【書籍版】女王の化粧師

第一章④

　準備を言いつけられた童女たちが慌ただしく散る。ダイのために広めの卓を寄せ、たらいと水差しを置き、予備の手拭いを積み上げる。

　ダイは化粧道具を手早く並べた。数種の小瓶、色板、白粉、化粧筆。

　道具を検品しながら、サイシャに声を掛ける。

「本当に、応急処置ですよ」

「だぁいじょうぶ。旦那様が、びっくりされなければいいのよ。あとはこっちの顔がわからないぐらい、溺れさせてあげればいいんだから」

　サイシャが自信たっぷりに胸を反らした。

　化粧師の仕事は、芸妓たちを美しくすること。

　そして彼女たちが誇りを持って成すべきことを成す、手助けをすることだ。

　ダイはサイシャの青痣に触れて告げた。

「そっと触っていきますが、痛かったら言ってください」

「わかったわ」

　了承に頷くサイシャに微笑んで、ダイは彼女からいったん離れた。

　瑕疵のない肌を彩ることは楽しい仕事だ。だがそれは経験の浅い化粧師でも容易い。

　短所を補う化粧のときこそ、技量が出る。

　ここからが化粧師の腕の見せどころだ。

　ダイは素早く手を清め、玻璃の小瓶を取り上げた。中身は乳液。ある種の花の胚を傷つけて採取する、とろみのある液体だ。肌を落ちつかせる効果がある。化粧のもちもよくなり、香りもよい。その乳液を浸した手のひら大の綿布で、サイシャの剥げかけた化粧を拭い取る。

　続けて、練り粉を用意する。象牙色から夜色まで。相手の肌の色や、用途によって使う色は異なる。

　ダイは目が痛くなるほど鮮やかな黄色の練粉を指ですくい取った。

　ダイの背後でヒースが呟く。

「すごい色ですね」

「これで目の周りの痣の色をとばします」

　黒ずんだ左目の周りに、黄色の練粉を塗布する。柔肌を愛でる心地で丁寧に、ごく薄く。

　ダイはヒースに説明した。

「黄色は光を集めますから。白よりも肌に馴染んで、黒や青、茶といった濃い色を消してくれるんです」

　黄色系の肌を持つ芸妓たちに、寝不足からくる目の下の隈や、そばかすを隠す際に使用する色だ。ただし、肌が黄味を帯びすぎないように、使う量には気を配らねばならない。

　練粉の塗布を終えると、ダイは筆を手に取った。親指ほどの太さを有する筆だ。その筆先の硬さを指の腹で確認しながら、別の小瓶を引き寄せる。瓶にはとろみを帯びた、象牙色の液体が入っている。

　ヒースが問う。

「痣は消えていませんが、別の色を重ねるんですか？」

「同じものを厚塗りしすぎた化粧は簡単に崩れます。薄い層を重ねるように何回も塗るんです。特に、目許ですからね」

　瞬きを繰り返す分、目許は崩れやすい。

　ダイは液状の練粉を娘の目許に薄く伸ばした。ヒースが呟く。

「薄くなりましたね」

「えぇ、もっと目立たなくさせましょう」

　ヒースに応じながら、ダイは色粉を一瞥した。橙より一段暗い練り状の色粉を選ぶ。目許の彩りにも使うものだ。それを柔らかい筆で取る。膜を作るように、肌色の上に、淡くのせていく。

「痣が消えた……」

　驚きの響きで、ヒースが呟く。

　ダイは色板に手を伸ばした。固形の顔料がはまっている。色の種類は多彩だ。その中から芸妓の肌に近い色を選び、娘の目周りに筆で重ねた。

　最後は白粉。練粉とは比べものにならないほど粒子の細かい粉体だ。それを握り拳ほどの大きな筆に含ませ、芸妓の顔全体にさっと被せたときには、彼女の目許の青痣はきれいに消えて、ほかの部位との差違は遠目には見られなくなった。

