第一章③
「ダイ、だぁれ、そのお兄さん!」
「ねぇ、こっちに遊びに来なさいよ! たっぷりかわいがってあげるから!」
館の廊下には小部屋が並ぶ。客が美酒と料理に舌鼓を打ち、芸妓の舞や会話を堪能し、そして快楽に溺れるための部屋だ。その個室から顔を出し、芸妓たちがヒースをひと目みて色めき立つ。
一方、彼を化粧部屋まで案内しながら、ダイは暗澹とした気分だった。
その理由のひとつはもちろんダイの隣を歩く男の存在。
そしてもうひとつは――時が来た、と、思ったからだった。
ダイがアスマと交わしたひとつの約束。それと真剣に向き合わなければならない時が。
『大人になるまでだ』
ダイの後見人になったとき、アスマは言った。
『そのときが来るまでに、あんたは花街を出ておかなければならない』
ダイはすでに十五だ。一人前として扱われる年齢である。
叶うならいますぐにでも、花街を出なければならない。
ダイはため息を吐いた。
ヒースと引き合わされたとき、もしやとは思った。そういう時期だったのだ。ミズウィーリ家からの依頼がなくとも、似たような話を、近くアスマはダイに取り次いだはずだ。
『――いいかい、ダイ』
娼館内で男を連れて歩く前に、アスマはダイを近くに呼びつけ、囁き声で念押しした。
『あの御仁はあんたを無理矢理引きずっていくことだってできるんだ。急なのはわかる。でも、頭を冷やして、ちゃんと考えな』
上級貴族の依頼は命令に等しい。場末の化粧師に逆らえるものではない。ダイは下唇を噛みしめて俯いた。
『貴族街に行ったら、もう、ここには戻れません』
上級貴族の家に勤めるともなれば出自の詐称は免れないだろう。花街との関係を絶てと強要されるはずだ。
『遠方の街へ行けば似たようなもんだ。距離が近い分、貴族街にいてくれたほうが安否だってわかりやすい。……あたしだってあんたを訳のわからないところへ放り込むつもりはないさ』
やさしい声音でアスマが言った。
『あんたが本当に嫌なら、いくら貴族が相手でも、どうにかする。それだけの伝手はある。……ただ、そうでないなら……』
ミズウィーリが誠実に、ダイの化粧の技術を、求めているというのなら。
『あんたにとっちゃ、またとない機会だ』
――あの御仁の人となりをよく見て、ちゃんと決めるんだよ。
花街を出たあとの後ろ盾は必須だ。それを貴族から得られるなら、この上ない好条件である。ただし、欲しいものはあくまで後ろ盾。大貴族へ直に仕えたいわけではない。
そもそも胡散臭い話だ。よくよく考えてみれば、貴族街には立派な劇場がある。貴族たちが余暇に訪れるそこなら、腕のよい化粧師も見つかるだろう。ダイよりよほど素性の明らかな職人たちだ。なぜ彼らを引き抜かず、花街から選ぶのか。
ダイは傍らの男を一瞥した。
(人となりって……何を見ればいいんでしょうね?)
