額縁の空
ピンクと白のリボンで飾られたゲートを前に、アズの脚が止まる。この先は春宴の会場だ。すでに多くの住人と観光客で賑わっている。シエナ色のサングラスの位置を直し、深呼吸をひとつ。例年通りの設営であれば、一番奥のステージ前にエントリーされた料理が並んでいるはずだ。声が掛かることはなかったが、めげずに今朝タルトを二ホールだけロナルドに届けておいた。何も言わずに渋い顔をしていたロナルドは、アズを認めてくれただろうか。
心臓が嫌な音を立てる。自然と早まる呼吸を鎮めようと胸に手を当てた。
「…よし」
もう一度ゲートを見上げ、一歩踏み出す。
飲み物を配っているスタッフがアズを一瞥し、視線を逸らす。誰もがコップを傾け、料理を食べ、談笑する中を切り裂くように奥を目指す。チラリ、刺さる視線は住人たちのもの。喉に刺さる魚の小骨のようなそれは、緊張を抑え唾を呑み込むたびに主張する。「どうしてお前がここに」「懲りない奴だ」楽し気な春色の声たちの明度が下がっていくのを肌で感じながらも、アズは脚を止めない。
気付いていた。彼らの持つ皿に輝くベリーがどこにもいないことを。
それでもアズは、自分の目で確かめるのだと、心に決めていた。あの日、憧れの彼らから貰った勇気はまだ燃え続けている。
「ロナルドさん、こんにちは」
「…っああ、きみか。悪いが今年は」
ステージ脇に立っていたロナルドに話しかけると、彼は怯えたようにアズから視線を外した。様々な料理が並ぶ中に、宝石を散りばめたような渾身のタルトは見当たらない。アズはシエナ色の向こうで、金色の瞳を陰らせる。
「…アズ、悪いことは言わない。もう春宴に出ようなんて思うな」
諭すような物言いに、目を瞠る。どっ、心臓がアズの薄い胸を突き破ろうとした。カラカラに渇いた口の中で、必死に舌を回す。
「な、んでそんなこと、言うんですか」
握った拳が、小さく震える。喉がきゅっと音を立て、目の奥が酷く痛い。一気に熱くなった頭がバグを起こしたのか、泣きそうなのに、それよりも怒鳴り散らしそうだった。
どうして好きなことを、他人に否定されなければならないのか。こんなちっぽけな島の枠に、一体いつまで押し込められなければならないというのだ。他人が作った硬い殻を、どうして自分は割れないんだ。
「おれは、ただっ、」
「アズ。…よしてくれよ。おれにはどうしようも出来ないんだ」
自分よりも泣き出しそうな声で言われては、何も投げつけられない。必死に言葉を呑み込んで、ロナルドの横を通り過ぎた。
様子を見守っていた住人、そしてただならぬ雰囲気に気付いていた観光客。全ての視線がアズの発達途中の身体を突き刺す。想いを仕舞い込むのも、怒りをやり過ごすのも、悲しみを見ない振りするのも、慣れている。でも、これ以上ボロボロの心に貼る絆創膏は持っていない。
呆とする頭は上手く働かず、素直に帰ることも出来ない。会場の隅にあるベンチに倒れ込むように腰掛け、空を見上げた。
遠い青色は、少しだけ懐かしい。本当の自分の髪と同じ色だ。この色が好きなのに、それも奪われる。どうして自分だけ、こんなにも窮屈な世界で息をしなければいけないんだろう。
必死になって灯した勇気の炎は、その分あっという間に蝋を溶かしてしまったみたい。
アズは、ゆっくり目蓋を閉じた。
もう、やめてしまおうか。
「ボクのおすすめなんだけど、食べてみてよ」
朝を告げる教会の鐘の音に似た声が、アズを撫でた。弾かれたように目を開け、固まる。
太陽を背にアズを見下ろす深海色の目。艶やかな長い黒髪。風に揺れるフロックコートは、青い。
「あ、っえ、は、」
「美味しいよ」
ずい、差し出された使い捨ての皿に乗っているのは、ベリーのタルト。アズが作った作品。アズはレンズの向こうで、零れ落ちそうなほど目を見開いた。
何故この人が、並んでいないこのタルトを食べているんだ?
