第一章⑤
昇り始めた朝日を受けて外壁の縁が淡く白む。
馬車回しまで見送りに歩くダイは、先を行くヒースの背に躊躇いがちに声を掛けた。
「あの……何かしましたか、わたし」
サイシャに化粧を施したあとからだ。ヒースは険しい表情で黙り込むようになった。
ダイに興味がなくなっただけならよいが、本格的に彼の機嫌を損ねているなら問題だ。被害がアスマや彼女の芸妓たちにまで及びかねない。
いいえ、と、ヒースが真顔で否定する。
「なにも、していません。何も――むしろ、逆です。あなたは、よかった。とても」
「……はい?」
馬車の前に辿り着き、ヒースがくるりと振り返る。彼はその蒼の双眸でひたとダイを捉えた。
「いつ、あなたは来られますか?」
「えっと、どこへ……」
「ミズウィーリにです。ほかにどこへ?」
「あっ、と、そ、うですね。……まだ、わたしを雇うおつもりで」
「それがなければ早々に帰っていますよ」
彼はそうしなかった。仕事終わりの夜明けまで、ダイに付き合い通したのだ。
(思ったより、嫌なひとでは、なかった)
仕事の見学をするヒースの言動から、ダイは彼の評価を改めていた。彼は頻繁に絡んできていた芸妓たちにも紳士的な態度を崩さなかったし、決してダイの仕事の邪魔をすることもなかった。
だから、気が緩んでいたのかもしれない。
ダイは口を滑らせた。
「……あの、それは、命令ですか?」
今度はヒースが首を捻った。
「それ、とは?」
「貴族街に……ミズウィーリ家に行くことです」
(馬鹿なことを訊いた)
答えなど、わかりきっているのに。
ところがヒースの返答はダイの予想と違った。
「命令ではありません」
ダイはヒースを凝視した。その視線を受けたヒースが苦笑する。
「えぇ、確かに、あなたを無理強いして連れて行ってもよかった。ですが……そうすべきではない、と、わたしは思った。あなたは、尊重されるべき職人だ」
ひと呼吸置いて彼は言葉を続ける。
「今日、あなたの化粧を拝見して驚きました。わたしの知るものとはまったく違った。手法が違う、そういったことだけではありません。あの……あなたが痣を消した、彼女」
「サイシャ?」
「そう。……あなたが彼女にした化粧は単に人を美しくする、というものではなかった。あなたが化粧をしたあと、わたしにはあの芸妓が、尊厳を踏みにじられたばかりの弱った娼婦ではなく、つよく美しい聖女に見えた」
ヒースの手がダイの腕を掴む。
「あなたの化粧には力がある」
人の印象を塗り替える力が。
ダイの顔を覗き込んで彼は言った。
「やはりわたしは、あなたが欲しい」
愛を告げているかのような。
直情的な、声だった。
ダイは呆然と立ち尽くした。その反応にヒースは我に返ったようだ。彼はダイの腕を解放すると、狼狽した様子で弁解した。
「あ、あぁ……失礼いたしました」
「いえ……大丈夫です」
ただ、驚いた。
そして、心を揺さぶられた。
これほどまでに強く、だれかに求められたことはなかったから。
ダイの返答に一瞬だけ安堵の色を覗かせ、ヒースは改めて表情を引き締めた。
「一日だけ、待ちます。明日、遣いをやりますから、返答を言付けてください。猶予がなくて申し訳ありませんが」
「……いえ、あの、充分です」
拒否権と考える時間を与えられただけでもよしとするべきだ。
ダイの了承に頷き返し、ヒースが決然と告げる。
「選ばれる美しさを追求している職人が花街の化粧師だというのなら、まさしくマリアージュ様に必要な存在でしょう。女王候補は女王として選ばれてこそ。その要素のひとつが美しさなのだから」
それに、と、彼は付け加える。
「マリアージュ様は御年十七です。あなたは十五。年が近いほうが、マリアージュ様も気兼ねせずにすむでしょう」
ダイ、と、耳に馴染む低い声が降る。
初めて名を呼ばれて、ダイははっと男を見返した。
「色よい返事を、期待しています」
優雅に会釈した男はすぐさま用意された馬車に乗り込む。
朝日の中に去りゆく馬車に向け、ダイは礼に腰を折った。
自分を求めている。そうわかる力強い声の余韻を、耳の奥で、もてあましながら。
堰き止められていたものが、一気に流れ出した。
そんな、波乱に満ちた、怒濤のような一日だった。
ヒースの見送りから戻り、アスマの私室の長椅子に沈むダイの顔を、部屋の主人が覗き込んで問いかける。
「どうだった?」
「疲れました……」
「そんなこたぁ、わかっているよ」
アスマの顔も疲れている。急な上級貴族からの遣い。降って湧いたダイの引き抜きの誘い。ダイと共に館中を闊歩した、やたら顔のよい男について、芸妓たちからの追及も相次いだ。疲れる要素ばかりである。
アスマがため息交じりに問いの内容を補足する。
「あんたのその様子じゃ、無理矢理引っ張っていかれることはなさそうなんだろ。でも、答えは出さなきゃならない。……あの御仁の依頼を引き受けるのかいって訊いているんだ」
「わかりません」
今度はダイが息を吐く番だった。
男の力強い手の感触が掴まれた腕に残っている。
ダイは長椅子の上で膝を抱えて呻いた。
「あのひと、純粋に、わたしの腕を、必要としているようでした」
「なら」
「でもアスマ。わたしは、ここから出たくない」
ダイは頭を振って自身の発言を訂正する。
「出なければいけないことはわかっています。でも……貴族街、だなんて」
「だから、会えなくなると決まっているわけじゃない。早とちりするもんじゃないよ」
煙管に火を入れながらアスマが指摘する。やや置いてふっと紫煙を吐いた彼女は、屈んでダイと目線を合わせた。
「あんたは、本当に筋がいい。ひいき目なしに、あたしはそう思うよ。うちの館のなかで一番、いや、この花街で最も腕のいい化粧師だ。だからこそ、同業の旦那たちだって、あんたに声を掛けるんだ。……でも、リヴの子だから」
リヴ――ダイの母。花街ではまだ多くの者が、彼女の面影を追い掛けている。
「あんたは、ここを出る。それが約束だ。あんたが化粧師としてきちんと腕を揮える場所があるなら、行くべきなんだよ」
やはり、アスマは最初から、ダイを外に出すつもりで、あの男と引き合わせたのだ。
ダイは下唇を噛みしめた。
ここがわたしの街だ。ここがわたしの家だ。ここがわたしの生まれた場所だ。
皆、そこで生を全うするのに。
生きる場所を最初から与えられているのに、なぜ自分だけが、それを探しに行かなければならないのか。
ダイは抱えた膝に額を押し当てる。
「アスマの子だったら、よかったんでしょうね」
「化粧の仕事が好きなくせに、なに言っているのかね、この子は」
アスマが項垂れるダイの頭に手を置いた。
「あたしだってあんたを追い出したいわけじゃないさ。……あんたのおしめを替えてやったの、だれだと思っているんだい?」
知っている。
ただ、ダイがここにいれば皆が不幸になる。皆を、アスマを、苦しめる。
煙草盆の角で煙管をこつこつ鳴らし、アスマが煙草をゆったり吹かしてダイを諭す。
「上手く行かないときは帰ってくればいい。ただ、最初の一歩は早めに踏み出しておくべきだ――それだけの話だよ」
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