炒めた優しさ
島で一番の屋敷は、アズがひとりで住むには広すぎる。「ただいま」響く声に返事はなく、暗い廊下だけが彼を出迎える。孤独を当たり前のことだと錯覚しだしたのは、いつからだったか。
リビングに入ると、部屋中に甘い匂いが残っている。出る前に窓を開けておけばよかった、と肩を落とし、買ったばかりの食材をしまう。新鮮な春野菜を目にすると、いつもなら心躍るのに、今日はため息しか出てこない。これから生み出す料理も、誰にも認めてもらえないのだろうか。
ふと、姿見の中の自分と目が合った。
「…酷い顔」
黒塗りされた髪を耳にかけ、シエナ色のレンズを外す。見慣れた金色の目は、疲れ果てている。
「下向いてると、鴉が来るぞ」
童話の一説を唱えて、無理矢理口角を上げる。どんなに寂しくても、つらくても、笑おうと決めている。「あなたの笑顔が世界で一番素敵だ」と言ってくれた人がいたからだ。笑っていれば、頭の中で彼の声が響く。
アズは十一年前、六歳の時にこの島へ連れてこられた。それより前の記憶は朧気だが、少なくとも今よりは周りに人が集まっていたように思う。島に来てから十五になるまでは、世話係が出入りしていて「目立つといけないから」という理由で髪を染められ、サングラスを掛けるよう強く言いつけられた。一度サングラスを外して出歩いていたら、真っ青な顔をした司祭に捕まり、日が暮れるまで教会に閉じ込められたことがある。何故「目立つ」と駄目なのか、そもそも何故「目立つ」のかは未だにわからない。しかし幼いながら、司祭は何かに怯えている、ということはよくわかった。震える声で「お許しください。お許しください」と大量の汗をかきながら頭(こうべ)を垂れる姿は異様だった。それ以来、言いつけを破らないようにしている。
鏡の中で不恰好に笑う自分をつつく。何も知らない顔で笑っていれば、みんなが安心してくれる。アズに冷たい態度ばかり取る大人たちだが、彼が泣きそうな顔をすると、まるで脇腹を刺されたかのように顔を歪めるのだ。言葉が刺さって痛いのはアズだというのに、そんな顔をされてしまっては、恨むに恨めない。
根は優しい人たちばかりだ。アズに優しさの矛先が向かないだけで。
そんなのとっくにわかっているのに、今年こそとしがみつく自分が悪いんだ。さっさと諦めてしまえば楽なのに。
カラン カラン
急に響いた高い音に、肩を跳ねさせたアズは、慌ててサングラスを掛けなおす。来客を告げる鐘の音だ。いつも来るドールとは約束していないし、今日の様子では来る気もないだろう。
なら、誰が。
『へへッ。アズっちの料理、食べてみてェなァ』
口溶けの好いキャラメルみたいな声を思い出して頬が緩む。もしかしたら。いや、違うかもしれな。でも、約束したんだ。やめろ、期待なんてするな。
「はーい!」
思いのほか声に力が入り裏返ってしまった。鍵を開ける指先がもたつく。
「…」
ドアノブを握り締めて、一度だけ目を閉じる。例え誰であっても、笑おう。
「サリュ。お言葉に甘えて、来ちゃった」
甘いたれ目を細めて微笑むアンソニーの姿に、アズは身体中の力が抜けるのを感じた。緊張感と恐怖感、それと僅かな後悔で暗く沈んでいた思考が、一気に晴れ空へ変わる。上げた口角が震える。
「トニー…」
「あ、っと。どうした、どうした?」
張り詰めていた糸が切れたのと同時に、サングラスの向こうでアンソニーの顔が歪んだ。海越しに見ても、整った顔立ちは輝きを損なわないのだと、
そこでようやくアズは、来訪者がアンソニーひとりだけではないと気付いた。
「トニーが泣かせたのかい」
「ちょ、それはないでしょ~」
アズの死角になっていたアンソニーとドアの影から顔を覗かせたのは、アンソニーよりも背が高い男性。アズのものとはまるで違う艶やかな黒髪と、笑顔が眩しい彼の名前を
「紺碧って、いつの間に新メンバーを…?」
