第一章⑥



 一日、考えた。

 ひと仕事終えた芸妓たちがまどろむ日中、清掃人たちが掃き清める街並みを、自室の窓から眺めながら。日が傾き、夕暮れの茜色に染まり始めた館のそこここで、男衆たちが角灯を点し始め、見習いの童女たちが明るい声で姐たちを起こして回る間も。

 花街が、好きだった。いつかは、出て行かねばならないと知っていた。

 だから、なおさら。


『あなたが欲しい』


 強く求められたとき、答えはすでに決まっていたのだと思う。

 ――仕事が始まる直前、ダイはアスマの私室に立ち寄った。


「はぁ……。あたしも忙しくなるね」

 アスマがやれやれと頭を振る。自分が勧めたこととはいえ、これからを思うと頭が痛いようだ。

「あんたの抜けた穴を埋める顔師を探すのは、骨が折れるよ」

 どこから引き抜こうかと、経営の競争相手の名を列挙する女に、ダイはほろ苦く笑った。

 女王候補の化粧師となる旨を、ヒースが寄越した遣いにダイが告げたのは、それから程なくしてのことだった。




 出立までは十日もなかった。女王選はすでに始まっている。女王候補を支援する立場としてヒースは少しでも早い移動をダイに望んだ。住まいを引き払い、仕事を同僚に引き継ぎ、慌ただしく支度している間にすぐ出立の日だ。

「これを渡しておくよ」

 馬車で迎えにきたヒースと共に、花街を発とうとするダイへ、アスマが木製の平たい箱を差し出す。

「何ですか、これ?」

「あとで開けな。……しっかりおやり」

 釈然としないものを感じつつ、ダイはアスマに微笑みかけた。

「はい。……元気で、アスマ」

 今生の別れのつもりはないが、次にいつ戻れるかわからない。挨拶は少々湿っぽく、そして見送りの数も多かった。仕事明けの芸妓や、ダイを臨時で度々雇っていた、ほかの娼館の主人たちの顔も見える。

 彼女たちの顔は朗らかで、ダイの前途を祝福しているように見えた――地方の劇場の顔師として、ヒースに引き抜かれたのだと、アスマは皆に説明していた。

皆と挨拶を交わすダイの横で、アスマがヒースに声を掛ける。

「リヴォート様、うちの自慢の顔師を、よろしくお願いいたしますよ」

「えぇ……。誉れを耳にする日を、楽しみにしていてください」

 挨拶を終え、馬車に乗る。

 車輪がゆっくり回り出す。

 ダイは窓に額を当てたまま、荷物を抱く腕に力を込めた。覚悟はしていたが、こみ上げるもの寂しさはどうしようもない。

 ダイは花街で生まれて、花街に育てられた。ダイは花街が好きだった。酸いも甘いも、ひとの醜さも美しさも、狂乱のような賑々しさも、この朝のような静謐さも、すべてが渾然と存在するあの街で、ずっと生きていたいと思っていたのだ。


「すぐに慣れます」

 ダイは視線を対面の席に腰掛ける男へと移した。彼もまた花街の方角を眺めていた。

「感傷はすぐに押し流される。これからあなたは、これまでとまったく異なる場所に赴くのだから」

 寂しさを感じる余地などない。

 ヒースの言葉は慰めともとれたし、覚悟を促されているようにも聞こえた。

「ただ……あなたの気持ちもわかるつもりです。故郷を離れるのです。しかも、あなたは、あの街の人々に、ずいぶんと好かれていたようだ。……余計に寂しいでしょう」

「わたしはあの場所で生まれました。皆、家族のようなものですから」

「なるほど。……納得いたしました」

「なっとく?」

「ええ。アスマに脅されましたのでね……。あなたを不当に扱うようなら、街を挙げて、全力で報復すると。……それはご免被りたい」

 真剣な声で彼は言った。

「芸妓たちの報復は怖い。この国で彼女たちは力を持つ。この国は――芸妓の国だ」


 この国は、芸技の国。

 またの名を、芸妓の国。


 他国からそう呼ばれるほど、この国の娼婦たちの評価は高い。その独特の人脈は貴族にまで及ぶ。決して侮れない相手なのだと、ヒースは述べた。

「もちろん、元よりあなたを不当に扱うつもりはありません。年や出自は関係ない」

「変わっていますね」

 ダイの指摘にヒースが首をかしげる。

「……何がですか?」

「えぇっと、貴族の方……お仕えする方も、血筋や生まれを重んじる方々ばかりだって、思っていましたから」

「えぇ……あなたのおっしゃる通りですよ。ですが、それらに縛られていては勝ち得ないものもある。……力があるなら、使うべきです。己の信条を、曲げてでも」

 当初は怪しく思ったが、出自や年齢を問わずに主人の力となるものを、ヒースは集めようとしているのだろう。花街まで足を運んだのは、その一環だったに違いない。


「リヴォート様は……何のために、そうまでして、マリアージュ様を、女王に押し上げようと、なさるのですか?」

 尋ねてからダイは愚問だと気づいた。マリアージュが女王になれば、その僕たる男にも権力や財が集まる。必死になって当然だ。

 けれどもヒースはダイの問いに、そうですね、と、思案した。

 ややおいて蒼の目を細め、冷えた声で彼は言う。

「わたしの主が、真の意味で――国の主と、なるために」

 そのためなら手段も、遣う人材も、利あるかぎり厭わない。

 この男に、そう言わせる女王候補とは、いったいどのような娘なのだろう。

 ダイはまだ見ぬ新しい主人に思いを馳せて窓の外へと面を向けた。

 静かに目覚めを待つ街を馬車はひた走る。


 やがて街の外壁の彼方から現れた朝日が、ダイの目を強く焼いたのだった。

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