「終わった？」

「いいえ、まだです」

　身体を起こそうとする娘の肩を押し返し、ダイは色板と平筆を手に取った。小指と同等の幅をした平筆は目許に用いるものだ。その筆で取った淡い青で、娘の上瞼を着色する。

　傍らからダイの手元を覗き込み、ヒースが首をかしげた。

「青色？」

「えぇ、普段はあまり使わないんですが」

　睫毛の生え際から徐々に薄くしつつ、半円を描くようにして色を塗り伸ばす。

　淡い青が瞼にきれいに馴染んだら、一段濃い青を上瞼の際に入れて、あらかじめ先を平たく潰した綿棒で、色の境目を丁寧にぼかした。

　次は、目許の仕上げだ。ダイは化粧箱から小瓶を取り出した。中身は藍色の液体だ。

「それは？」

「際をなぞります。金粉が入っているので、青が引き立つ」

　用いる筆の毛束は爪の先の幅もないほど細い。毛質も硬く、細い線を描ける。ダイはその筆先を小瓶に浸して色を含ませた。布の上で液の量を調節する。そして左手でサイシャの片瞼を引き上げ、睫毛の生え際に大胆に線を引いた。

「あぁ、いいね」

　アスマが、感想を呟いた。彼女の目に適えば安心だ。

　瞼に塗った色の濃さを、左右の釣り合いがとれるように調整し、ダイは筆を置いた。手に付いた色粉を布で拭って、その指でサイシャの唇に蜜蝋を塗る。

　頬に紅を加え、最後にサイシャの肌から余分な粉を大ぶりの筆で刷いて落とした。

「――できました」

　サイシャの乱れた髪を指で梳き通しながらダイが完成を告げると、室内に控える童女たちから、ほぅ、と息が漏れた。

　彼女の目周りに現れつつあった、あの痛々しい青痣を、いま見いだすことは難しい。よしんば肌色の微妙な差に気づいても、一見したかぎりでは灯明皿の上で揺らめく火の影としか思わないだろう。

　長い睫毛が瞬くたびに、瞼の上に濃淡を付けて塗り重ねた青が煌めく。

　ダイから手渡された鏡を覗き込み、サイシャが表情を綻ばせる。

「殴られたところが、ぜんぜんわかんない」

「化粧が剥げたらさすがにわかりますよ」

「いいのよ。青を使ったの、痣が目立たないように？」

「そうです」

　ダイは化粧道具を片付けながら肯定した。

　黄味を帯びた蝋燭の灯りの中で、青はくすんで見えやすい色だ。それが今回ばかりは目周りの違和感をきれいに消してくれていた。

「肌色を調整しただけだと、顔を近づけたときに、痣に気づかれてしまうでしょうから。口づけの最中に、相手に止まられるのも興ざめでしょう？」

「そうね」

　おかしそうに笑ってダイに同意したサイシャは、再び鏡を覗き込み、陶然とした響きで呟いた。

「知らなかった……。わたし、青も似合うのね」

　サイシャは美しい切れ長の目をしていて、青はその涼しげな目許の魅力を、最大限に引き出す色だった。

　微笑む女はただ美しい。

　ダイはアスマを振り返った。

「約束してる旦那様が来られるまでは、彼女を休ませるんでしょう？ アスマ」

「当たり前だろう。あたしを馬鹿にするんじゃないよ」

「……と、いうことなんで、水を飲んで、少し休んでいてください。顔はぎりぎりまで、冷やした布を当てて……うたた寝は駄目です。目許が崩れます。口の紅は旦那様が来られる前に塗り直しを。色は薄めで」

　口紅をいまここで塗ったとしても、休んでいる間に落ちてしまうだろうから、蜜蝋を塗るだけに留めておいた。

　わかったわ、とサイシャが神妙に頷いた。

　これでひとまず彼女に対するダイの仕事は終わりだ。

　立ち上がりかけたダイの首に、するりと女の腕が巻き付く。

　彼女はダイの耳元に唇を寄せた。甘い香りがふわりと漂った。

「ありがとう、ダイ。もうちょっとおっきくなったら、あたしを指名してね」

ダイは苦笑しつつ彼女の身体を押しやった。

「化粧師は客にはなりません」

「アスマ、そろそろこの規則変更しない？」

「しないよ」

　アスマが煙管に火を入れながら即答する。つまんないの、と、頬を膨らませるサイシャから離れ、ダイはヒースに声を掛けた。

「それでは、次へ行きましょう」

　ヒースがはっと息を吞んでダイを見る。

　まるで夢から醒めたばかりのような顔だった。

「……どうかしましたか？」

「……いいえ」

　ダイの問いにヒースが軽く頭を振った。

「次ですね。参りましょう」

　彼が落ち着いた声音でダイを促す。

　その眉間には微かなしわが寄っていた。