彼の国まで

@do9

第1話 それから

青っぽいガラスのような海と、真っ白な砂浜が両側にずっと続いている。風と一緒に押し寄せる波が、浅くなるにつれて濃い青から緑へと変わり、最後には透明になって、足元を通り抜けていった。沖のほうには、崩れかけた石造りの建造物が波に洗われて、粗い断面を覗かせている。光も、水も熱い空気も、この上ない現実感を持って迫ってくる。しかし、たとえこの波の飛沫の一つ一つ、足元の砂の一粒一粒の感触を感じることができようとも、この光景は現実に存在するものではない。流動するデータの集積の中で発生する現象のスパーク。巨大な計算装置の中に発生する、虚構の現実。この世界の名前は、sH-La72/『碑文の街』という。そして、おれはこの中に存在する、どうやら643年ぶりの、そして唯一の人間らしい。

「お……ぃ」

ずっと遠くのほうから、声がかかった。海岸の後ろには、ここまで続く一本の石畳の街道と、その周りに立っている茶色がかった屋根と、漆喰の壁の家々が見える。どれも之も風化したように古くて、修繕の後がある。そこを通り抜けてやってくるのは、一人の女性。そう、ここには人間は自分しかいないが、誰も居ないと言うわけではないのだ。ゆるゆると近づいてきたその女性の名前は、ゾイ、と呼ばれている。この計測園に存在する健康管理用人工知能の一体であり、ある一定の権限と高度な知性、感情を備える中位の存在である。


「こんな所にいたんですか」


どうやら、だいぶ探させてしまったようだ。聞くと、そろそろ昼なのでよび戻しにきたらしい。よく日に焼けた小麦色の肌が眩しく、彼女と話す時はなんとなく照れてしまう。


「そろそろ夏ですけど、あまり風に当たりすぎるとよくありませんよ。ほら、手なんかこんなに冷えて……」


彼女は、両手でおれの手をぎゅっと包んだ。話しながら身体データでも取っているのか、なんとなく表情が真剣だ。彼女の髪の毛は、茶色で、多少癖が強いため、所々を編んで留めている。さらにそれらを後ろでくくって後ろにたらしていた。ここまで結構歩いたのか、その顔は少々上気していて、かすかに湿っている。


「早く戻らないと、ペドラさんが待っていますよ」


ペドラというのは、おれが間借りしている宿屋の女主人のことだ。いたって穏やかな人なのだが、2m以上あるんじゃないかという巨躯を持ち、腕も足も太い。だから、ペドラさんが待っている、というと何となく急がなくてはならないという気分になる。そうして、そのまま彼女に手を引かれて、砂浜と街道の間の岩場を乗り越え、坂を上り始めたのだ。


 この碑文の街は、元々人間の娯楽用として開発された仮想現実だった。人工知能を住人とした地中海の景色を奇妙に改変した独特の設計をしており、坂にへばりつく様に町並みが広がっている。街のいたるところに階段が存在しており、入り組んだ路地が、人の目を惑わす。中心を貫く街道は、町の中心にある巨大な市庁舎に続いている。この教会というのが、街の役所的な役割を果たしており、高位のAIの殆どはこの教会に常駐している。嘗てはこの計測園は、仮想的な避暑地として賑わっており、人の足が絶えなかったそうなのだが、643年前に異変がおきたのだと言う。町中の時計の日付が組み変わり、やって来ていた人間がいっせいに消えてしまったのだそうだ。それも、全く突然に。途方にくれた人工知能たちは、人間の代替としてこの町をシミュレーション的に回すことを急場しのぎではじめた。その内に、人工知能たちは自身のデータ的な劣化がはじまったこともあって、新しい人工知能を合成し始め、まるで生命のように、自己増殖を始めたらしい。そうして今ではこの街は、『墓碑の街』とも呼ばれている。この街は、居なくなった人間の振る舞いを繰り返す残響の保管場所であり、きっと見捨てられたのであろう自身の弔いでもある。


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