「こうかい」の色を知ってるか

 空と海の境界が、星を散りばめたかのように輝いている。海なんて毎日のように眺めていたのに、今なら手を伸ばしたら届きそうな気がした。

「と、んで、」

 ぐん、と圧がかかったのは一瞬だった。次に訪れたのはお腹の奥がざわめく浮遊感。空が人生で一番近い場所に感じたのはほんの僅かで、「飛んでいる」のではなく「落ちている」と気付いた頃には悲鳴も上げられなかった。

 高いところが苦手なのかもしれない。初めてその可能性に気付かされた。

 屋根から飛び降りた桜海は、カフェのオーニングをクッションにしてから地面へ着地する。二人分の体重に加えてかなりの負担が脚にかかったはずだが、それでも彼女は顔色ひとつ変えずに走り出す。やっとの思いで屋根に上り、追いかけていた人々が唖然としている。自分がそちらの立場だったなら、正直もうどうにでもなってしまえと踵を返したことだろう。

「ねぇ、なんで彼らがあんなに必死になって追いかけてくるか、わかる?」

 港までもうすぐだ。すでに紺碧の船【無名】が見えている。

「…わかりません」

 それはずっと疑問に思っていた。

 何故島人がこんなにも躍起になって桜海を追いかけるのか。春宴を邪魔されたぐらいでは、こんな事態にはならないだろう。

「きみを取り戻したいから」

「…は?」

「ふふ。って、言ったらどうする?」

 まさか。そんなこと。

「あるわけ、ないでしょ」

 気付けば十数年、あの広すぎる屋敷でたったひとりぼっちで過ごしてきた。友人を増やそうと始めた料理は、一向に認められず、それどころか口にもしてもらえない。何かしたのだろうか。自分の何が彼らに嫌がられているのだろうか。毎日毎晩、冷たいシーツに包まれながら雨の中考えた。

 おれは何のために生きているのか。

 疑問はそこまで膨れ上がり、それでも生きることを諦めなかった。きっといつか、おれだって誰かに必要とされる。そう信じてこられたのは、たったひとりの友人がいつも背中を支えてくれたからだ。

 桜海が鋭い口笛を吹く。空気を裂いた音は船にまで届いたようで、瞬く間に帆が張り、船体がゆっくり動き出す。それに合わせて桜海の速度も上がる。

 急に心臓が早まりだした。

 そうだ、どうして今まで忘れていたのだろう。

 何度もぼろぼろになりかけた心を、飛び散らないように優しく包んでくれた手が、自分にはあった。唯一の、大事な、友人が。

「ま、」

 待って。言葉が飛び出す前に桜海の脚が止まる。伝わったのだろうか、と顔を上げるが、彼女はアズを見ていない。少し眉を寄せ、困ったように軽く唇を噛んだまま、ジッと前を見ていた。

「…その子を、返して」

 耳慣れた声がいつもより数倍硬く冷たいことに、とにかく驚いた。氷で出来た剣(つるぎ)のようなそれは、使い方を誤れば簡単に折れてしまいそうだ。

「ドール」

 アズのただひとりの友人。

 教会指定の足首を隠すような白い法衣の裾をきゅっと握りしめた彼女は、大きな目を精一杯吊り上げて桜海を睨みつけている。こんな彼女を、アズは見たことがない。

「その子を返しなさい。さもなくば、神の怒りを買うことになります」

 極めてゆっくり、一音一音絞り出すようにしているが、声はマグマのような怒りを孕んでいる。アズのことを話しているのに、一切自分を見ないドールが、怖い。

「…神、だって?」

 手入れの行き届いた刃をそのまま音にしたような声に、アズは小さく震えた。彼の膝裏を支える手に力が加わる。怖いもの見たさとはまさにこのことだ、と後にアズは語るが、そっと見上げた深海色は暗く澱んでいた。

「ええ。彼に加護を与える偉大なる神がおらせられるのです」

「『加護を与える偉大なる神』とやらは、彼の心を壊す住人たちは許し、解放しようとするボクには怒るのかい。器が大きいのか小さいのか、よくわからないな」

 鼻で笑った桜海の口調は、ドールの炎を煽るには充分だった。目を真っ赤にした彼女が、懐から細かい装飾が施された筒のようなものを取り出す。それが短剣だと気付いたアズは、目を見開き慌てて身体を動かす。しかし桜海の手がそれを許さない。

「離してください!ドールが!」

「できない」

「でも、ナイフが、」

「刺さると思うのかい。あんな煌びやかに飾られただけの鉄くずが」

 桜海はドールから視線を一切外さずに、落ち着いた声でアズをあやす。数々の海を渡り、死戦を駆け抜けてきた彼女にとったら、震える手で握られた聖女の短剣など武器とは呼べない。