「……なにか?」
ダイの視線を受けて、ヒースが首をかしげる。いえ、と、ダイは口ごもりながら、話題を探した。
「リヴォート様はほかの顔師のお仕事を見たことはあるんですか?」
「顔師? あぁ、化粧師ですか。いいえ、まったく」
「……わたしたちの仕事の内容は知っていますよね?」
「化粧でしょう? 白粉を叩き、口紅を塗る」
「……ほかには?」
「……何かあるのですか?」
「色々と。……えぇっと、化粧師を雇おうって言い出したのは、マリアージュ様ですか?」
「いいえ。わたしです」
「あなたがですか!?」
ダイは驚きに声を上げた。これでよく化粧師を雇う考えにいたったものだ。
ヒースが訝しげに目を細める。彼が何かを言う前に、ダイは慌てて弁解した。
「すみません。だからリヴォート様は、ここに来られたんだなって思っただけです」
花街が苦手な様子なのに、ご苦労なことである。
目的地の化粧部屋では、数人の芸妓たちがダイの到着を待っていた。彼女たちのひとりが、戸布を上げたダイを振り返る。
「ダイ。遅かったわね……って駄目じゃない。ここにお客さんを連れてき、ちゃ……」
ダイに続く男の顔が見知らぬものだったからだろう。芸妓のひとりが咎めかけたが、彼女も含めた全員がヒースの容貌を凝視し、そして一斉に色めきたった。
「やだお兄さんってば! ここはお客禁制なんですよ! お相手だったらちょっと待ってくださいね!」
「お兄さん、あの人たちは放っておいて、わたしのところにおいでなさいな!」
「あー、すみません。こちらの方は、今日はわたしの仕事の見学に来ているんです」
ダイの紹介に女たちから悲鳴が上がった。
「何ソレ! お客様じゃないの!?」
「仕事って、顔をするとこ見るの?」
「やだぁ。もっとよく寝ておけばよかった! 肌がさがさなのに!」
「初めてじゃない? 見学、だなんて」
聡い芸妓が指摘する。ダイはアスマと打ち合わせた通りに答えた。
「地方の劇場の方です。今度、顔師を雇うことにしたので、参考にしたい、と。……リヴォート様、こちらへ」
ダイはヒースへ椅子を勧めた。芸妓たちを散らして、化粧箱を卓の上に置く。
ダイは瞑目した。
ひとまず見学者のことは忘れる。
ここからは、仕事の時間だ。
化粧箱の蓋を開ける。玻璃製の小瓶がずらりと並ぶ。その中に収まるものは、消毒に用いる酒、化粧水――保湿のための美容水。同じく保湿目的の乳液、蜜蝋に、植物油。
肌を作る色粉の粘度は様々だ。とろみのある液体もあれば、油を混ぜて固めたもの、名前の通り粉体のものもある。
化粧の品を並べ終えたら、次は道具。一片が親指ほどの正方形に切られた厚手の綿布に、楕円形の海綿。筆は細いものから大ぶりのものまで複数種類。
準備を整えてダイは芸妓たちに声を掛けた。
「さて、始めましょう。一番目は誰ですか?」
「わたしです」
ダイと年の変わらない娘が対面に座る。よろしくお願いします、と、挨拶を交わしたあと、彼女は同情に笑った。
「大変そうだね、ダイ」
「ありがとうございます。そう言ってくれるのはリマだけです。……聞きましたよ、いいお客様がついたんですって?」
華奢な顎に手を掛けて、芸妓の顔を正面へ向かせる。肌の調子を見るダイへ、彼女ははにかんで笑った。
「そうなの。マジェーエンナの真珠を扱っているんですって。わたしにとてもお優しいの」
それはなによりだ、と、ダイは微笑み返した。羽振りがよくて芸妓の身体を労ってくれる客ほどありがたい存在はいない。
(なら、その客が好む雰囲気に合わせたほうがよいでしょうね……)
芸妓ごとに『売れる雰囲気』を作ることも、顔師の仕事に含まれる。化粧中の会話はその下調べだ。
綿布に化粧水を染み込ませ、肌の上に滑らせながら、ダイは質問をひとつ重ねる。
「そのひとからお声が掛かったのはいつでしたか?」
「最初にお声掛けくださったのは、先月の朔の日よ。この間は四日前」
「あぁ、桃の紅を注していたときですね」
両日とも、娘の顔立ちの愛らしさを前面に出して化粧をした日だ。その日は彼女に数名の客が付いていたはずだから、方向性として合っているのだろう。
