世界のしるし(黒版)

闇色鴉は影に棲む

『世界のしるし』より


 大切な人を喪ったときに襲ってくる感情の名前を、正確に答えられるだろうか。

 私には出来なかった。

 未来を誓った婚約者が不幸な事故で亡くなり、家族になりそこなった私に残されたのは、白いドレス姿の彼女に合わせて作った金色の指輪だけ。一度も本当の持ち主の指へ嵌められなかった哀れな金細工にチェーンを通し、未練がましい自分の首へと掛けた。まるで首輪のようだ。私の手を取り先導してくれるものなど何処にもいないというのに。

 その日は、私にだけ夜が訪れなかった。空は確かに日の光を隠していたが、目蓋を閉じても一向に眠気がこない。仕方がなく起き上がってみたものの、妙に冴えた頭は彼女の存在を探してしまう。ここで過ごした夜の数、柔らかな髪の香り。私の名を呼ぶ甘い声が、もうすでに遠く感じてしまうことに絶望し、指輪を握り締めて小さく震えながら涙を零す。

 止まらない涙に混じる悲壮。

 無機質にしがみつくほど増していく虚無。

 それらを覆う愛情。それごと呑み込み胸に突き刺さる無念。

 けれど今日も世界は朝を迎え、背後の窓から朝日が背中を焦がす。一層濃くなった私の影が、蠢いた。寝不足からくる幻覚かと目を擦るが、背中を丸めて座っている男の影が、ゆらりゆらり。喉から悲鳴が漏れる前に丁度影の左胸から、何かが飛び出してきた。今度こそ私は情けない声を上げながら立ち上がる。お気に入りの丸椅子が、鈍い音を立てて床を殴った。

 影から鴉の頭が生えている。慌てて自分の左胸を確認するが、なにもない。しかし下を向くと、鴉の真っ黒な瞳がジッと私を見つめていた。

『何が憎いか』

 牙のような嘴をくわっと開いた鴉が、あろうことか人の言葉を話し出す。恐怖に駆られた私は思わず走り出し、家を飛び出した。

 朝が訪れたばかりの街は、まだ眠りについている家ばかり。気が狂った男が情けない足音を響かせて無様に走る姿は、異様であり滑稽だったことだろう。彼女のために何度か通った花屋の店員が、スカビオサを抱えて不思議そうに首を傾げていた。

 私は友人の家のドアを勢いよく叩いた。眠気眼の彼の肩を強く掴み、文句を言われる前に叫んだ。

「鴉が喋ったんだ!影から!俺の影から鴉が!」

「…ああ、なんてことだ、テオバルト」

 頭を抱えた友に、私は躾の出来ていない子犬のように訴え続けた。彼は「可哀想なものを見る目」で私を見下ろし、家へ招いてソファに案内された。

「テオ、君は疲れているのさ。きっと寝ていない。そうだろう」

 ブランケットを寄越した友の目は優しかったが、その時の私はそこに宿る「同情」の色が憎かった。

 本当なんだ!本当に鴉が生えて喋ったんだよ!

 彼は残念そうに首を振るだけ。

「俺は仕事に行くから、ゆっくり休むといい。あの家では満足な休息が取れないだろう」

 私は裏切られた気持ちでいっぱいになった。今となっては彼の反応は至極当然。愛する人を喪った友人が、意味の分からないことを叫び出したのだ。気が触れた男を家から放り投げない辺り、彼の懐の広さ、そして私への愛情の深さがわかるだろう。しかし、当時の私にそんな余裕などあるはずがない。

 俯くと、やはりあの鴉が姿を現した。闇色の目が私を見つめ、くわっと嘴を開ける。

『何が憎いか』

「私の…この気持ちを理解できない友が」

 憎い。

『可哀想に。可哀想に。誰よりもつらいのはあなたなのに』

しゃがれた老人のような声にも、ヒステリックに喚く女の声にも、はたまた外で駆け回る子供の声にも聞こえる。

そうだろう。その通りだ。鴉の言葉に私は何度も頷いた。その度胸元で彼女の指輪が揺れ、私の鎖骨を優しく叩く。

『そんな友人捨てなさい。あなたにはもう必要がない。あなたに必要なのは、わたしのように寄り添う存在だけ。わたしが傍にいよう。あなたの欲しい言葉をあげよう』

 鴉の言う通りだと思ってしまった。疲弊しきった脳みそには、一見優しく聞こえる言葉が甘い蜜のように感じられたのだ。

 ふらつく脚で家へ帰り、今朝と同じように丸椅子に腰かけた。カーテンが開いたままの窓から、昼時の太陽が室内を照らしている。下を向くと、鴉は私の影の左胸から顔を出していた。