 唇を噛み締め呼吸を荒げながら、覚悟を決めた顔で短剣を両手で握る友人の姿は、あまりにも痛々しい。

 単純な武力で、勝てるわけがないのに。

「…どうして」

 何故争おうとするのか。エテルナ教徒である彼女は、アズが知っている誰よりも揉め事が嫌いだ。口喧嘩さえも苦手で、アズはドールが誰かと言い合いになっているところを見たことがない。

 悲痛な声がようやく届いたのだろうか。ドールはゆっくりアズを見据えた。その瞬間、彼女の瞳から怒りが消え失せ、それを覆い隠すような悲しみが広がった。

「どうして、なんて、そんなの、」

 かたかた、身体も声も震えている。出来ることなら駆け寄って、いつも彼女がアズにそうするように、肩を撫でて慰めるのに。今にも泣き出しそうな少女を目の前にしても、桜海の手は緩まない。

「こっちが聞きたいよっ!あんなに目をかけてやったのに、私よりそいつの手を取るんでしょ!なんのために今まで、構ってやったと思ってるのよ!」

 アズは目を見開いて固まった。全てを言い切ってから、持っている短剣よりよほど切れ味の良い言葉の刃を放った口を塞ぎ、ドールはまた震えだす。

「ち、が。今のは、違う…」

「可哀想に。きみが祈りも心も捧げるカミサマは、理由わけなく人と仲良くする方法を授けてはくれなかったようだ」

 嘲笑混じりの声で更に煽り続ける桜海は、何かを噛み締めるような、睨みつけるような、耐え忍ぶような、様々な感情がごちゃ混ぜになった苦い顔をしている。ドールの信念を踏み躙るような言葉を選んでいるのに、自分が傷つけられたかのようだ。

「五月蝿いっ、神が彼を望んでいるの!」

「違うよ。望んでいるのはきみたちさ。自分たちの平穏のためなら、他人の心を差し出す。信者なんて、そんなもの。いかに言葉や身なりを綺麗に保っていようが、中身はボクらと何も変わらない」

「海を荒らす獣風情がっ、一緒にしないで」

「一緒さ。どんな時だって忘れてはいけない。信じるものが違ったとしても、同じ人間だってこと」

 ドールの目が凍り付く。荒れた唇にはすでに色がない。何度も噛み締めたせいで切れ、クリームを塗る余裕さえ失っていた。重いバニラは、香らない。

「きみはちゃんと、アズの声を聴いていたのかい」

 とんっ、軽く放った言葉の矢はドールの心臓めがけて容易く突き刺さる。華奢な身体が傾く。

「お、っと。…もう、駄目だよ桜海。女の子にはどんな時でも優しくしなきゃ」

 少しだけ砂糖が溶けたコーヒーのような滑らかな声が耳朶を揺らすのと、視界の隅で虹色の光がチラついたのは同時だった。倒れかけた身体は、光と共に現れた青年の手に支えられている。

「大丈夫?」

 レンズの向こうで、青い瞳孔が特徴的な灰色の目が細められる。見覚えのある、忘れもしない色に、ドールは声を呑んだ。

 教会で出会った女性。しかし、今はどう見ても男性だ。混乱した記憶の隅で、そういえば『彼女』の手が女性にしては少し硬かったことを思い出す。

「あの、時のっ、あなた、男だったのね…」

「んー?それって重要なことかな?」

 脚を踏ん張り、一歩距離を取り睨み上げてくるドールに、紺碧の航海士・リノは肩を竦める。色を落とした指先をくるりと回し、どこからともなくピンクゴールドの小さなパッケージを取り出してみせる。

「自分の目に映るものだけを信じていると、人の本質なんて一生見抜けない。逆もそうだね。きみは表に出しすぎる。少し胸を張って、自分を彩るといい。美しい見た目は、最大の盾であり、武器になる」

 リノはそっとドールの手からナイフを取り、代わりにパッケージを渡す。丁度掌に収まるぐらいのそれに、ドールの顔が反射した。青白い顔の聖女の目は、道に迷った子供のように濡れている。底に刻まれたロゴで、これが大陸のほうで有名なブランドのリップだということに気付く。

