狼に溺れる
憧れの海賊団『紺碧』に目を奪われていたアズだったが、隣にいるドールの顔が恐ろしいほど青白いことに気付き、慌てる。
「ど、どうしたのさ、ドール」
細い眉を寄せた彼女は、握っていたアズの手に力を込めて「帰ろう」と訴えた。唯一人の友人が、今にも倒れそうな顔色なのだ。断る理由もなく、アズは何度も頷いた。
シエナ色のサングラスを掛けなおし、ドールの背中に手を添える。
「大丈夫?教会まで歩けそうかな」
「ええ、平気」
幼い頃はドールのほうが高かった身長も、時を重ねるごとに追いつき、追い越した。細い身体はふわふわ柔らかく、それが『女性らしさ』だと知ったのは最近だ。意識すると頬が熱くなってしまう。贔屓目なのかもしれないが、彼女はこの島で一番魅力的な女性だ。
「アズは…‥少し優しすぎる」
繋がった手に身体を寄せるドール。彼女の体温は、アズよりも低い。
「こんな環境なのに、あなたはどうして、こんなにも、」
ふと、言葉が止まる。彼女は薄紅色の唇を噛み締め、声を呑み込んだようだ。
『こんな環境』
彼女の言葉に、アズは苦笑する。確かに自分は、他人よりも不遇だ。ほんの少しだけ。しかし恵まれていないわけでもない。言葉が話せる。文字が書ける。剣術は平均より上手く、何より料理が得意。立派な家がある。過ごすのに困らないほどのお金もある。生活していくのに、不自由なことは一つだってない。
ただ一つ、挙げるとするなら『他人に嫌われている』ということだろうか。この島に来てから何年も経つが、まともに会話をしてくれるのはドール唯一人。同世代には居ない者のように振舞われ、大人たちには煙たがられる。アズが話しかけると、誰も彼もが苦虫を噛み潰したように顔を歪め、すぐに視線を外し、ぶっきらぼうな言葉しか返してくれない。
何故こんな扱いを受けるのか。心当たりはまるでない。記憶にあるかぎり、初めからそうだったから。
「ドール。優しいにすぎるなんて無いよ」
彼女が呑み込んだ言葉の形を見ない振りをして、アズは繋いだ手を軽く振った。そうすれば、ドールが少しだけ頬を緩めると知っているから。
「これがおれの、精一杯なだけ」
「私には十二分すぎるっていうことよ」
「おれはドールから貰っている優しさを返してるんだから、ドールもおれにそれだけ優しいんだ」
ドールの真白な頬が赤く染まる。友人の稀にしか見られない姿に、アズは満足そうに笑う。
誰からも除け者にされる世界で、彼女は甘い紅茶のような存在だ。温かくて、心を安らげてくれる。
「私は、優しいわけじゃ、ないよ」
苦しそうな声に、目を伏せる。気付かない振りをする。彼女の胸の奥まで暴きたいわけじゃない。ただ手を握ってくれるだけで、いい。
「ドール、明日一緒に行こうね」
わざとらしくトーンを上げ、抱えた籠を揺らして見せた。艶やかなベリーに、ドールはようやく肩の力を抜いたようだ。
「勿論。完成、楽しみにしてる」
「任せて。…‥あ、砂糖足りないかも」
アズの家と、ドールが身を置いている教会は、小高い丘の上にある。対して市場(マーケット)は港近くで、逆方向だ。アズはドールの手を離すと、軽やかに走り出した。
「アズ!」
「買ってから帰るよ!また明日!」
「~~っ!知らない人には声かけないでね!」
まるで幼子に言いつける母のような言葉を、背中で受け止めながら、小さく噴き出した。同い年だというのに、彼女は心配性だ。
砂糖と、それから料理酒も少なくなっていた。ついでに買ってしまおう。
意識が軽く飛んでいたのがよくなかったのだろう。アズは前から歩いてきた男性に、勢いよくぶつかってしまった。
「わっ、と」
衝撃と共に籠の中のベリーが飛び出し、道端に転がった。三分の一ほど落ちてしまい、何粒かは相手に踏まれてしまった。慌てて拾おうとしゃがみ、まだ綺麗なベリーに伸ばした手の上に、誰かの手が重なった。
視線を上げると、すぐ傍にある見覚えのある顔。何度も誌面で見た甘い顔立ちに、アズは喉の奥で小さな悲鳴を上げる。
「ご、ごめんねェ。おれ全然前見てなくてさ」
