吐息一つ分あける癖
夕日が海を真っ赤に染める頃、雪愛は自室への扉に手を掛けた。
「朝から出かけた割には、遅かったじゃないか」
いつの間に現れたのか、それとも居たのに気配に気付けなかったのか。背後から伸びた手が、扉に添えられる。身体ごと振り返ると、随分機嫌の悪い桜海が自分を見下ろしている。
「きみがこんなに長い時間遊べるなんて知らなかったよ、一人でね」
わざとらしく首を傾げた桜海の髪が揺れる。ふわり、鼻を掠める煙草の香りがいつもよりも濃い。雪愛が戻るまで一体何本吸ったのだろう。
「一人じゃなかった、って言ったら?」
扉に背を預けて腕を組む。ビューラーでも上がりきらない多すぎる睫毛が、白磁の頬に影を落とす。
がんっ
添えるだけだった手は拳になり、船内中に響くほどの力で扉が殴られた。
「ちょっと…壊したらサトリに怒られる」
いつも以上に華奢な肩を竦め、顔の横にある拳をちらりと見る。硬い木を殴ったというのに赤くもなっていない。
「そのサトリに振られて、どこぞの男を引っ掛けて、今まで楽しんでたわけ?」
「いつの間にそんな妄想癖がついたの?」
「誰のせいだと思っているんだい」
鼻先が触れ合いそうになるほど顔が近付く。このまま口付けてしまおうか、と雪愛が顎を上げると、察しの好い彼女は身体を引いた。
「臆病者」
「なんとでも言いなよ。何故連絡を切ったんだ?」
「質問ばかりでつまらない」
「だから、誰のせいだと」
桜海が離れたのをいいことに、雪愛は自室の扉を開ける。背後で大きなため息が聞こえた後、扉が閉まった。勿論桜海も一緒だ。ベッドに腰かけ、彼女を見上げる。
不機嫌だったはずなのに、今はどちらかというと困惑した表情をしている。雪愛の感情を測りかねているのだろう。
「お気に入りの料理人を見つけたんでしょう?」
伽羅色の髪を揺らす。桜海は雪愛の言葉をゆっくり咀嚼し、呑み込んだ。
「アズに会ったのか」
「男のあんたと好い仲かと疑われた」
予期していなかった言葉に、桜海は照れ臭そうに頬をかく。へらへらしない、と雪愛が柳眉を寄せると、小さく謝りながら彼の隣に腰かける。
「言うタイミングがなくてね。伝えるのが遅れた」
「あんたの船に乗ったのは、おれが一番でしょ。なら最後まで一番で居させて」
擦り寄る雪愛から、少しだけ距離を取る。女性になるといつもより長くなる伽羅色の髪から、胸を焦がす甘い香りがして心が揺れてしまう。年齢に準ずるなら少女という呼び名は相応しくないのだが、国柄幼く見える顔をしている彼が女性になると『美少女』以外のなにものでもない。拳一つ分かと錯覚するほど小さな顔、重たげな睫毛、蠱惑的な瞳に果実のような小さな唇。柔らかな曲線を描く身体は、女である桜海でさえも目を奪われるほど完璧なバランスで、男女問わずこの『美少女』に跪いて尽くしたくなる。桜海だって許されることなら、彼の手を取りその甲に口づけの一つでも捧げたい。
可愛らしいおねだりに、手が伽羅色に伸びそうになるのをぐっと堪え、代わりに枕を手に取った。
「悪かったよ。ボクの一番をきみ以外の誰かに譲った覚えはないさ」
「そうじゃなきゃ困る」
雪愛の視線が枕へ移る。まるで親の仇かのように見つめる目に、桜海は瞬きを繰り返す。どうも今日は機嫌がよくならない。む、と膨らんだ白磁の頬にどうにかして桜を咲かせたいが、なかなか良案が思いつかず頭を掻いた。考えて行動するのは苦手なのだ。仕方なく話題を引き摺ることにする。
「彼をね、船に乗せるから」
「…ああ、アズ?でも
扇情的な飴色が桜海を見上げ、喉が鳴る。見慣れている色なのに、ふとした時に心を掻き乱してくる。