「裏に隠すように置いてあったんだけど、あまりに美味しそうだから頂戴した。ほら、口を開けて」
一口分に切り分けたタルトを、口元に差し出され反射で向かい入れる。今日に合わせたかのように完熟したベリーの甘みが、アズの凍りかけた心を癒す。
「美味しいだろ。涙が出ても不思議じゃない」
「っひ、ふぁいっ」
いつもより狭く感じる喉で飲み込むのは苦労するが、嫌ではない。アズの頬を大粒の涙が濡らしていく。
「こんなに素敵なタルトを作れる人、是非紹介して欲しいんだけど、きみは知ってるかい」
残りをあっという間に平らげ、アズの視線に合わせるように屈む。ふわり、潮の香りがした。
涙を拭こうとする手を取られ、少しだけサングラスをずらされる。晴れた視界で、何度も紙面を彩った憧れが笑う。眩しくて目を細めるけれど、一秒でも長く焼きつけたくて零れる涙をそのままにする。
「ほら、教えて」
何にも邪魔されない世界で、こんなにもアズを真っ直ぐに見つめてくれた人は彼女が初めてだ。
「おれ、です」
「へぇ!直接感想を伝えられるなんて嬉しいな。美味しかったよ、ご馳走様。…ところで、相談があるんだけど」
アズのサングラスを直し、腕を組む彼女の声が大きくなる。聞き耳を立てている周りにもはっきり響くほどに。
「ボクはとある船のしがない船長。でも困ったことに長らく料理人が不在でね。そろそろ腕と人望を兼ねそろえた人材を確保しろ、って尻を叩かれている身なんだ。それで、きみに是非うちの船へ来て欲しい」
「…え?」
「ああ!名乗るのが遅れたね。ボクは桜海。海賊
桜海の胸元で、シルバーリングが太陽の光を反射した。
「おいっ、なんで海賊がこの島に来てるんだよ!」「
ざわつく
「一体どうして海賊なんかがこの島にっ!野蛮な侵入者めっ、彼はこの島で生きなければいけない身だ。さっさと帰れっ!」
顔を真っ赤にしたロナルドが桜海に詰め寄る。堰を切ったように住人たちの非難が桜海に向かった。しかし彼女は自分より目線が下の男を見下ろし、口元だけで笑ってみせる。明らかな、嘲笑だ。
「悪いけど」
一陣の風が吹き抜ける。
彼女の長い髪が風に身を任せて空へ駆ける。純粋な黒髪だと思っていたが、光があたると青く見えた。星が散らばる夜空に、よく似ている。
「欲しいものは奪ってでも手に入れるのさ。…海賊、だからね」
不適に笑う姿に、誰も彼も背筋が凍えた。
海をものにせんと暴れる賊の中でも、一目置かれる存在
「ま、つまり、何が言いたいかというと…」
アズの視界から桜海が消えた、と理解する前に身体が浮遊感に襲われる。
「え、あ、へ?」
間抜けな声に返事をするかのように、耳元でくすくす、笑い声が聞こえた。
「つかまって」
女性にしては低く、男性にしては艶のある声があまりにも耳心地好く、身体を竦めてしまう。言われるがまま目の前の服を握り締め、そこでようやく横抱きにされているのだと気付く。
「きみたちの言葉なんて、最初から興味ないのさ!」
「う、わあっ!」
頬を風が掠める。自分の脚では到底出せそうにない速度で桜海が人々の間を走り抜けていく。あまりの事態に誰も状況を掴めていないのか、呆気に取られた表情を晒し、桜海を止められるものなどいない。
今この瞬間、島中の誰よりも情けなく呆けた顔をしているだろうアズは、掴む場所が悪かったのか、空に放り出されそうな感覚があり、手を桜海の首へと回す。
「おっと、ごめん」
抱える力と安定感が増し、アズはようやく息を吐き出す。移り変わる景色に対して身体は殆ど揺れない。
「驚かせて悪かった」
後ろが騒がしくなる。ようやく現状を理解した島人たちが、腕を振り上げ鬼のような形相で桜海を追いかける。距離は縮まるどころか離れるばかりだが、背後を一瞥した彼女は、もう一度「つかまって」と耳を撫でる。今度こそ間違いなく落ちないよう自身の手と手を強く握った。
