機

 


踏み出そうと息を吸い込んだ瞬間だった。



視界に影が走った。



「千葉監督っ ! 」



・・・ !



「……ですよね ? 」



若い女が千葉に駆け寄って来た。



・・・



「私、大ファンなんです !」



・・・梨木 ?



千葉に駆け寄る梨木の目が一瞬、俺を射抜いた。



吸い込んだ息が行き場を失った。



そして、体の行き場も失っていた。



・・・何故



今 ……梨木はどこから現れたのか ?



「そうですが ? ……」



千葉が警戒心を顕わに頷いた。



・・・隠れていた ?



「すみません。プライベートのお時間にこんなところで声をおかけして」



梨木がそう言って卑屈に頭をさげた。



「いえ ……」



千葉がすぐに警戒を解いたように見えた。



・・・俺は ……見張られてたのか ?



「ペナントレース優勝おめでとうございます。私、監督の大ファンなんです。クライマックスシリーズも勝って、是非とも日本シリーズに出て下さいね。 ……私、死ぬほど応援させていただきますので、頑張って下さい」



「ははっ、ありがとうございます」



千葉がそう言って爽やかに右手を差し出した。

梨木がその手を両手で包み込む。



「ここの会員の方ですか ? 」



「あっいえ、今日は見学に来たんです。入ろうかどうしようか迷い中なんですけど ……」



「そうですか。結構いいジムですよ。私もおすすめします」



二人がクラウンの前まで来た。



動けなかった。



完全に機を逸していた。



・・・いや



梨木が機を読んだのか ?



梨木に潮合を見切られた ……か ?



・・・何故、ここに ?



「お気をつけてお帰りください」



「ありがとう。あなたもね」



千葉が柔らかい面持ちで車に乗り込んだ。



梨木が秘書のようにクラウンに向かって丁寧に頭を下げた。



クラウンが重い音を放った。



千葉が梨木に右手を挙げて、ハンドルを切り始めた。



クラウンがゆっくりと動き出す。



行き場を失っていた息が、鼻先からゆっくりと漏れ出した。



銀色の車が俺の前をゆっくりと流れて行った。




俺は柱にもたれたまま、ズルズルと座り込んだ。



身も心もどうしようもないほどの脱力感に襲われていた。


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