無垢な星
焼きたてのパンの香りを背に、とぼとぼ歩きだしたアズの視界へ、白いハンカチが映りこむ。手袋を嵌めた華奢な手はドールのもの。アズは小さく笑って、首を振る。
「もう、泣くのも止めたよ」
アズが右手に持つ箱の中には、完成した時と同じ形のベリータルト。
「今年は見てもくれなかったなぁ」
去年までは皿に出すことは出来た。その前は食べてくれていた。年々酷くなる審査に、もう落ち込む気力もない。なんとなく、こうなる気はしていたのだ。それでも諦めきれなかったのは、目標に向かって料理をするのが好きだから。普段は自分が食べる分だけを作っているが、年に一度のこの時期だけは『春宴のため』に作ることが出来る。アズはそれだけで楽しいと思えるほど、料理が好きだ。
ドールは行き場の失ったハンカチを見つめ、何度か口を小さく開いては閉じる。
「…あなたの料理が、一番よ。私の中で、ずっとね」
ようやく捻り出せたのは、いつもと変わらない、平々凡々で陳腐な言葉。それでもアズは嬉しそうに頬を染める。
「ありがとう、ドール。これ、よかったら今日の夜にでも、食べて」
「ええ、嬉しい」
家を出る前に一切れ食べたが、今まで食べたスウィーツの中で群を抜く美味しさだった。瑞々しい果実と、それを最大限に引き出す甘さ控えめのクリーム。滑らかなカスタードからは豊かなバニラの香り。さくさくのタルト生地は口に運ぶまで崩れず、一口噛んだ瞬間、予想を裏切るしっとりした食感に驚かされた。一体どれだけの研究を重ねたのだろうか。もう一度食べられることは素直に嬉しいが、アズの気持ちに寄り添うと、酷く胸が痛む。噛み締めた薄紅色の唇からは、ほんのり鉄の味がした。
「じゃあ、お勤め頑張ってね」
「ありがとう。これを励みにするわ」
受け取った箱を掲げると、アズはシエナ色のレンズ越しで目を細めた。こんな日でも、星は煌めいているのだろう。サングラスがあってよかった。あの煌めきに見つめられたら、今すぐにでも膝をついて、懺悔してしまいそうだから。
教会へ向かうドールの背を見送るアズを、振り返ることなく足を進める。今日は司祭との面談だ。憂鬱な気持ちを仕舞い込み、表情を引き締めた。
凛と背筋を伸ばし歩く姿に、修道女たちが恭しく頭を下げる。いつの間にか、意図もせず敬われる立場になってしまった。アズのおかげで。花壇のオーニソガラムが、ジッとドールを見つめている。純粋で無垢。ドールにも、この教会にも相応しくない花の星に、責められているような気がして、足早に部屋へと向かった。
「聖女ドロシー。司祭がお呼びです」
タルトを置くとすぐに、声が掛かる。少しうんざりしながら返事をし、鏡の前で身なりを整えた。
「あ、」
唇が切れている。手入れには気を使っていたのに、噛む癖のせいで維持するのは難しい。愛用しているクリームは、冬が始まる頃にアズから貰ったものだ。ほんのりバニラの香りがする。本当は好みじゃなかったが、使っているうちに慣れてしまった。
「ドロシーよ、星の子の様子はどうかな」
「変わりなく」
祭壇に祈りを捧げた後、そばの長椅子に腰かけた司祭とドールは、静かに話し始める。構造上、声がよく響いてしまうのだ。あまり聞かれたくない話だが、司祭は必ずここで面談を始める。偉大なる神の前で、嘘を吐くことがないように。
白眉を下げるブルーノ司祭は、ドールの言葉に満足そうに微笑んだ。
「あれは
「はい」
口が鉛のように重たい。出来ることなら返事などしたくはないが、首から下がる教徒の証が許さない。
幼い頃、アズがこの島へ連れられて来た時から、何度も聞かされた言葉。当時は意味などわかっていなかったが、この歳になれば嫌でも理解してしまう。大人たちが、唯一人の友人にどれほど残酷な枷を嵌めているか。
唇を噛みそうになって、鼻先をくすぐる甘い香りのおかげで我に返る。重いバニラの香りが、これ以上彼女が傷付くのを止めようとしてくれたようだ。
「変な気を抱くでないぞ。元より我々とは、違う世界で生きる方なのだ」
司祭が立ち上がる気配がしたが、ドールは顔を上げることが出来なかった。白い手袋を嵌めた手をジッと見つめ、吐息と共に小さな疑問を吐き出す。
「許される時間が僅かなのであれば、せめて、もっと、人々からの愛を感じても、良いのではないでしょうか」
何度、彼の悲し気な顔を見てきただろう。どれほど慰めの言葉を贈り続けただろう。この関係に終わりが来るというならば、それまでの間だけでも、彼の道には笑顔が咲いて欲しい。
「…星は、闇の中だからこそ煌めくのだ」
「すみません」
一人になったドールの意識を浮上させたのは、涼やかな声だった。まるで水面に垂れる一滴の雫のような透明感のある声に、ドールは慌てて立ち上がる。ゆっくり
「勝手に入ったら、不味かったかな」
「いえ。神はいつでも貴女をお待ちしております」
「あはは、人誑しなカミサマだ」
口元に当てた左手の薬指で、シルバーリングと華奢なプラチナゴールドの指輪が、二つ重なっている。ちぐはぐなデザインを不思議に思ったが、人の趣味に口出すのも憚られ、ドールは祭壇の前まで彼女を案内した。