「志願したなら兎も角、勧誘となると嫌になった時可哀想でしょ。地図にない島じゃ、もう二度と来られないかもしれないのに」
雪愛は自分の豊満な胸を見下ろして青い息を吐いた。
来るもの拒まず、去るもの追わず。今まで声を掛けてきた
「でも彼の居場所はあそこじゃないよ」
「だからここを居場所にしてあげるって?随分偉くなったね」
アンソニーからアズの話を聞いていた雪愛は、彼の話しぶりからこうなることは予想していた。でも今日偶然にもアズに会い、彼に幻滅して欲しくないと心が揺らいだ。料理の腕は申し分なく、出来ることならすぐにでも船に来て欲しい。けれど、この呪われた身体のことを知れば、彼だって嫌いになるだろう。そうなるぐらいなら、『敬愛する紺碧』のままでいい。
「きみだって気付いたんだろう。彼はクス・カンダリアの星だよ」
「わかってる」
ふとした拍子に見えたシエナ色のレンズの向こう。眩い金色の目の中で、小さな三連星(みつらぼし)が輝いていた。
この島から一番近い西の大陸『
「クス・カンダリアの思惑はわからない。けれど、彼をここに閉じ込めるのは得策ではないよ。心が先に死んでしまう」
わざわざ地図から消し、訪れる船を選別してまで隠している存在だ。触れないほうがいいのはわかっているが、桜海にはどうしても放っておけない。如何なる理由があろうとも、現に彼は今の状況に疲れ切っている。桜海たちには決して言わず気丈に振舞っていたが、あれでは時間の問題だ。
受け取る側の気持ちを無視した優しさは、凶器だから。
雪愛はそっと目蓋を閉じた。
「…でも、きみが嫌ならやめる」
揺れる声に、蝶を羽ばたかせる。夜の水面と同じ色の瞳に、自分の姿だけが映っているのが見えて安心した。
「そんなの、駄目」
水面に映る自分が、泣き出しそうな顔で笑う。
「あんたはこの船の長。船はね、あんたの声で針路を決めるの。あんたがおれに動かされたら、誰もついてきてくれなくなる」
首から下げた誓いの指輪を握り締める。彼女が雪愛のために動いてくれるのは素直に嬉しいが、その在り方は船を沈めかねない。
「桜海が決めるから、意味がある」
春の鳥が鳴いているかのような美しさに、桜海は酔いしれた。雪愛はそう言うが、結局桜海はこの声に揺れ動かされ、背中を押されている。
「ありがとう、雪愛」
身体が自由であったなら、きっと口付けていた。甘い香りに誘われるままに、欲望に任せていただろう。もう忘れかけている赤い唇の味を、一刻も早く取り戻したい。そのためにも、船は動き続けていなければいけないのだ。
「アズを料理人として、迎えるよ」
「船長の思うままに」
****
桜海の背中を見送った雪愛は、ベッドに腰かけたままでいた。彼女が抱いていた枕を手に取り、顔を埋める。うっすらと化粧をしているのにこんなことをしてしまっては、白粉が移りかねないが、今はどうでもいい。
「…桜海」
少しだけ、彼女の香りがした。ぎゅう、と強く抱いて、胸いっぱいに吸う。彼女に抱き締められる自分を想像して、心が跳ねる。頬に桜を咲かせながら、そのまま転がった。柔らかなベッドは、軋むことなく雪愛を向かい入れる。
「あ…っ、ひっ、ぐ…っ!」
言葉を紡ごうとした喉が、きゅっと絞まる。見えない誰かに首を押さえつけられているかのような感覚は、何度味わっても慣れない。生理的な涙で目元を滲ませながら、酸素を求めて喘いだ。
「はっあ、はあっ、くっそ」
悔しくて、仕方がない。呪いごときにこの感情を制限されるなんて。横暴すぎるカミサマとやらが、憎い。
「おうみ」
一音一音、抱き締めるように呼んだ。もうこうすることでしか、彼女を愛せない。
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