第三章
第三章
その翌日のことである。
恵子の両親である、前田勇と、前田春子が製鉄所にやってきた。とりあえず、青柳先生が、応接室に通す。
「そうですか。もうお帰りですか。少し富士の様子を見ていけばいいのに。東北からでは、富士もなかなか見えないでしょうから、貴重な風景になるのではないですか?」
青柳先生が、そういうが、
「はは、そうなんですけどね、先生。リンゴ畑は長時間放置できないので、すぐにかえらないといけないんですよ。」
と、勇は、頭をかじりながら、そういうのだった。
「ああ、そうですか、リンゴ農家も大変ですね。それでは、拘束される時間も多くて、大変でしょう。
なかなか休みが取れなくて、苦労が多いと、聞きましたよ。」
「ええ、そうですが、でも、リンゴの木たちは、子どもみたいに可愛がっているもんですから、離れてしまうと、かえって心配でしょうがないんですよ。だから、すぐにかえってやらなくちゃ。」
春子は、田舎もののおばさんらしくそんなことを言った。
「まあ、そうですよね。農業はそのくらいの精神がないとできませんよ。リンゴの木にしても、牛や鶏を買うにしても、それらを家族の人間と同じくらい、慈しむ気持ちが何より大切ですよね。」
「ははは、ありがとうございます。先生。ま、生きているのは、人間だけじゃありません。木も花もわしらと一緒に生きています。そして、わしらは、彼らから、命をもらって生きているということを、忘れてはなりませんな。どんなに手塩をかけた木でも、愛情と感謝の気持ちがなければ、実はつけてくれません。」
「そうですか。その気持ちをしっかり持ち続けているわけですから、すぐにかえりたくなるわけですな。そんな気持ち、果たして今の日本に持っている人はいるのでしょうか。みんな、野菜も、果物も、商品としか見ませんよ。リンゴの木が家族の一員なんて発言、原住民でもなければ、しないでしょうね。」
「あ、ああ、先生。まあ確かにそうですね。わしは確かに、彫りが深くて、原住民のような顔をしています。」
勇が照れ笑いすると、
「いいえ、そういうことではありません。それは素晴らしい精神だと言っているのです。残念なことですが、今の時代、そういう精神を持っているのは、原住民しかおりませんからね。文明化すると、人間は自分たちのことを、自分が作ったと思い込んでしまって、生かされているということを忘れるんですよ。本当は、それではいけないんですけど。ですから、それを覚えていらっしゃるのですから素晴らしいということですよ。それは、娘さんの恵子さんにも、十分伝わっているはずなのに、」
と、解説する青柳先生。
「いえいえ、いいんです。本当にこの人、武骨で素朴なところは、原住民のように見えますから。もう、それでいいにしてください。恵子には伝わってなんかいませんよ、時代ですからね。あたしたちがいくら言い聞かせてもだめですよ。」
春子がにこやかに笑った。
「それより、恵子はどこにいるんですか?ちょっと連れてきてもらえませんかね。わしら、ちょっと、
あいつに話をしたいんですよ。帰る前に。」
「わかりました。今、呼んでまいります。多分、台所にいると思います。」
と、青柳先生は応接室を出て、鴬張りの廊下を移動していった。
「恵子さん。」
「はあい。」
四畳半から声がした。青柳先生は、そちらの方に行く。
四畳半が近づくと、恵子さんの声だけではなくて、咳き込む音も聞こえてきた。青柳先生は、なんのためらいもなく四畳半の戸を開けた。
中では、多分恵子さんが、水穂にご飯を食べさせようとしているところだったのだろう。枕元に、おかゆの皿が置かれている。そして布団にうずくまっている水穂の背を、一生懸命秀明がなでたりたたいたりしていた。
「あーあ、また、畳屋さんのお世話になるのか、、、。」
恵子さんがぼそっとつぶやくと、
「恵子さん、彼をせめてはなりません。早く応接室へ行きなさい。ご両親が見えています。今日福島へ帰るそうです。その前にお会いしたくて、こちらに来たんでしょう。」
と、青柳先生の一声が飛ぶ。
「でも、水穂ちゃんほっとけないですし。親何て、いつでも会えますから、また後にしてください。」
恵子さんは、そう言い返すと、
「恵子さん、水穂さんは、僕が見てますから、応接室へ行ってください。」
と、秀明がそういう。
「何言っているのよ。小濱君。片腕のくせに、一人で何でもできないでしょ?だからあたしも、ここにいます。」
「恵子さん、彼に対して片腕と言ってはなりません。片腕という言葉は差別用語です。日常的に使ってはならない言葉です。早く、ご両親にご挨拶しなさい。」