ならば彼はまだ情報の出回っていない新たな船員、そう考えたのだが、アズの言葉に黒髪の青年は目を見開いて固まり、アンソニーは口元を押さえ震えている。
「笑うなよ、トニー」
「いやっ、いや、だ、だって、ふひひっ」
苦虫を噛み潰したような何とも言えない表情で、青年はアンソニーの頭を軽くはたいた。笑いすぎて薄昏色には涙が滲んでいる。何か変なことを言っただろうか、とアズは眉を寄せて瞬きを繰り返す。それを否定するように首を振ったのは、青年だ。アズよりも五つほど年嵩だと思う。深い青の目は切れ長で、涼しげな顔立ちや纏う色彩から、東の出身を匂わせる。
紺碧を結成した船長が東国出身だからか、船員の半数近くが東の大陸【
「すみません、
「アズっちは悪くねェよ~。確かにィ、この人の情報は世に出回ってないからさァ」
青年の肩をばしばし叩きながら軽快に笑うアンソニー。嫌な顔ひとつせずに、青年はされるがままだ。
同じ男でありながら見惚れるほどの顔立ちに、アズは口内に溜まった唾を呑み込んだ。メディアでも
「あの、お名前は…」
「え?あー…
何故か苦笑している峯を不思議に思いつつも、やはり東の出身らしい耳慣れない音を口の中で何度か繰り返す。美しい響きだが、舌にはあまり馴染まない。
「おれはアズです。トニー、峯さん。よかったら中へどうぞ」
散らかっているが、ふたりが座る場所ぐらいはある。ダイニングでは椅子が足りず、申し訳ないがリビングのソファへ案内する。身体が大きなふたりが座るには少し窮屈そうだが、どちらも眉を潜めることなく、楽し気に笑いながら礼を言う。
「悪いね、アズ。トニーが無茶言って」
「うぇ?まァたおれが悪いってェの?アズっちが誘ってくれたんですぅ」
「どうだかね。きみ、強引なとこあるから」
急いでローテーブルの上を片付けるアズのことなど気にせず、小突き合いを始める二人。本当に情報が出ていないだけで、峯は新人ではなさそうだ。アンソニーとここまで気兼ねなく話せているのが証拠だろう。
「お茶、冷たくてもいいですか?」
「むしろ冷たいほうが嬉しいなァ。この人と話してると、すぅぐ喉渇いちまうの」
骨ばったアンソニーの人差し指が峯の頬をぐりぐり差す。やめなよ、と言いつつも本気で止める気配はない。心を許しあった良き友人。そんな言葉がしっくり来る光景に、アズはデザインがばらばらなカップを、両手に握り締めた。アズぐらいの力では、ヒビひとつ入らない。
「立派な家だな、アズの他に住んでいる人は?」
「いや…おれだけ、です」
峯の言葉に語尾が震えた。
「えっ、マジでェ?すっげ、リッチぢゃん」
「こら」
アズの家は、この島の中でもかなり浮いている。年季の入った建物が多い中ではかなり新しいほうで、何処の民家よりも敷地が広くて立派。津波の心配がない高い場所にあり、身の安全は保障されているが、その分買出しのためには長い坂を下りたり上ったりしなければならない。周りには人が住んでいる建物はなく、あるのはこの家より大きな教会ぐらい。
端から見たら羨ましがられるかもしれない。けれど、ここでぬくもりを感じたことはない。アズにとってこの家は、監獄と等しい。
「悪かった、変なこと聞いたね」
峯は人の感情に敏感なのか、アズにとって地雷とも言えるところに軽く踏み込んでしまったことを瞬時に察し、茶化すアンソニーを沈め、申し訳なさそうに眉尻を下げた。
悪いのは、彼ではないのに。
「あッ、そうだそうだ、昨日教えてくれた店!ちょ~美味しかったァ」
飲みかけのグラスを掲げる緋色に、アズは微笑む。
「雪愛と行ったところ?」
「そうそう、アズっちが教えてくれたンよ!」
言っていた通り副船長を連れて行ったのかと思うと、胸が熱くなる。
「あー、床になりたい人生だった…(気に入ってもらえてよかったよ)」
「アズっち、最高すぎるンだけど」
心の声が飛び出たことに気付いていないアズは、首を傾げる。アンソニーは何でもないよ、と笑い、峯と顔を見合わせる。
「いい子っしょ?」
「本当にね」
