グッドモーニング・ブレッツェル【第ニ編開幕】

小花ソルト(一話四千字内を標準に執筆中)

第一編

序章

第0話   空腹時はよくしゃべる

 妖精が住んでいると子供に聞かせれば、きっと信じてしまうだろう、薄暗くも草花の豊かな深緑の森を、四百ヘクタールほど買い占めて独占する貴族がいて、そしてそれに腹を立てるほど周囲に人が住んでいないとなると、いよいよこの森は特異な世界を覆い隠す聖域に近づいてしまったのだ、危ない、引き返すなら今だ、この森を隠れみのに選んだ人間は、きっとよっぽどのことをしでかしたのだから。


 ……と訴えても、森はただ、静かに全てを覆い隠すだけで何も答えない。


「自然とは、美しく壮大で、そして悲しい世界です。全てを受け入れるしかないのです。切られても、倒されても、また明日の朝日を浴びるために生きなければなりません。誰も殺してはくれないのです。自ら命を絶つこともしません、できません、考えません。今日もまた私の頭の上を、聖なる朝日が降り注ぎます。ああ神よ。賛美歌も聞けず日も浴びれぬ私に、どうしてこのような愛おしく素晴らしい世界をお与えになったのですか」


 空腹で幻覚が見え始めた青年は、千鳥足でへらへら笑いながら、ひたすらにしゃべっていた。


「この世界は、私にはあまりにも受け入れがたく、苦痛なのです。どのようなモノに置き換えれば耐えてゆけますか? あなたがたはどのようなモノに、置き換えて逃げているのですか? 私にはありのままを受け入れることしかできません。美しいモノをで、美しいモノを食べ、出会う人々と語らい、日が落ちてゆく窓辺の景色にぼうぜんとする、そんな安息を、どうして私にはお与えくださらなかったのですか」


 前方かなたに、白いうなじをさらして走る、裸足の少女が見える。

 薄いカーテンを体に巻き、きらきらとした水辺に足を取られながら、こっちに向かって手を伸ばしてくる。


 青年は彼女を抱きとめると、その薄い肌の首筋を引き寄せた。


「知恵を持ち、牙を持つこの身を、どうしてお許しくださらないのですか」


 手足をばたつかせ、力の限り抵抗する少女を、腕力の限りを尽くして抱きしめた。


「私のやっていることは悪いことですか?」


 目を閉じて、頬に伝わる感触だけをたよりに、薄い肌を波打つ熱い動脈を探り当てた。


 青年の茶褐色の前髪が、少女の生白い首筋を覆い隠す。

 謝罪しているようにも、しがみついて甘えているようにも見える姿勢で、しばしのときが流れていった。


 少女の体が足先から、力なく水の中へ、沈んでゆく。

 青年は水音が鳴らないように、彼女を最後まで支えながら水面へと浮かべた。


 波紋が絶え間なく生まれて広がる。


 浮き沈みしながら、離れてゆく少女を、青年はしばし眺めていた。


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