割烹着
左のドアノブに手をかけた。
ずいぶんと重いドアを引いて、運転席に身体を滑り込ませた。
・・・せまっ
脚の間に手を伸ばす。
レバーがない !
足がハンドルに挟まって動けない。
ハンドルを上げるストッパーレバーも見当たらない。
・・・これじゃ動けねえ
・・・落ち着け
・・・割烹着なんかで動揺するな
センターコンソールにスイッチボタンが並んでいる。
こんな古い年式のくせして電動式かよ。
さすがスリーポインテッドスター。
ボタンは全部で10個。
各ボタンの下に何かマークが入っていたようだが、ほとんど潰れていて訳わかんねー。
・・・どれだ ?
取り敢えず 1個押してみる。
・・・うんともすんとも言わないぞ
・・・
・・・アホか俺は
手にキーを持ったままだった。
イグニッションキーを挿し込んで・・・(キーを左手で挿し込んだ経験がないと、すぐに挿し込めないもんだな)
もう一度ボタンを押してみる。
かすかにモーター音が聴こえる。
しかし、シートもハンドルも動いていない。
違うボタンを押してみる。
「いてててっ !」
背もたれが前に倒れて来た。
・・・何やっとんじゃ、俺は
ん ?
携帯が震えていた。
祥華だ。
「はい」
『ごめんなさい。今お弁当出来ました』
・・・報告 ?
「お疲れさま」
『これから着替えますので、もう少しです』
・・・この連絡必要 ?
「慌てる事はないさ」
俺は背もたれを戻しながら言った。
『では失礼します』
・・・うーん、キャラがつかめん
取り敢えず、シート、背もたれ、ハンドルの位置をベストポジションに合わせる事に成功した。
今、 9時40分。
9時の約束だったので、時間通りに天野邸のチャイムを鳴らした。
「ゴメンなさい。今お弁当を作っているから少しリビングで待っていてもらえるかしら」
・・・弁当 ?
そう言って出迎えてくれた祥華は、薄グレーの割烹着を着ていた。
俺のメンタルはその時からおかしい。
いつも見せつけられているお嬢様ファッションとのギャップにやられた。
・・・ヤバい
両親は外出しているようで、祥華一人だった。
俺の住む寮のワンフロア分もありそうな広大なリビングに通された。
身を固くしてソファに縮こまっていると、割烹着が香り高いコーヒーを運んで来た。
何だかわからない、クリーム色の角砂糖みたいなお菓子が添えられていた。
「もう少しお待ち下さい」
そう言って割烹着が忙しそうにリビングから駆けて行った。
祥華が着ると地味な割烹着も、妙にオシャレだ。
お菓子は柚子風味のホワイトチョコだった。
「これうまっ !」
未練たらしくいつまでも、舌を動かしながらコーヒーカップを持った。
・・・ !
コーヒーがまた絶品だった。
俺は生まれて初めて本物のコーヒーを飲んだと感じた。
俺がコーヒー好きになったのは、この時の味が忘れられないからだ。
たぶん、チョコの風味とその時の高揚した気分でそう感じただけの事だろう。
俺の味覚なんてその程度だ。
コーヒーを一気に飲み干すと、広過ぎる空間に尻がムズムズしだした。
「コーヒーごちそうさま・・・俺、車にいるから」
俺は立ち上がってキッチンらしき方向に声をかけた。
「はーい。すぐ行きまーす」
それからかれこれ 30分。
しかし、朝から割烹着を着て弁当を作る女だとは思わなかった。
なんか……悪くない気分だ。
俺は、
昨日から何度も見ていた。
スポーツ新聞は三紙も買った。
世界に名だたる全米の有力紙が、トップニュースで杉村裕海を讃えていた。
『 Little Big Man 』
〜 小さな巨人 〜
一昨日、ヒロがサンフランシスコで伝説を作った。
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