第2話 おれとゾイ

 坂の上から海に向かって吹く風を受けながら、じりじりと坂を上っていた。5月下旬の太陽は、徐々に背中を焼いていく。昇り始めてまだそんなには経っていないはずなのだが、汗が吹き出てきた。普段から大して運動しないからだ。ここに来て、少しは動くようになったはずだが、こういう場面で自分がいかに惰性の多い人間であるか感じる。ゾイも汗をかいていた。小麦色のうなじを汗が伝っている。日光のせいで、少し光って見えた。ゾイの汗は、自分のものと違ってさらさらしている。彼女は、よく働く。ペドラの宿屋の掃除、配達、食材の買出しなど、細い肢体でよく動く。どこにそんな活力が入っているのかと毎度疑うほどなのである。街と宿屋を毎日行き来するため、容姿が整っていることも加わって街の中ではちょっとしたマドンナだ。この街の大抵の人物は『この街の綺麗どころ』と言われれば彼女を挙げるだろう。そんな彼女が、もっと言えばこの街全ての住人が、人間ではなく人工物だなんて、今だって心のそこからそう思うことができない。ふと、ずっと押し黙っていたおれをいぶかしんでか、彼女が口を開いた。


「海辺では……何を……?」


「風に当たっていただけだよ。いや、仕事を怠けていた訳じゃないんだ」


彼女に対してちょっと引け目がある分、言い訳じみた物言いになる。彼女は、心なしか心配そうな顔を作った。自分が普段からぼんやりしがちなのがいけないのだと思う。こうして迎えにきてまでくれる彼女を心配させるのは、こちらとしても不本意なのだが、海は、暇を見つけては行っている。自分が何を求めているのか、という事ははっきりとは言及できない。彼女に説明したように、単に光に、風に当たりたいだけなのかもしれない。ただ、それが自分の何から出てくるのか、という事は何となく見当がついている。一言でいうと、おれはここに来る前の自分のことを殆ど覚えていない。何か、光とか、人影、のようなものが何となく瞼の裏に焼き付いてはいるのだが、それが、何なのか、本当に見たままのものなのかも分かっていない。誰のことも覚えていないのだから、最初に目が覚めたときに誰が誰だか分かるはずもない。だから、はっきりとは覚えていないが、そのときには大分憔悴したようだ。それで、彼女は未だに自分に存在する不安定な部分がいつおれのバランスを崩しにかかるか心配しているようなのだ。水辺……まあほぼ海なのだが、そこに近づくこともあまり好んでいない。「さっさと入っていきそう」というのは彼女の弁なのだが、そこまで不安定に見えるのだろうか、それとも健康管理ができる彼女の『機能』がそう思わせるのかもしれない。いつもの余り実りの多くない思考に脳を浸していると、ゾイは坂の中腹のわき道に入る。石畳の敷いてある通りとは違い、小路はそれに加えて漆喰で固めてある事が多い。人の通行や風雨で削られていたり、砂や埃で黒ずんだり、日に当たってオレンジがかった色になったりしている。斜面に都合のいいように適当に増築していったのか、家々に併せて曲がりくねっており、高低差も多い。それから道の継ぎはぎも多い。階段なんか一方向に視線を向けていても二つも三つも目に入るような有様で、ちょっとした城か、迷路のようだ。そこの小路を進み、階段を上り下り。そうすると、幾分か丸っこい、これもまた漆喰の壁の二階建ての建物がある。そこが、おれの寄宿している宿、『エル・タロス・デ・ミェル』である。幾分かオレンジがかった漆喰の表面に、木製の杭や、黒い金属のフックが突き出したりしている。洗濯物や、食材を吊り下げたり干したりするのに使うらしく、今日も魚や香辛料が釣り下がっている。玄関の木製のドアを潜ると、申し訳程度にイスとテーブルの置かれたロビーがあり、掲示板には、カレンダーや新聞記事、近所の店の広告なんかが雑多に張られている。おかみのペドラは、巨大な体躯をしているにも関わらず、こういったちまちました作業が得意な様だった。その奥が、すぐに厨房、そして客室になっている。狭苦しいと言うよりは、みっしりしていると言ったほうが近いかもしれない。おもむろに厨房のドアが開いて、頭が覗いた。件のペドラである。

「おかえり」

黒くて長い髪を三つ編みにしたペドラは、小さな丸っこい目で此方を見て、短くそう言った。

「いえ、また直ぐに一寸出かけてくるので」

「わかった」

それっきり、また厨房に引っ込んでしまった。元から無口な人なのである。

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