『鍵は掛けたか。もう誰も家に入れてはいけないよ。誰の言葉にも耳を傾けてはいけない。どうせ彼らはあなたを傷つけるのだから』

「ああ」

『さあ、何が憎いか、数えてみよう』

 何も知らない周りが「残念だったね」と口を揃える。同情の色でいっぱいの目で家族が見つめてくる。彼女の両親にはまるで私が悪者かのように怒鳴られた。街では恋人たちが仲睦まじく腕を組んでいる。子供たちが楽しそうに笑っている。今日もどこかで命が生まれる。彼女を喪っても世界は何事もなかったかのように廻り、また朝が来る。彼女だけを取り残して時間がどんどん進んでいく。

『ああ、憎いな。全部憎いだろう。可哀想に。可哀想に』

「もういやだ。こんな世界、もういやだ」

『なんと哀れな』

 鴉の声がまるで私の頭を抱き、撫でるように囁く。本当に心の底から『可哀想』だと思っている声に、私の思考はどんどん黒く塗りつぶされていった。

 何度も昇っては沈むのを繰り返す太陽を背に、鴉に促されるまま恨み嫉みを吐き出す。かさつく唇は動かす度に切れて痛むが、こんなの彼女を喪った時の痛みに比べれば可愛いものだった。

『わたしの友よ。可哀想な親友よ。どうかわたしにあなたを解放させて欲しい』

 一体どれだけ闇色の目だけを見つめていただろうか。回らない頭で鴉の言葉を理解しきる前に、羽音が聞こえた。よく見ると最初は首だけしか出ていなかったというのに、脚以外が生えていた。道端で見る鴉よりもよほど体格の良い姿に、一瞬怯んだ。まるでその様子を見ていたかのように、ドアを叩く音が響く。

『忘れてはいけない友よ。誰もがあなたを害するのだ。誰も家に入れてはいけない。誰の言葉も聞いてはいけない』

 腰を浮かした私を通せんぼするように羽を広げる。真っ黒なそれは、どうやら私の影の範囲までしか広がらないようだった。

「テオ!テオバルト!居るんだろう!」

 どんどんどん

 壊れそうなほど叩かれるドアの音。そして忘れかけていた友の声。

『座りなさい。行ってはいけない。開けてはいけない』

 飲み込まれそうな闇色の目に、私は抗えなかった。浮いた腰をもう一度下ろすと、鴉は満足気に頷いた。

 しかし鍵は開けられた。下を打つ音と共に、鴉が影へ引っこむ。

「テオ!ああ、なんてことだ…。俺があの時放っておいたから、こんなにも痩せ細って…!」

 どうやら大家に鍵を借りたらしい友人が、倒れ込むように私に抱き着いた。

「わ、たし、は」

「喋らなくていい。まずは水を…」

 そこで初めて、私は自分の声がしゃがれた老人のように、ヒステリックな女のように、駆け回る子供のように、聞きづらいものなっていることに気付いた。口内は砂漠のように渇ききり、身体中から異臭を放ち、手脚は骨と皮だけ。

「お前一週間も連絡が取れなかったんだぞ。みんながどれだけ心配したと思っているんだ」

 差し出された水を一口飲むと、一気に眠気に襲われる。ぷつり、無理矢理立つようにと吊っていた糸が切れたかのように首が重い。

「すまない。説教染みたことを言うつもりはなかったんだが…。からす、と言っていたのが気になって調べてみたんだ。そしたら、お前、あれは駄目だ。よくないものだ」

「…よくないもの」

「そうだ。魔物だ。人の影に寄生して、負の感情をたらふく食べる。そして最後にその人間さえも…。半信半疑だったが、お前のその姿を見たら本当なのだと信じずにはいられないよ。テオバルト。本当に無事でよかった」

 友は私の異臭など気にも留めず、痩せた身体を抱き締め、おいおい泣いた。釣られて私も涙した。彼女が亡くなって、初めて流した涙だった。

 それから暫く病院にお世話になり無事退院した私は、未練がましく持っていた指輪を彼女の墓へ添えた。指輪を手放した瞬間、耳の奥で低い羽音が聞こえた気がした。その時確信したのだ。これは私が持っているべきものではなかった。こうすればきっと、天国の彼女の薬指でより一層輝くはずだから。

 下を向いてはいけない。さもないと、鴉が来るぞ。


語り テオバルト・ハシェ

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