アジュール
背後で、身体が吹き飛びそうになるほどの風が起こったのを感じたドールは、ようやく振り返り、目を瞬かせた。
「…いない」
魔術だろうか。一陣の冷風だけを残して姿が見えなくなった三人。
立ち上がり、小走りで海に近付いてみた。慣れた潮の香りがドールを歓迎する。水平線より少し手前まで離れてしまった大きな帆船。揺れる旗は、青い。
ああ、行ってしまった。
白磁の肌を撫でていく熱い雫を乱暴に拭う。その手の中で握りしめていたリップの存在を思い出し、なんとなく太陽に照らしてみた。ピンクゴールドの華奢なパッケージが、陽の光を反射し、ドールに笑いかける。キャップを開けると、自分なら絶対に選ばない真紅に驚いた。
「…アズ、私はあなたにとって最低な友人だったけど、私にとってあなたは、」
そっと閉じた目蓋の裏で、アズが笑う。星はシエナのレンズで輝きを失うけれど、アズの笑顔が世界で一番輝いていた。
この笑顔を守りたい。何度も思った。
大人になっても、もっともっと歳を重ねても、彼の笑顔を指針にしていきたかった。けれどちっぽけなドールの世界はそれを許してはくれない。いつか、奪われてしまう。…いや、奪うのは自分だ。その事実がいつだってドールの心臓を凍らせた。上手く笑えないドールに、アズだけが寄り添ってくれた。
何も知らない、可哀想な生贄。その細い首を折るのは、ドールの役目。
その枷からようやく解放されたことに、素直に喜べないのは、隣に彼が居ないからだろう。きっとこの先、アズは自分ではなく、あの船長に笑うのだ。レンズなんて捨てて、空によく似た鮮やかな本当の髪色を揺らしながら、無垢な瞳で彼女を見上げる。そんな姿を想像するだけで、冷や汗が垂れる。
その場所が、ずっと欲しかった。
「ドロシー、彼らは」
途方に暮れた、しかし安堵を隠しきれていない声だった。司祭の言葉にドールは振り返り、リップとキスした真っ赤な唇で微笑む。聖女の名に相応しい、誰をも安心させる魅力的な笑みに、疲れ果てた男たちはようやく肩の力を抜く。
「星は流れました」
「…そうか、こればかりはもう、どうしようもないな」
「ええ。私たちが護ってきた星は、名も無い野蛮な賊に奪われた。致し方ないことです。私たちにはどうすることも出来なかった。そうでしょう、司祭」
「ああ。ああ、その通りだ」
ドールの言葉に、司祭は力強く肯いた。
「そうだ、これでようやく私たちは…彼は、自由だ」
****
「うあっ」
視界を虹色の光に奪われ、脚元が波に浚われる感覚に襲われたアズは思わずぎゅっと目を閉じた。しかしすぐに両足が地面についていることに気付き、恐る恐る目蓋を持ち上げる。
まず感じたのは濃い潮の香り。それから湿気った風が頬を撫で、コンクリートで固められた地面ではなく、褐色の木材で出来た甲板だ。
「ここ、は」
視線をゆっくり上げる。潮風に煽られた見事な黒髪が、まるで水面のように陽の光を反射しながら煌めいている。深海色の目を細めて笑う彼女越しに、ずっと近いようで遠かった海が見えた。今まで見たどの海よりも輝いている。
繋げたままだった手をリノに引かれ、一歩脚を踏みだす。
紺碧の船、通称【無名】その甲板にはアズ、桜海、リノの他に、五人の船員がアズを見ていた。
「アズっち~!まァた会えてめちゃめちゃ嬉しい!」
「トニー!おれも!こんな風に会えるなんて夢みたいだ!」
すぐさま駆け寄ってきたアンソニーは、自分よりも小柄なアズに覆いかぶさるように抱き着き、小さく跳ねた。島で会った時には着ていなかった黒衣から、少しだけ消毒液のような匂いがした。