「あ、何かリクエストあれば作れるよ」
青いエプロンを身につけながら振りむくと、二人は暫く考え込んだ。
「うーん、任せるよ。ボク何でも食べられるし」
「そーゆーの!一番困るやつだし!ね、アズっち!」
「あ、はは」
当番で料理する際にも、そう言われて困ったことがあるのだろう。アンソニーは峯の膝を叩いて、眉を吊り上げている。
「なら、きみはどうなの」
「アズっちの一番得意なやつで!」
「ボクと変わらないじゃないか」
「違ェし」
口喧嘩、とまではいかないが、和やかから離れた空気に苦笑する。毎日「なんでもいい」なら困るだろうが、きっと今日限りだ。峯は兎も角、アンソニーの嫌いなものは把握しているから、それさえ避けて好きに作ればいいだろう。セロリと香辛料をリストから除外して、昨日から何度もシミュレーションしたレシピを脳内で展開させる。
まずはスープと前菜。コンソメかポタージュで迷ったが、メインとの相性を考えてコンソメベースのシンプルなものにする。前菜は今日買った茄子を使ったカルパッチョ。オリーブオイルを温め、ニンニクとアンチョビを炒める。程よいところで生クリームを加え、塩・胡椒で味を調えて、茄子に掛ける。バーニャカウダーソースの好い香りが食欲をそそるだろう。
メインに取り掛かる前に、コンソメスープと茄子のカルパッチョを食卓へ並べると、二人から感嘆の息が漏れる。
「ごめん、ワインでも用意しておけばよかった」
「確かに合うだろうけど、人の家でそこまでお世話にならないさ」
いただきます、と両手を合わせるのを見届けて、メインを作り始める。合挽肉と塩・胡椒・刻んだプロシュートに、ペコリーノチーズと卵をボウルに入れて、後ろからの「美味しい」という声を聴きながら捏ねる。まとまってきたところで、小さく丸めて熱した油で揚げていく。その間にオーブンを温めるのを忘れない。ころころのミートボールとモッツアレラチーズを交互に並べて、その上からたっぷりのトマトソースをかける。温まったオーブンで十五分ほど焼けば、ポルペッティの完成だ。今朝焼いたフォカッチャも一緒に並べる。
「わわ、想像以上なんだけど…」
カルパッチョが余っているのは、アズの分だろう。気にしなくてもいいのに、と思いながら出来立てのポルペッティを取り分ける。トマトと、とろけたモッツァレラチーズの香りが肺の中で手を繋いでいる。食べる前から美味しいことがわかりきっている料理の登場に、アンソニーは喉を鳴らした。
「凄いね。店出したら行列出来るよ」
「そんな、無理です」
ほかほか、出来立ての湯気を見つめながら微笑む峯に、口元を歪める。笑おうと思っても上手くいかない。彼の前では、閉じ込めた本心が簡単に出てきてしまう。この島で店を出す、それが如何に難しいか。今朝見たロナルドの背中を思い出して、目を伏せた。峯はアズの様子に気付いているが何も言わず、ポルペッティにフォークを刺す。
「美味しい」
「アズっち、マージ大天才ッ!めちゃめちゃ尊敬しちゃうわ」
喜色一面の声に顔を上げる。黙々と食べ進める峯。一口食べる度に感想を言うアンソニー。自分の料理で誰かを笑顔にする。ずっと願っていた夢が叶い、しかも相手が憧れの人々だということも相まって、身体が熱くなる。喉の奥がきゅっ、と締められるように痛くなって、不味いと思った時にはもう遅く、アズの頬を涙が伝っていく。
「あ、」
歪む視界でアンソニーが慌ててフォークを置いたが、峯が制す。彼は流れるような所作でハンカチを差し出し、もう一度「美味しいよ」と言った。
人はどうして、こんなにも欲深いのだろう。
夢にまで見た光景を焼き付けたいのに、涙がそれを許さず、心が「もっと」と叫んでしまう。
もっとこの人たちに食べて欲しい。多くの人に食べて欲しい。笑って欲しい。
許されるならば、もっと、このぬくもりと共に居たい。
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