「いっい、いや、だいじょぶ、です、はい、お気になさらず」
八の字を描く眉と細められた薄昏色の目から、申し訳ないという気持ちがひしひしと伝わってくる。こんな顔をさせているのが自分だと思うと、胸が痛む。
ぶつかった相手は、今まさに思いを馳せていた海賊団『紺碧』のひとり。船医のアンソニーだ。
「これ、洗えば食べられるかな」
「平気です。どちらにせよ半分は加工する予定だったので」
偶像化していた内のひとりとの遭遇に、胸がきゅうきゅうと音を立て、嬉しいはずなのに早く立ち去ってしまいたい気分に襲われ、意図せず早口になってしまった。あんなにも会ってみたいと思っていたというのに。
「そんな雑に入れたら可哀想。こんなに綺麗なんだから」
宝石みたいだね。うっとり微笑むアンソニーに、見惚れてしまう。
「アンソニーさんのほうが、ずっと、綺麗です」
「え、」
「あ!い、いや!その、」
ベリーよりも大きな薄昏色の瞳を見ていたら、つい自然と零れてしまった。これ以上何を言い出すか分からない口を、慌てて両手で隠す。
持っていた手を離してしまったものだから、バランスを崩した籠がアズの膝から落ちそうになったが、アンソニーが抑えてくれた。そのまま彼は籠を自分の元へ引き寄せ、一粒一粒丁寧に砂を払いながら拾っていく。
「俺のこと、知ってるの」
『紺碧』は海賊の中では有名で、新聞『デイリー・カラー』でも時々紙面を飾っている。
しかしアズは
「あ、いや、その、」
それを本人に告げるのは、なんとなく気が引けた。悪いことをしてるわけではないが、ただ恥ずかしい。
顔を真っ赤に染めながら指先をそわそわ動かす姿は、さぞ滑稽だろう。だがアンソニーは何も言わず、寧ろ微笑みながらアズの返事を待つ。
「前、見たことがあって…‥雑誌で」
「ああ、海風かァ」
すぐにピンと来たらしいアンソニーは、朗らかに笑い、拾い終わったベリーの籠をアズに差し出した。左の薬指で華奢なシルバーリングが輝いている。
「あ、ありがとうございます」
「もしかして
「ふぁ、」
「ビーンゴッ」
図星を突かれて、顔から火が出そうだ。
彼らを好きでいることを恥ずかしいと感じたことは一度もないが、まさか本人にそれが伝わる日がくるとは思いもよらなかった。確かに何度も妄想の中で彼らと出会い、自分の想いをぶつけてきたが、それはあくまで現実では有り得ないだろうと踏んでいたからだ。もし会える日が訪れたとしても、その日のために入念に原稿を推敲し、彼らの
こんな道端で、ベリーを積んだばかりの田舎臭い恰好なんて、もってのほかだ。
「すみません、おれ、こんな」
「めーっちゃ、嬉しいんだけど!」
女性が放っておかない甘い顔を、ぐいと近付けたアンソニーは、背後に星を散らしながら(これはアズの幻覚だが)、アズの頬を両手で包む。少しサングラスがずれてしまう。
「男の子でおれのこと知ってる、なァんてレアだしィ。へへッ」
「そ、そんな、おれ、紺碧推しなんで、当然」
「マジでェ?」
アンソニーの声が高くなり、興奮からか頬が少し赤い。
「紺碧、好き?」
「は、はい」
頬を包まれたまま何度も頷くと、ようやく解放される。アンソニーは薄昏色の目を柔和に細め、アズの耳元まで口を近付け、囁いた。
「おれも」
まるで内緒話のようだ。溶けたバターに似た声が、アズの心に染み渡る。味わう暇もなくアンソニーは立ち上がり、アズへ手を差し出した。恐る恐るその手を掴むと、思いのほか強い力で引っ張られた。
「おれのこと、トニーでいいよ。あんたは?」
「アズって言います」
「うーん、じゃ、アズっちね」
掴んだ手をそのまま勢いよく振られ、アズは肩が抜けそうだった。籠の中でベリーが跳ねるのを認めると、アンソニーは手を止めた。
「そういえば、加工とか言ってたけど、もしかして料理するわけ?」
「うん。料理が趣味だから」
「すっげェ。おれンとこ、料理人いなくてさァ。だから島来ると、美味しいもの探すのが好きなんだよねェ」
結成されて三年しか経っていない紺碧は、
「へぇ。いつもどうしてるの?」