「へえ。本当にトニーと結構仲好いんだ」
「雪愛さん疑ってたっしょ?おれとアズっちは、マージ仲良しなんで!」
「え、ゆきあさん、」
アンソニーの胸から顔を少し離し、腕の隙間からそっと覗くと、すぐ近くまで迫った美貌に奇妙な悲鳴を上げながらアンソニーごと飛び跳ねる。器用だ。
「ぶっは!アズっち驚きすぎィ」
「や、あの、その、おれっ、えっと、すみませんっ」
「落ち着いて。そもそもおれとはもう会ってるんだけど」
風に浚われてしまうほど細い声に首を傾げるが、雪愛は飴色の目を一度目蓋の裏に隠し、小さく息を吐き出すだけ。
「え?」
「…いいや、また今度で」
そのうち嫌でも会えるから。意味を上手く噛み砕けず瞬きを繰り返すアズの頭を、雪愛の作り物めいた手が撫でる。アンソニーは腕の中で石像のように固まった友人に、またもや噴き出した。
「よろしく、アズ」
今にも発火しだしそうなほど顔を赤くしたアズのことなど一切気にせず、雪愛はさっさと踵を返してしまう。白地に青いヒヤシンスが刺繍された羽織が風に揺れている。そのあとを当然のように追う黒い影は、
「今のが、くーちゃん。雪愛さんの従者で、ああ見えて腕っ節はかーなーり、強いンよ。古参だけどエンゲージはしてねェの」
アズを離しながら、指が見えるように左手を軽く振る。太陽の下で輝く銀色の誓いに、アズは目を細めた。
【リードエンゲージ】
船に乗っているからと言ってエンゲージは必須ではない。紺碧は船長を除く六人のうち五人がエンゲージしている。
「くーちゃんはキャップより、雪愛さんラブ!ってェ感じだかンね。ここにいるのも、あくまで雪愛さんのためらしいし」
「玖乃さんのこと悪く言ってんじゃねーぞ」
「いってェ!」
ゴッ 鈍い音と共にアンソニーの頭が沈む。見るからに痛そうな拳骨が落ちる瞬間を目撃したアズは、喉の奥で小さな悲鳴を上げた。
「悪口じゃねェし!おれは事実言っただけぢゃん」
「おれにはそうは聞こえなかった」
「はあ?こーりんりんのお耳はただの飾りかなァ?」
腕を組んで鼻を鳴らす青年は、アズよりも頭一つ分より大きい。ジロり、不機嫌そうな濁った赤褐色の目がアズを見下ろした。
「前衛担当の
獣を彷彿とさせる鋭い目つきに、普通であれば怯み小さくなっても可笑しくないが、アズは紺碧
「生黄鈴…」
「は?乾物になったつもりはねェけど」
「りんりん、絶対ェ意味ちがうしィ」
シエナ色のレンズの奥で金色を輝かせたアズに、黄鈴は怪訝そうに目を細める。ぐい、顔を一気に近付け、雀色の手袋で覆われた指先でサングラスをつついた。
「なんだこれ、趣味なの?」
「いや、これは…つけてないと、怒られるので」
「誰に?」
「え、」
黄鈴は視線だけ桜海に投げる。苦笑しながら彼女が首を振るのを認めると、人差し指でサングラスのブリッジを引っ掛け、奪い取る。
「あんたの趣味じゃないなら外しとけ。
悪戯が成功した子供のように八重歯を見せながら笑う。その手元では重い色のサングラスが、軽やかに回されている。
「うんうん、確かに。
玩具のようにくるくる回るサングラスを、リノの細い指が止める。一度そのレンズを覗き込んだ麗人は、アズの胸元のポケットへ戻して、小さく笑う。
「使うタイミングは大切だよ。…さっきは急に飛んでごめんね。僕はリノ。紺碧の航海士だよ」
「リノぴは船のことも、世界の情勢も人一倍詳しいから、困ったら頼っていーよ。その代わり迫られるかもしンねェから注意な」
「トニー、またそんな適当言って」