「じゃあ今日も桃の紅を唇に注しましょう」
ばらの実の油を薄めたものを、芸妓の頬に薄く伸ばしつつ提案する。
「目許だけ少し変えましょうか。今日は月が暗いですから、少し赤みの強いものを使います。多く焚かれた蝋燭の灯りにも、今日の山吹の衣にもよく映えますしね」
「腫れぼったくならない?」
「一重が可愛らしく見えるようにしますよ。大丈夫」
少女の顔に白粉を付ける。白粉は若く瑞々しい肌には不要であっても、こうしなければ彩りとなる色が肌に付かないのだ。
ダイは化粧箱の中から折りたたまれた黒い板を引き出して、傍らに広げた。青に始まる寒色から、赤を筆頭とした暖色、そして緑や紫といった中性色。濃淡様々な色粉が収められた板だ。少女の目指す雰囲気を慎重に考え、彼女の顔にのせる色を、その板の中から注意深く選んでいく。
「私も姐さんたちみたいに、たくさん声が掛かるようになるかしら」
「えぇ。もちろん。アスマが選んだ子は、みんな美人ばかりですから。視線、上向けて」
「はい」
「いいですよ、目を閉じて。……いまに引く手あまたになります。目を開けて。視線はこちら」
ダイの指示に従って、少女は目を動かす。その視界に細筆の先が入らぬように気をつけて、開かれた瞼に色を付けた。一重は、目を開けたまま印を付ければ、綺麗に色が入る。
「でも、少しお話の仕方を磨かなくちゃ駄目ね」
「舌足らずぐらいが可愛いです。次は唇に紅を注します。にこっと笑ってください。そう」
顎に手を添え、ぽってりとした唇を丁寧に縁取る。紅の色は淡く、可愛らしさを意識して。幸い、少女の唇は色素が薄いので、どんな淡い色も鮮やかに発色する。
「唇を少し開けて。……いいですよ、閉じて。少し頬にも紅を入れましょうか」
ダイは彼女の頬に珊瑚色の紅を柔らかな海綿で塗り広げた。指で縁をぼかして完成だ。
手鏡を手渡す。それを覗き込んで、彼女は満足そうに笑い、ありがとうと囁いた。
「ダイが紅を注すと、この厚すぎる唇が好きになれるから不思議だわ」
「光栄ですね」
彼女を見送ったあとは先と同じだ。雰囲気を決めるための遣り取りを交わし、近況や悩みなどを聞いて、芸妓たちの顔から不安を取り払う――沈んだ表情は美しさを損なうからだ。
最後に彼女たちを褒めて気分を高揚させ、仕事に送り出すまでが一連の流れである。
「うん、いい感じよ。今日もあたしは完璧に若いわ。さっすがダイ」
仕上がりを鏡で確認した最後の芸妓が唐突にダイへ顔を寄せる。彼女はにんまりと笑ってダイに甘い吐息を吹きかけた。
「ダイが腕のいい職人でよかったわ。あんたってば、いまだってひっきりなしに呼ばれるのに、うちらとおんなじだったら、みんな商売あがったりだね」
「そんなこと……」
「じゃあね」
芸妓はダイが反論する前に身体を離し、軽やかな足取りで部屋を出て行った。
「これで終わりですか?」
「あ……」
ヒースの問いにダイは振り返った。彼の存在をすっかり忘れていた。
「すみません。放置してしまっていて」
「いいえ。仕事には集中すべきです。……思ったより、色んなことをするのですね」
「まぁ、口紅と白粉を付けるだけでは、職人とは呼べませんしね」
「……先ほどは失礼いたしました」
男が恥じ入った様子で謝罪する。ダイは慌てて首を横に振った。まさかここで謝られるとは思わなかった。
ダイは余計なひと言の多い口を引き結んだ。反省しながら黙々と道具を片付ける。
そのダイの手元を興味深そうに覗き込んでヒースが尋ねた。
「……仕事はこれで終わりですか?」
「いいえ。……仕事の終わった子たちのところを回って、崩れてしまった化粧を直しに行きます」
定刻が来ればほかの顔師と交代して、非番の芸妓の肌を診て回ると、ダイはヒースに説明した。彼女たちの肌が荒れていないか確かめるのだ。
ほかにも顔に関わることなら何でもする。宴席があれば髪結いや衣装方とも連携するし、芸妓の些細な体調変化を医師へ伝える役目も化粧師が担う。肌の良し悪しと身体のそれは連動しているからだ。
「役者の演技を舞台の内外で支援するように、芸妓の美しさを演出する黒子。それが、化粧師です」