恵子さんの言葉に、青柳先生は、注意した。確かに、法律でも、腕を失った人を片腕ということはない。それをいうのであれば、「隻腕」というのである。ただ、その言葉は、あまり一般的な言葉ではない。
「恵子さん。隻腕であると言って、特別扱いしてはなりませんよ。彼の前で態度を変えてしまうことこそ、究極の人種差別だということを覚えておきなさい。とにかく、今は、ご両親がわざわざ遠方から会いに来てくれたんですから、その労苦もねぎらって、挨拶するのは、人間として当然の事です。」
「わかったわよ、先生。じゃあ、すぐ戻るから、水穂ちゃん頼むわよ!」
と、青柳先生の説教を聞きながら、恵子さんはよいしょと立ち上がって、四畳半を出た。
「あとは僕たちでやっておきましょうか。先生。」
秀明が、青柳先生に言った。青柳先生が、咳き込んでいる水穂に薬を与えて、秀明は、畳を雑巾で拭いた。
「ご迷惑かけてすみません。」
水穂は、静かに礼をした。
「いいえ、お詫び何て結構ですから、早く横になりなさい。」
「はい。」
水穂が横になろうとすると、秀明がすぐに雑巾をしまって、体を一つしかない右腕で支え、布団に寝かせて、かけ布団をかけてやる。本当に、よく働く男だなあと、青柳先生も、感心してしまうのだった。
その間に恵子さんは、応接室へ行って、勇と春子と話していた。
「ねえ恵子、ちょっと聞きたいことがあるの。」
「そうだよ。大事な話。」
不意に春子がそういい始めた。恵子さんはギクッとする。
「何よ。お母さん。お父さんまで、、、。」
「あのな、恵子。お前、あの人、どう思うんだ?」
と、父親に言われて、恵子さんはたじろいだ。
「あの人って誰の事よ?」
「全く、鈍いわね。ほら、一緒に連れてきた、あの人よ。」
「だから誰の事?」
「本当に鈍いなあお前。お前の結婚相手だよ。」
ますます面食らう恵子さんは、彼らの顔を見て、余計に困ってしまってしまうのだが、、、。
「私の!」
「もう、しっかりしなさい。ここで一緒に水穂さんの世話をしている、小濱君の事よ。ほら、前の旦那さんのことで、あんたずいぶん大変だったでしょう?それを忘れたくて、こんな遠くで働いているんでしょう?でもね、それでは、いくら苦労してもだめなの。其れよりも、新しい人を作って、新し人と、一緒になることよ。それが、一番早い方法なの。だけど、あんたがいつまでたっても、そういうことしようとしないから、お母さんたちで、連れてきてやったんじゃないの。」
「新しい人なんて見つかるわけないでしょ。あたしもう、とっくに50歳も超えてるのよ。それに、あの人は、まだ39歳で、あたしよりも、19歳も若いのよ。一緒になんかなれるはずもないでしょうが。」
「いや、そのほうが、早く忘れると思うよ。一回り以上年が離れているくらいじゃないと、過去にあったときのことも、わすれさせてくれることはできないと思うよ。」
父親の勇までが、そんなことをいう何て、、、。二人とも、年を取ってきたということだろうか?
「ほら、あんたが、どうしてもリンゴ畑の娘にはなりたくないからって言って、サラリーマンの人を連れてきて、あたしたちは、勘当同然で、追い出したりしたけれど、ほかの家の、女の子たちもみんなそうなったから、時代のせいだって、みんなで言い合っていたんだけれどね。だけど、ほら、こないだの大地震で、精神が不安定になって帰ってくる子が多くなったのよ。」
「そうだよ。福島の出身だからと言って、放射能が移るとか、そういう嫌がらせを社内でされたとか、ほかのお母さんたちから、仲間外れにされたとか、そういうことによってね、隣近所の子が、どんどんこっちへ戻ってきているよ。隣の佐藤さんから、お宅のお嬢さんは大丈夫?って心配されて。」
だから、二人とも様子を見にこっちへ来たのか。確かに、そういう田舎の心配は、ちっとやそっとのことでは起こらない。それに、変に同情を買っているとか、そういうこともほとんどなく、本気で心配してくれる。
「だからあ、その心配が嫌なのよ。そうやって本気で心配するところ。」
「あら、ほかの子たちは、からかい半分ではなくて、本気で心配してくれるところこそ、田舎のいいところだっていうけど?」
恵子さんがそういうと、母はそういって来た。
「あたしは、少なくとも違うわよ。お母さん。あたしは田舎なんて、大っ嫌いだし、戻る気なんて何もないわよ!」