「料理できる面子が交代でやってンよ。ちな、おれもそのひとりね」
できる、とは言っても人並みらしく、当番の日はなかなか憂鬱らしい。食卓のバランスや、それぞれの好みから外れすぎない味付け、食欲をそそる盛り付けを考えるのは『料理ができる』程度では楽しみには変えられない。
「ちなみに、誰ができるの?」
これは
「おれと、リノぴとサリィに、くーちゃん。あ、サトリと玖乃のことね」
「あだ名可愛すぎか」
胸に抑え込むことが出来なくなった本音を、気付かれないように地面にぶつける。心のノートに『料理ができる船員』と『トニーはあだ名付けるのが好き』が付け加えられた。
「美味しいもの、か。港の前の広場から、西の道へ進むと、グラタンが有名なお店があるはずだよ。赤い屋根の」
アズは食べたことは無いが、地元誌に何度も取り上げられている店だ。外れることはないだろう。グラタンに心惹かれたのか、アンソニーの目は輝いている。
「よさげ!今日はそこ行こっかなァ」
楽し気に笑うアンソニーに、アズの胸が小さく鳴った。料理は人を笑顔にする。口に入れる前から、こんなにも人を幸せにできる。最高のエンターテイメントだ。
「アズは今晩どうすンの?一緒にどう」
「えッ、いや、おれは、…‥家に昨日の残り物があるし、これの準備もしたいから」
残念そうに肩を竦める姿に、胸が痛んだが、仕方がない。店側はアズが行けば、嫌な顔をするだろうから。折角料理を楽しみにしているアンソニーが隣にいるのに、自分のせいで気分を害したくない。残り物があるのも、仕込みがしたいのも本当だ。
「そっかァ。アズっち、自分で料理しちゃえるし、しゃーねェかァ…‥雪愛さん誘って行くかなァ」
「あ、めっちゃ見たい…‥」
突然出た副船長の名前に、素直な心が大きく跳ねる。どうにかして店の様子を見ることは叶わないだろうか。床になりたい。
「うぇ?見たいなら来る?」
「いや、それは、出来ることならおれの家でおれの料理を食べてもらってそれを観察させていただきたい」
「うーん、多分心の声が、駄々洩れになっちゃってンじゃ」
くすくす、アンソニーの肩が揺れて我に返る。本音を垂れ流してしまった口を片手で抑えて、首を横に振る。どうか忘れてくれ。
「へへッ。アズっちの料理、食べてみてェなァ」
忘れるどころか返事までされて、穴があったら入りたい気分になった。けれど
「ほ、本当に?」
「もちもちッ。アズっちがいいなら、だよ?無理は言わない」
「是非ッ、食べに来て!」
アンソニーは嫌な顔一つせず、寧ろ満面の笑みで大きく頷いた。
「何人かがこの島に興味持ってっから、暫く居る予定なんだよねェ。あ、誰か連れてきてもいい感じ?」
「いつでも!何人でも!」
鼻息荒くアズは丘の上を指差した。正確には、ここからでも見える大きな屋敷を。そこがアズの家だからだ。
「わー、わかりやすーい」
これほど自分の家が大きくてよかった、と思った瞬間はない。
アズは頭の中のレシピノートを高速で捲り、次々と献立を考えていく。買うものが増えそうだ。月刊海風で仕入れた『紺碧メンバーの好き嫌い』を参考に、嫌いなものが含まれているものを弾いていく。
「おっと、ごめんねェ。…‥もしもーし、トニーだよ」
アンソニーはオレンジ色のカバーが付いた
「いいお店教えて貰ったンで、迎えに行きますねェ。はーい」
内容からして、副船長だろうか。アンソニーは手を振り、唇だけで「また今度、サリュ!」と告げた。急かされたらしい。何度も頷き返すと、彼はアズへ片目を瞑って魅せてから、駆け出していく。その後ろ姿は、あっという間に人混みへと消えていった。
「行っちゃった」
まるで夢のような時間だった。もしかしたら夢なのかもしれない、と自分で頬を抓ってみたが、ちゃんと痛い。夢じゃない、現実だ。身体がこれでもかというほど熱くなる。今にも興奮から叫びだしそうになるのを堪えて、歩き出すが、足元が妙にふわふわする。
地面が柔らかい気がした。
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