキサスへの移住が始まったのもこの頃で、一エーカー当りの公定地価は〇・一二五ドルとされた。しかし実際には三セントにも満たなかったために、テキサスには数千エーカーの地主が数多く出現することとなった。


 このトマスは大統領に対して冷淡でふたりの間柄は疎遠だったと多くのリンカーンの伝記が伝えている。トマスは一八五一年に没したが、大統領はその葬儀に顔を出していない。生母や継母を慕ったリンカーンだけに、それが冷ややかな関係を象徴するエピソードとして紹介されてきた。

 トマスは極貧ではなかったものの当時の標準から見れば小規模な自作農にすぎず、家族を養うのに忙殺される生活だったことは容易に推察される。ところが、大統領は農業に付きまとう日常の雑務には熱心ではなく、本の虫だったことや幼少時にすでにに夢想家の傾向があり、父親から見ると頼りがいのない長男に映ったようだ。それもあってトマスは近くに住む大統領とは同年代の近親者の男を重用していた記録が残されている。親密な父子の関係でなかったことが大袈裟に後世に伝わったのが真実のようだ。

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