「そうかしら。いずれは、これでよかったんだろうかと思うときが来るわ。それはもう近づいてくるんだと思うわよ。その時、誰かそばにいてくれるのと、いないのでは偉い違いなのよ、恵子。それははっきりしているでしょ?」
母はふいにそんなことを言う。
「近づいてるって、何も来ないわよ。ただ食堂のおばさんとして、ここで死ぬまで働かせてもらうだけの事よ。」
でかい声で、母に対し、そう反発した恵子さんであったが、
「ほら、よく考えなさいよ。あんたの身の回りに、すでに一人いるじゃないの。一人の人間の死を乗り越えるには、何十人の助けを借りないと、立ち直れないのよ。そのためにも近くに一人いたほうがいいでしょう?」
と、いう母。
「は?」
と言って恵子さんは二人を見た。二人とも、元気そうだし、まだピンピンしている。そんなことはまだまだ先の事ではないの?と、恵子さんは考えるが、
「恵子、俺たちの事じゃなくて、お前が一生懸命世話をしている、あの、俳優みたいな綺麗な奴。あいつはどうなるんだ?」
と、父勇に言われてハッとした。
なるほど。そういうことか。
確かに、地震で夫と子供を亡くした時は、天災ということで割り切ってしまったことであったが、水穂の場合はそうはいかない、、、。そういう割り切り方は、できないかもしれない、、、。
「ひとがなくなることは、本当につらいことだから、それを体験するのはできるだけ少ない方がいいのよ。そのほうが、健康的でいられるの。それに今は、他人に迷惑をかけるほど、嫌なものはない時代だから、自分をいかに健康にしておくかも重要よね。」
確かに、其れについて耐え抜けるかという自信は、なかった。時代の流れも、恵子さんは、明確に感じ取っている。でも、まさか父と母がそんな心配をするとは思わなかった。それだけ、今度の大地震は、被害が大きかったということだろうか。
「よく考えておきなさい。その時に、誰かがそばにいてくれるかで、悲しみの度合いも又少し違うぞ。それに、お前も、こんなところに住み続けられる可能性も少ないかもしれないじゃないか。それなら
、小濱君と一緒になって、あたらしい家庭をもった方がいい。」
「そうなのよ。しっかり考えなさいね。お母さんたち、またこっちに来るから。その時は、しっかり、
返事をして頂戴ね。」
母が、ポンと恵子さんの肩をたたいた。
「仕方ないわね。じゃあ、考えておくから、もうちょっと待ってて。」
恵子さんは、そう返事をした。
その翌日。
「おーい、水穂、いるか?久しぶりに事件が解決したから、こっちへ来させてもらったぞ!」
と言って、華岡が、製鉄所にやってきた。
「あら、いらっしゃい華岡さん。久しぶりねえ。確か、捜査で金沢に出かけていたんですよね。もう、一か月以上留守にされていたから、私、半分顔も忘れてたわ。」
恵子さんはもちろん冗談で言ったのだが、華岡は、しょぼんとして、あたまをたれた。
「俺は忘れられた存在になってしまったか。」
「やあねえ、華岡さん信じちゃってる。そんなことないわよ。もう、冗談に決まっているでしょう?余計なこと、言わないで頂戴よ。」
恵子さんが笑ってそういうと、
「すまん!」
とムキになって言い返す華岡だった。やっぱり本気にしてしまったらしい。
「もうねえ、男の人ってのは、どうしてこう、騙されやすいのかしら?だから、女に身請けを頼まれると、ダメなんだわ。」
「そうじゃなくて、恵子さん、水穂いる?」
「寝てるわよ。いつも通りに。今起こしてくるから、待ってて。」
「おう、頼むぜ。捜査土産にお菓子を買ってきたから、食べてくれと言って。」
「わかったわ。」
と、恵子さんはそういって、四畳半に言った。華岡も急いで靴を脱ぎ、そのあとをついていく。
四畳半に行くと、水穂がいつも通りに布団で眠っていた。
「ほら、起きて、華岡さんが来たの。華岡さん。なんでも金沢に出張に行っていたから、そのお土産だって。」
と言って、恵子さんが、水穂をゆすぶり起こすと、水穂は、重たい体をよいしょと持ち上げて、やっとこさで布団に起き上がった。起き上がると、二、三度咳が出た。
「おい、つらいなら無理して起きなくてもいいぞ。」
華岡ははそういうが、水穂は軽く首を振る。
「お前、いくら何でも、信じられないほどやせたな。そんな体になって、30分も歩けないんじゃないのか。」
華岡は、水穂の変わりぶりに、驚いている。
「まあ、仕方ないですよ。華岡さんが何十日もでかけるんですから。捜査が長引いて、大変だったでしょう。事件が解決するのに、すごく時間がかかったでしょうから。それは仕方ないことです。」
水穂はそういったのだが、