「少し気になることがあって、聖女さんなら聞いてくれるかなって」
「私でよければ」
「ありがとう」
彼女はドールよりも背が高いが、両手を合わせ強請る様は、まるで見上げられているように錯覚する。眼鏡越しの色素の薄い目が、ドールの心に入り込んだ。
「東にハープ、西にバイオリン、北にフルート、そして南にピアノ。それぞれの楽器を扱う女性のステンドグラスと、きみの胸元の
「え、ええ」
妙に圧のある話し方に、ドールは脚を一歩引く。背中を冷や汗が伝った。目の前の彼女は変わらずにこにこ笑っているが、ひとつ間違えたら崖から突き落とされそうな迫力がある。
「そう。エ・テルナ教と言えば、クス・カンダリア王国の国教として有名だよね。あ、そういえば!この島へやってくる観光船は、全てクス・カンダリア発のものだった。つまり、この島って、あの国の支配下にあるってことだよね」
「なにをっ」
声を上げたドールの唇に、彼女の人差し指が押し当てられる。
「駄目だよ。そんなに焦ったら、図星だってわかっちゃって、つまらない」
ドールの顔から血の気が引いていく。しかし彼女は止まらない。アプリコットオレンジで彩った爪先を振りながら、まるで歌うように追い詰める。
「あーそうそう、気になってるっていうのはね、クス・カンダリア発なのに肝心のクス・カンダリア国民が、一人も乗っていないことなんだ。ちょっと珍しいよね。ならクス・カンダリア以外からの船が来てもよさそうじゃない?なんであの国が全て管理しているのかなー。小さな島だから、観光客がお金落とさないと結構厳しいでしょ?だからクス・カンダリアが斡旋しているんだよね。でもさー、なんのために?こんな小さな島を、地図から消してまで守るのか、気になっちゃって」
「お帰りくださいッ!」
「うわっ」
目の前が赤くなった衝動のまま、彼女を突き飛ばすように背中を押した。倒れそうなほど大きく傾いたが、ピンヒールにも関わらず堪えたようだ。
何故この島の秘密を知っているのか。一体どこから漏れたのか。情報は完璧に王国が管理しているはずなのに!
「もう、むきになっちゃ、可愛い顔が台無しだよ」
くるり、スカートの裾を揺らしながら向き直ると、ドールの腰を抱き寄せた。ここまで近付くと彼女の背が頭一つ分大きいことに気付く。眼鏡の奥で甘い色の目を細め、ドールの顎を指先で掬い上げる。
「きみの心に閉じ込めておくには、大きすぎるでしょ」
先ほどまでの涼やかな声は鳴りを潜め、否応なしに胸が高鳴る色付いた低音が、鼓膜を揺らした。微糖のコーヒーに似た声が、ドールの身体に流れ込み、豊かな香りで支配しようとする。
彼女の手が、
「安心して。どんな姿でも、僕なら受け止めてあげるから」
腰を撫でる手の硬さに違和感を覚えたのと、西のステンドグラスからの光が強くなったのはほぼ同時だった。バイオリンを弾く
「離して!」
名だたる聖女に見守られている中、流されそうになった自分に腹が立つ。唇を強く噛んで睨みつけるが、彼女は残念そうに眉を寄せるだけ。
「速やかにお帰りください。さもなくば、神のお怒りを買うことになりますよ」
思わず握り締めた
「あら、怖い怖い」
明らかな嘲笑にドールの顔は更に険しくなる。
「貴女には信じる心がないのですか?」
この島の住人たちは敬虔なエ・テルナ教徒ばかりだ。生まれた時にこの教会で祝福を与えられ、節目に誰もがここを訪れる。頭の固い大人だって、この祭壇を前にすれば容易く
ドールは、そういう人たちしか見たことがない。だから彼女が、この場で不貞を働き、飄々としているのが理解できない。
「あるよ」
「ならどうして、」
「でも、それを捧げるのはカミサマなんかじゃない」
氷で出来た刃の言葉に貫かれる。
神以外に心を捧げる。信じがたい行為を受け入れきれず、足元がふらついた。彼女は何を言わずにドールを支え、椅子に座るよう促した。
「そもそもエ・テルナ教は、唯一絶対神を掲げてはいないでしょ。『ここの神』だけに囚われていたら、道を違えることになる。なにか一つを信じるのなら、周りに目を向けることもしないと、いざという時に動けなくなっちゃう」
「…いざという時」
「そう、例えば…大切な人を、守りたい時。とかね」
ドールの頬をひと撫でする指先は、見た目よりも硬い。笑っているのに、どこか泣き出しそうな亜麻色の目に、掛ける言葉は見つからない。
「これ以上は聞かないよ。きみの信道が揺るがないことぐらい、目を見ればわかるもの」
彼女の指が、切れた唇を咎めるようにつつく。
「きみはとても赤が似合うけど、血で彩るのは可愛くないよ」
スカートを翻し、彼女は入口へと歩き出した。足音が響く度に脳みそが揺さぶられているような気がしたが、結局引き留めることは出来なかった。
「神のお怒り…か。いっそ目の前でその拳をひけらかしてくれたら、こっちに引き摺りだして後悔させてあげるのに」
海賊団『紺碧』の航海士・リノは指先に少しついた血を、ハンカチで拭う。今度彼女に会うことがあったら、赤いリップを贈ろうと決めた。
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