「いい子」
吐息にも近い囁きに耳が赤く染まるのと、身体全体に圧がかかるのとは同時だった。ひっ、と気管が絞まる。視界が上下する。ぴょん、ぴょん、と言葉にするとあまりにも可愛すぎるが、その表現がしっくりくる軽やかさで桜海が壁を登っていく。少し出っ張った窓枠を足場にして脚力だけで二人分の身体をいとも容易く建物の屋根へ運んでしまう。
「よ、っと」
アズが恐る恐る下を覗くと、走っていた道の前方からも住人が押し寄せているところだった。桜海を挟み撃ちにしようと目論んでいたのだろうが、彼女にはお見通しだ。
察しの良い何名かが指示を出しているのがよく見える。上ってくるつもりだろう。
「あ、あのっ」
「走るから、舌噛まないようにね」
「は、ひゃ、い!」
言葉は噛んでしまったが、桜海は気にも留めず走り出す。家によって瓦のデザインが違い、走るのには決して適していない屋根だが諸共しない。
「な、なんで、こんな」
派手な真似を。
確認しなくても向かっているのが海だということぐらいわかる。その海上で待っているのが何なのかも。
アズを連れて行きたいだけなら、あんな芝居じみた真似必要ないはずだ。こっそり姿を消すぐらい、簡単に出来る。だってここにアズの居場所なんて無いのだから。
「きみは浚われた。そう印象付ける、ためさっ」
屋根から屋根へ飛び移る、独特の浮遊感に少しずつ慣れてくる。
「で、でも、だって、」
「想像してご覧。ボクがきみの家を訪ねたとして、本当にきみはボクの手を取ったかい」
無理矢理こじ開けられた頭の中に海水を流し込まれた。身体の芯まで一瞬で冷やす勢いのくせに、喉から水分が奪われ口内が張り付く。無理矢理飲み下したのは、ただの生ぬるい空気。
「だ、って、」
だって、そんなの、でも、どうして。
きんきんに凍った頭では、まともな言葉なんて作れやしない。どうしようもない音ばかりが喉を引っ掻くだけ。
そもそも、今の状況も、前提も、可笑しいじゃないか。
憧れていた海賊団紺碧の上陸だけでも、天に昇れそうなほど嬉しいと言うのに、遭遇しご飯を振る舞うことになって、もう明日崖から落ちて命を失っても不思議ではないほどの幸運続きだった。夢かと思っていたのだ。たった数日の、代えようのない時間を、一生心の拠り所にしようと、そう決めたばかりだった。
思い出だけで十二分過ぎる。というのに。「きみが欲しい」と懇願され、半ば強引に連れて行かれようとしている。あの遥かな、彼女らが背負う色を煌かせる、広大な海へ。
「だって、…」
目と喉の奥が熱く痛む。
あ、いやだ。二度もこんな情けない姿を、敬愛する人に晒すことになるなんて。
「うそ、みたい、だから」
痛いほど喉が渇いているというのに、代わりと言わんばかりに零れ落ちてくる大粒の涙。桜海に抱きついているせいで、拭うことも隠すこともできない。
「夢で、いいのに」
どうにか自分の居場所を、生きる意味を探そうと酸素の薄い箱の中で足掻いていた。彩度の低いちっぽけなアズの世界で、
「それなら尚更。夢は叶えるものだろ」
涙で歪みレンズ越しの視界で見た桜海は、それでも眩しいぐらい輝いて、前だけを見ていた。
まるで、太陽のようだ。
「きみの世界を、ボクらが広げてみせるよ」
自信に満ち溢れた声に、また胸が締め付けられる。走っているのは桜海なのに、アズの呼吸のほうが乱れている。預けている胸から聞こえてくる桜海の命を刻む音は、穏やかだ。
「顔を上げて。飛ぶよ」
世界が揺れる。小さな箱にひびが入っていく。
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