「そうじゃないんだよ。俺が出かけている間に、お前はそんなに変わって、容体が悪くなったということじゃないか!」
と、華岡は、男泣きに近い声でいうのである。
「そんな、泣かないでくださいよ。僕も返答に困ります。」
「いや、、、。久しぶりに会えてうれしいと会話をかわそうとおもったのだが、、、。これでは、お前の変わりぶりに、泣くことになった。それでは、骸骨の体に、ヴロンスキーの顔がくっついたように見える。」
華岡は、顔中を手拭いで拭いた。
「せめて、土産で買ってきた、このお菓子、食べてもらえんかな?」
と、華岡は、鞄の中から、かわいらしい花菓子、言ってみれば花形の饅頭が入った箱を取り出したが、水穂は首を振った。
「そうか、ダメか。俺はお前に食ってもらいたくて、一生懸命捜査の合間に、選び抜いたのになあ。」
「ダメなものは食べられません。もう体の調子がよくなくて、食べる時にならないのです。」
水穂は正直に答えたが、まだ、残念そうな顔をする華岡だった。
「それでは、いかんな。何にも食べないってのは、体に毒だぞ。お菓子だって、ご飯だってしっかり食べなきゃ。」
それでもたべる気がしない水穂であった。
「あ、そうだ、突然話が変わってごめんなさい。畳屋さんいつ来るんでしたっけ?」
水穂はふいにそれを思い出して、恵子さんに聞いた。
「そのことなら、小濱君に相談に行ってもらった。決定したら、畳屋さんが来るんだから、すぐに畳を台無しにしないで頂戴ね。畳の張替代がたまらないわよ。」
恵子さんが、そう答えると、
「そうかそうか、そんなに頻繁に畳を張り替えるようでは、お前も恵子さんも、大変だな。お金もかかってしまうし。え、ちょっと待って!今小濱と言ったよな?恵子さん。」
と、華岡が何か思いついたように言った。
「ええ言ったわよ。それがどうしたの?」
「そいつの名前、もしかして、小濱秀明というのではないかな?」
「そうよ。本当に、よく働いてくれて、あたしたちほんとに助かってる。片腕だけど、それ以上に働いてくれるのがうれしいわね。」
「片腕ですけど、一生懸命で、ほかの人に追いつこうとしているのが、ちょっと切ないくらいですね。」
恵子さんの話に水穂もそう付け加えた。
「そうなのか!じゃあ、出所したあと、こっちへ働きに来たのか。」
華岡は、男泣きに言う。なるほど、これで秀明が必要以上に謙虚すぎる理由がやっとわかってきたような気がした。水穂もその通りだとある程度予測していたが、刑務所に言った理由まではつかめていなかったので、口にはできなかったのだった。
「そうなんですね。いえ、彼は非常に謙遜的な男だと思っていました。それが、単に片腕というだけでは済まされないほど、あまりにも大げさな気がしたので、僕は不思議に思っていましたが、そういう訳だったんですね。」
「水穂ちゃん知っていたの?その理由。」
水穂がそういうと、恵子さんは、おどろいてそうつけ加えた。
「ええ、彼が一度僕に言っていたんです。僕は水穂さんより低い身分なのだと。そこまで謙遜する人は、この時代まずいませんよ。たぶん、僕より低いと自虐するのなら、犯罪者以外にないでしょう。」
「しかしよ。もうちょっと待って。あれだけ働いて、何でも嫌がらずにしてくれるような子が犯罪者ってあり得る?ほら、今犯罪をする人ってのは、遊ぶ金が欲しいとか、自分のわがままで犯罪をするでしょう?悪いけど、小濱君がわがままをいったこと、あたし一度も見たことないわ。」
恵子さんは、それに反論したが、
「いや、きっと頭はよいし、いい子だったんだと思う。あいつを逮捕して、取り調べをしたとき、あいつはやったことを素直に反省していたし、それに、自分が従っていた組織のリーダーの名もあげて
くれたので、俺たちは、すぐにそのリーダーも逮捕することができた。確かに、使ってしまったことは悪いのかもしれないが、彼は決して、単にわがままで甘やかされた人間ではないということも分かったよ。だから俺は、ムショから出たら、幸せに暮らすんだぞ、としっかり言い聞かせてやったんだ。」
と、華岡は語った。
「そうですか。それはきっと片腕だったからですよ。基本的に体の一部が欠落している人は、完全な悪人にはなれませんから。」
水穂も感慨深く付け加える。
「一寸待ってよ。一体、使ったって、何を使ったのよ。」
恵子さんは、そこを聞きたかったのだが、華岡が、
「覚せい剤だ!」
と、言ったため、思わず卒倒してしまいそうになったのであった。
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