リノがアンソニーの背中を笑顔で叩く。痛ってェ! 大げさな悲鳴から早々視線を逸らし、灰色の目が甲板の隅、樽の上でこちらの様子を伺っていた少年を手招きする。
「サトリくん、早くおいで」
「…煩いんだけど」
太陽の日差しから逃れるように猫耳のついたフードを被っているサトリは、ゆっくりこちらへ向かい、リノの背に隠れてしまう。
「ほら、挨拶は?」
「そういうの、普通そっちからするもんじゃないの」
「またそんなこと言って…」
リノが促すように背中を押すが、彼は頑なに動かない。フードの陰で煌めく赤い目と目が合ったが、すぐに逸らされてしまう。
「おい、新入りにぐらいもっといい感じに出来ねェのかよ」
「なにそれ。下が入ったからって早速先輩面?あんたっていつもそうだよね。どうせ弱音吐いてすぐ降りるよ」
「減らず口だけはよく回る奴だな、お前は」
「ふんっ」
黄鈴はアズの頭をぐりぐり撫でながらサトリに牙を剥く。よくあるじゃれあいに、リノは苦笑しながらアズに小さく頭を下げた。
「ごめんね…」
「いえ!サトリさんがメディアに出てこない率が高い理由がよくわかりました!」
この状況でも何故か目をキラキラさせているアズに、黄鈴は首を傾げる。
「改めまして、おれはアズです。好きなことは料理。なんでも作ります」
「ちな、アズっちは紺碧
「ちょっ、なっ、言わないでよ!」
「どーせ、すーぐバレるっしょ」
サトリの目が一瞬で曇る。困ったように息を吐き出した桜海が、宥めるように小さな頭を撫でた。
「で、サトリ、挨拶」
「ぐっ。…サトリ。さん付けとか気持ち悪いから止めてもらえる?」
「もう明日死んでも悔いはない」
「そんなンで、よーく隠そうと思ったよねェ」
思わず天を仰ぐ新入りの頬を軽く抓みながら、けらけら笑う。
「アズは黄鈴と同室になるから」
「えっ!」
「あ?なんだよ、おれじゃ不満かァ?」
黄鈴に凄まれ、首が取れてしまいそうなほど激しく横に振る。
「そんな!いや、その、まさか誰かと同じ部屋で過ごすことになるとは思ってもいなくて!…因みに他の部屋割りを聞いても?」
「おれがくーちゃんと。リノぴがサリィと一緒~。キャップと雪愛さんは一人部屋~」
「新情報を脳が処理しきれない」
この広い船で?わざわざ同室? 頭を抱えだしそうな勢いなアズの首根っこを、ひょいと黄鈴が摘まんだ。
「げ、お前ちょっと軽くねェか?飯作れるくせに食べてないのかよ。海の上じゃすぐバてるぞ」
「アズの課題は当分体力作りになりそうだね。黄鈴、面倒見てあげろよ」
「わかってるッつーの」
島では大した労働をしてこなかった身だ。背丈の割に貧相な身体の自覚があったアズは、思わず身構えた。海の狼と称される彼らの『身体作り』に果たしてついていけるだろうか。
「言っとくけど、おれは厳しいからな」
「泣かせンなよ、りんりん」
それはこいつ次第。と顎で示され、アズの背筋が伸びる。ここは海の上。平和そのものだった島と違い、いつ誰に襲われるかわからない。一分一秒、戦場になる可能性があるここで生きるには、最低限自分を生かすほどの力が必要だ。
「黄鈴。よろしくお願いします」
「…おう」
少し照れ臭そうに頬を掻いた黄鈴は、思い出したように桜海へ問いかける。
「今日は?」
「ああ、夜は歓迎の宴を予定している」
「ならそれまでに案内しとく」
「うん、任せた」
アズ。溶けかけのビターチョコに似た後を引く声に顔を上げると、空より青く自由な深海色が瞬いた。
「ようこそ、紺碧へ」
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