「……なるほど」
ヒースが深く頷いた。
「想像していたものとまるで違う。手も早いし、素人目でも、皆があなたを褒めそやすのもわかります。……あなたのお母様もさぞや腕のよい化粧師だったのでしょうね」
「違います」
ダイが被せるように否定したからだろう。ヒースが瞠目してダイを見返した。
「す、すみません」
「いいえ。かまいません。出過ぎたことを言いました」
「いえ、そういうわけではなくて……。ただ、わたしの母は化粧師ではなかったので」
それは稀なことだった。職は通常、母方から受け継ぐものだからだ。
ダイの回答に男は違和感を覚えなかったらしい。彼はなるほど、と頷いて、軽い口調で問いを口にする。
「お母上のご職業を伺っても?」
正直に答えるべきか、迷い、ふと、思った。
ダイの生まれを知れば男も考えを改めて、引き抜きを取りやめるかもしれない。
逡巡は一瞬だった。
「……娼婦です」
儚くて、無垢な、新雪のように清らかだった――伝説的な娼婦だった母、リヴ。
隠し立てするほどのことではない。花街では年長の者なら誰でもダイの母の職を知っている。
ダイの期待に反して、男の反応はあっさりしたものだった。
「あぁ、それでさっきの……」
ヒースは最後の芸妓が去った方向を見た。
「あなたが男娼だったなら、という意味だったのですね」
あの芸妓は古株だ。リヴのことを知っていて、たまにああして当てこする。
黙り込むダイをしげしげと眺めてヒースは言った。
「まぁ、芸妓の方が嫉妬するのも無理はないかもしれませんね」
「どういうことですか?」
「あなたはとてもうつくしい」
ヒースは気負いなくダイの容姿を評した。
「緑の黒髪、月色の目、白磁の肌……。お母上譲り?」
「いえ……色は父です。……顔立ちは、母に」
「なるほど。それではお母上はさぞや人気の芸妓だったことでしょう」
ヒースはいたく感心した様子で言った。
「あなたも性別を間違えられることが多いのではないですか? 女性だったのなら、傾国の姫君となっていたでしょうね。かの有名な――《滅びの魔女》のように」
滅びの魔女とは、戯曲でも多く取り上げられる、傾国の美女。
皮肉にもとれる比喩だ。どう反応したものか黙考していたダイは、唐突に引き上げられた戸布の音に、背後の入り口を振り返った。
仕事を終えた芸妓が戻ってきたかと思ったが、違った。
戸布に手をかけて、アスマが立っていた。
「ダイ、いま手は空いているかい?」
「空いています。……何かありましたか?」
即答して立ち上がり、ダイは彼女に尋ねた。アスマの表情は曇っている。よくないことが起こったらしい。
アスマはヒースへ黙礼したのち、踵を返してダイを手招いた。
「サイシャが嫌な客に当たってしまってね。……来ておくれ」
案内された先は中級の芸妓が使用する部屋のひとつだった。通された室内はひどい有様で、花を含む装飾品の類が散乱し、見習いの童女たちが大急ぎで片付けにかかっている。
問題の芸妓は寝台に腰掛けて顔を冷やしていた。
ダイは彼女に歩み寄ってその傍らに片膝を突いた。背後で立ち止まったヒースが息を吞む。
「あぁ、結構ひどくやられましたね」
殴られたらしい。ひと目で乱暴されたとわかる、痛々しい有様だった。服も髪も乱れきり、頬は異様に赤い。目周りに至っては黒ずんでいる。
ダイの指摘に芸妓が嘆息する。
「おかげさまで、この通り。腫れていないのが救いね」
「あとできますよ」
「かもね。ねぇ、ダイ。もうすぐ旦那様がお越しになるの。応急処置、お願いできる?」
「もちろんです」
「応急処置?」
ヒースが怪訝そうに目を細める。
「あなたは、治療もできるのですか?」
「まさか。わたしは、化粧師ですよ」
ダイは笑いながら、化粧箱の蓋を開けた。部屋の隅に置かれた水差しを視界に収め、ちいさな手拭いを箱から用意する。
ヒースを振り返って、ダイは彼に告げた。
「わたしにできるのは、美しくすること。ただ、それだけです」
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