4万人を超える期待の視線
同点に追いつかれた直後の七回裏。
思わぬ形で風向きが変わった。
不意に訪れたチャンス。
“ ワンナウト満塁 ”
絶対に手放してはいけない “ 流れ ” が転がり込んで来た。
この流れを得点に生かすか、逃すか …シリーズの流れをも左右しかねない大事な場面。
そんな場面で ……
『7番、ライト下村。背番号37』
ドームにさざ波のような騒めき。
“ 代打を出さないのか ? ”
そんな空気も漂う。
右しか残っていないが、まだ李万里も高科翔矢もいる。
トシより遥かに経験が豊富、しかも長打力もあり明らかにトシより駿足の二人。
解説者も打席に向うトシに “ 18歳のルーキーには荷が重い場面ですねえ ” と言って唸っている。
しかし、千葉はまったく動く素振りを見せなかった。
単にルーキー好きだからなのか、トシの打力を信じているからなのか。
たぶん ……
“ トシに委ねた ”
何故かそう感じた。
・・・よくわからん親父だが ……
悪魔が唯一恐れる存在。
裏表のない野球バカ。
旧態然なポリシーに凝り固まり、周囲の助言に耳を貸さず、監督の権力を振り翳し、自分の意に反する者は切る。
典型的なパワハラ親父。
嫌いなヤツは “ 老害 ” と言って蔑むだろう。
俺も確かに嫌いだが ……
ここで、まったく迷いなくトシを送り出した “ 頑固さ ” みたいなものには感服する。
千葉も感じているのかも知れない。
トシはこの試合、ラファエルを捉える事の出来る唯一の右打者なのだ。
だが ……
問題はトシのメンタルの状態。
二度の併殺打と、自分のミス直後の同点ホームラン。
とても、平常心ではいられないだろう。
今、4万人を超える期待の視線が、トシ一人に注がれている。
この視線は、今のトシにとって恐怖でしかないはずだ。
他者視線恐怖症は克服した。
そう言い切れる根拠など、実はどこにもないのだ。
こんな強烈なプレッシャー。
再発しても何の不思議もない。
・・・乗り越えてくれ
スタスタとバッターボックスに向うトシ。
青褪めた顔。
虚ろな目。
明らかにぎこちない足取り。
・・・トシ、自信を持ってくれ
ん ?
トシがバッターボックスに入る前に、動きを止めた。
素振りをするでもなく、ただ驚いたように呆然と立ち尽くしている。
ぼーっと遠くを見ている感じだった。
・・・大丈夫か ?
・・・あれ ?
トシの口許がほんの僅か、緩んだように見えた。
スタンドが妙にザワザワしていた。
「タイム !」
主審が大きく両手を振って叫んだ。
カメラが突然、外野席を映した。
横断幕 ?
なんだあれ ?
あっ !
トシはあれを見てたんだ。
右中間スタンドの最前列。
3人の若者がフェンスに横断幕を垂らしていた。
【 かっ飛ばせー ! ヘ・タ・レ 】
・・・あいつら
全国中学駅伝の仲間たち ……
駆けつけた線審に注意され、横断幕がすぐに引き上げられた。
3人共、神妙な面持ちで平謝りしている。
スタンドが騒ついたが、それほど悪質な試合進行の妨げでもない。
3人は退場させられる事もなく大人しく座っていた。
「プレイッ !」
主審の声と同時にトシのアップが映った。
目に光が射していた。
ラファエルのセットポジション。
バットを構えるトシに硬さは感じられない。
初球。
外角低めの154キロ。
それを完璧に弾き返した。
驚くほどの自然体。
その低い弾道は、駅伝の仲間たちが見守る右中間フェンスを直撃した。
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