「プレゼント。これを使う時は、たとえ何があっても笑って。そうすれば、きみの道はもっと広がるよ」

「…なにそっちの肩持ってるのさ」

 投げ捨てられたナイフが、軽い音で転がった。

 立ち竦むドールの隣を通り過ぎ、リノは不満気に眉を寄せる桜海に鼻を鳴らす。

「あのね、桜海。時には押すより引いたほうがいい時もあるんだよ。体力馬鹿のきみには理解できないかもしれないけどね」

「小言は後で。さあ、行こう」

「待って。青い別れを見守ってあげようって優しさは無いの?このままじゃ、彼女が彼の枷になる瞬間がやってきちゃうと思うな」

 立てた人差し指をわざとらしく顎に当て、ミルクティー色の髪を揺らしながら首を傾げるリノに、決定権を持つ船長は苦虫を噛み潰したような顔で唸る。そして視線だけを落とし、ドールに釘付けのアズを見てため息を吐き出した。

 腰を僅かに落とし、抱いていたアズを下ろす。

「時間はあまりないよ。…もしここで答えを変えるというのなら、ボクはそれを尊重しよう」

「…ありがとうございます」

 アズはすぐさまドールへ駆け寄った。力無く地面に座り込んだ彼女の傍に、膝をつく。瞳を隠す髪を耳にかけ、彼女の金の瞳を覗き込む。シエナ色のレンズが邪魔をするけれど、少し潤んでいるのがわかる。

「ドール」

「…早く、行きなさい。きっともうすぐ、追いついてしまう」

 弱々しい忠告に顔を上げると、桜海たちの向こうに顔を真っ赤にした司祭を筆頭にした住人たちが見えて息を呑む。

「でも、」

「あなたに構っていたのは、司祭にそう指示されていたからよ。神に捧げるあなたの身になにかあってはいけないから見張れと、幼い頃から言われていた」

「…まって、なに、それ」

「ふんっ。この島でそれを知らないのはあなただけ。あなたは、生贄になるためにこの島へ寄越された。神のために、島のために死ぬ運命…だった」

 鈍器で殴られたかのような衝撃に、アズは瞠目した。ドールの肩にかけようとした手が空で止まる。指先が氷水にさらされたかのよう冷え、震えだす。色を失った唇を開いては、閉じて、結局噛み締める。

「だってあなたは、災厄の第三王子。クス・カンダリア王家をいつか脅かす存在になる。あなたが生まれた時、王室はさぞ震えたでしょうね。ああ!どうか、神の裁きが下りませんように!そのためになら、この小さな命を捧げましょう!」

 瞳孔が開いた眼がアズを貫く。理解できない単語が脳内を駆け巡り、ぐちゃぐちゃに搔き乱される。

「…僕が思っていた展開と違う」

「余計なことするから…青さは加減を間違えると、呼吸が出来なくなるんだよ」

 腕を組んだまま肩を竦めた桜海は、ちらり、視線だけを後ろの喧騒に向け「時間切れだ」一歩踏み出す。リノは揺れる長い黒髪に灰色の息を零し、背中を追う。

「アズ、それでどうする」

「桜海さん…おれ、」

 気丈にアズを睨み続けるドールに、桜海は少しだけ感心した。

「来るなら立てばいい。応えはそれで充分さ」

 揺れていた星を閉じ込めた瞳が、真っ直ぐに桜海を見上げる。目は口程に物を言う。立ち上がったアズの手を握り、桜海はリノに視線を送った。

「はいはい、わかってるよ。少し時間を稼ぐから、もうちょっとだけ港に行って」

「けど、もう船が…」

「そのためのリノだから」

 【無名】は、流石の桜海でも跳ぶぐらいでは辿り着けないほど遠くに行ってしまった。船長を置いたまま、太陽へ向かっていく。

 リノは踵をめぐらせ、右腕を地面と水平になるように上げる。

「雛鳥の旅立ちを喜べるぐらい大人になりな」

 親指と人差し指を擦り合わせながらクロスすると、辺りに霧が立ち込め瞬く間に氷の壁が追手の脚を止めてしまう。少しひんやり下がった体感温度に笑みを零すと、着ていた薄手の黒いロングカーディガンを脱ぐ。

「彼のことは任せて」

 項垂れたまま、零れる雫で地面の色を変えていた聖女の肩に上着を掛け、三十メートルほど先で待つ桜海に駆け寄る。

「おまたせ」

「あのさ、優しさ振りまくのもほどほどにしてくれないと、皺寄せが船に来るっていい加減学習してくれないかい」

「だって、寒さで震える女の子を、そのままになんてしておけないよ。はい、手出して」

 白魚のような両手を差し出したリノにアズが戸惑っていると、桜海は何も言わずに自分よりも細い手に手を重ねた。「ほら」眼鏡の向こうで灰色の目が優しく促す。同性でも息を呑む蠱惑的な視線に喉を鳴らし、慌てて誓いの指輪が輝く左手を握った。きゅ、水のように冷たい手に、少し驚く。

「離さないでね。〈スピネル〉」

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