ネットワークの悪魔


「あの…ワナビって ?」


 俺は怖ず怖ずと壇上に質問をした。


「小関、説明してくれるか ?」


 来橋教授は、俺の後ろに座る刈り上げ君に顔を向けた。

 確か小関は裁判官を目指している。

 教授の秘蔵っ子で、すでに司法試験に受かっている。

 みんなから “ 教授 ” と呼ばれている。


「はい」


 刈り上げ君は、一度小さな咳払いをして俺の方に顔を向けて来た。

 そして丁寧に話し出した。


「ワナビー は、want to be(…になりたい)を短縮した英語の俗語で、何かに憧れ、それになりたがっている者のことです。

 上辺だけ対象になりきり本質を捉えていない者として、しばしば嘲笑的あるいは侮蔑的なニュアンスで使われます。

 ハッカーの世界では、コンピュータにおいてのハイレベルユーザーであるつもり、サイバー犯罪にある程度の知識があるつもり、といった知ったかぶりをするような人物を指します。元は、「ハッカーになりたがる馬鹿」("I wanna be a hacker")から来ているようです」


「…完全に見下してるわけね」


 島が呆れたように言った。


「紀藤さんは大丈夫なんですか ?」


 祥華が沈んだ声を出した。


「その後、適応障害を発症したと言う話です。今は、原因となったもの…会社関係、インターネット、電車…それとけたたましい音…特に警告音…それらから、一切離れた療養生活を送っているようです。あまり詳しい事は分かりませんが、相当なダメージを受けていると聞きました」


 来橋教授は敢えて冷静に事務的に答えたように見えた。


「彼は…」


 教授は沈鬱に言葉を重ねた。


「39歳での開発部課長は、社内でトップランナー級のエリートです。

 しかし濡れ衣と言えども、仕事外の“ 趣味 ” が原因で社長に赤っ恥をかかした。

 そして社員の70%を占める製造部を敵に回してしまった。 

 会社の組織内ではかなり苦しい立場になるはずです。

 会社というのは内部告発者を決して弾劾したりはしないが、組織は絶対に許してくれないものなのです。

 労災隠し発覚の裏で、必ず上級幹部の足の引っ張り合いがある。

 今回の事で失脚した役員候補やその派閥は、決して紀藤を許さないだろう。

 そんな日本社会の縦割風土までも完全に読み切った悪魔的な知能を持つ犯人が、いつの間にか自分のPCに入り込み、延々と警告音を鳴らし続ける。

 このシチュエーションは、真面目に頑張って来た人間ほど効果的だ。確実に心が壊れる。

 まさにネットワークの悪魔。

 確かにこの言葉以外思いつかない」


 来橋教授は一度言葉を切って、壇上から俺たち一人一人と目を合わせた。

 そして小さなため息を突いて、小さく笑った。


「今日は君たちを絶望させる講義になってしまった。これまで君たちが散々苦労して、頭に詰め込んできた法律が、無力になろうとしている話だ。昔から万能ではないとは言われて来たが、無力と思ったのは私も今回が初めてです。

 とんでもないIQの持ち主が、裕福な家庭に生まれ、部屋に引き篭もって面白半分に不正アクセス三昧の生活を送っている。

 私がプロファイリングしたらこんな犯人像になりました。

 これなら、悪魔になり得ます。

 私たちは悪魔には勝てないのです。

 これは私見だが、恐らく小学生にプログラミングをきちんと教えられる教育者が全国津々浦々に必要数配置出来ない限り、この状況は続くと思われる。あまり表面には出ないがね。


 ただ…

 ただし、君たちは絶望せずに、この状況から目を背けずに、この状況を踏まえた上で、学んだ法律を社会の為に生かして欲しい。そういう社会人になって欲しい。それをお願いしたいと思い、今日はこんな話をした」


 来橋教授は真っ直ぐ指先を伸ばし、壇上で一礼した。


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