第一章②



 デルリゲイリアは海と山脈、そして荒野に囲まれた小さな国だ。位置は西大陸北北西沿岸部。特産品は美しい染め布や透かし織り、それらを用いた衣装に、洗練された細工の装飾品、絵画や彫刻、工芸品。街には劇場が多く建ち並び、歌い手や楽士、踊り子もよく集まる。その芸術を尊ぶ国風から、《芸技の国》のふたつ名を持つ、安穏とした国だった。


 ところが、昨年のことだ。

 デルリゲイリアは、王位継承者と国主を失った。王女と女王が相次いで急逝したのだ。

 女王の継嗣が絶えた折には慣例に従い、貴族の娘から五人の候補を立てる。彼女たちが玉座を争う選定の儀式の名が《女王選出の儀》。通称、女王選と呼ばれるものだった。


 世俗に疎いダイであっても、女王選に女子を送り出す家ぐらいは把握している。先代女王の縁戚であるガートルードを筆頭とした、カースン、ベツレイム、ホイスルウィズム、そしてミズウィーリの五家である。ミズウィーリの名に馴染みはないが、上級貴族には違いない。

 その家の娘に、化粧をせよ、と、男は言うのだ。

 この、場末の化粧師に。


「あの、何かの間違いじゃないですか? 女王候補の方が、わたしに化粧をさせるはずがありません……。わたしは、花街の化粧師ですよ?」


 花街はいくら言いつくろったところで性を売り買いする街。高貴な娘が最も忌避する類の場所だ。そこで仕事をしてきたダイに女王候補ともあろう娘が化粧を許すだろうか。

「弱冠十五にして数々の美姫を生み出す腕利きの化粧師。アスマの娼館のダイとは、あなたのことでは?」

「……そうです」

 前半はともかく、後半は正しい。ほかにダイと呼ばれる顔師はいない。

 ダイはアスマに尋ねた。

「身許は」

「確認はとったよ」

 ダイが問いを皆まで口にする前に、アスマがため息交じりに答える。

「こちらの方は、ミズウィーリ家に仕えていらっしゃる方で間違いない」

「……本当に、わたしを、化粧師として?」

「はい」

 男は大きく頷いた。

 本気らしい。

 本気で男――否、ミズウィーリ家は、自分を雇い入れたいらしい。


 ダイは困惑しながら追及した。

「あの……。そもそも、なぜ、わたしを? 化粧師なんて貴族街にもいるでしょう?」

「それがそうでもありません。貴族にとって化粧とは、侍女が行うものですので」

「はあ……ならどうして化粧師を雇うなんて話になったんですか? いらないと思うんですけれど」

「おっしゃる通りです」

 男はダイの主張を肯定し、通常なら、と、言い添えた。

「ご存じかとは思いますが、女王選には五人のご令嬢が参加なさいます。ガートルード家のアリシュエル様を筆頭に、とてもお美しい方々ばかりです」

芸術に一家言ある国の女王を選ぶのだ。その美貌は女王選で必ず議論される。

「ところがその中で、マリアージュ様にのみ、華やかさで欠けるところがおありなのです」

 それがマリアージュから自信を喪失させ、女王選への臨み方にも影響を出している。

 そんな折、化粧次第で顔の印象を大きく変えることができるという話になった。


「専門の者がいるのなら、呼んだほうがよいだろうという話になりました。マリアージュ様はまだ《職人》をお持ちではありませんので。……女王の《職人》についての話はご存じですか?」

 ダイは首を横に振った。下々の人間にお上の習慣など知りようがない。

「デルリゲイリアの女王には、画家や楽士といった、《職人》を傍に置く慣習があります。女王候補も同じく、《職人》をひとりは抱えることが習いになっている」

 その職人は特別枠として尊重される。《芸技の国》らしい慣習だ。

「……待ってください」

 嫌な予感がして、ダイは話を中断した。

 男はマリアージュが《職人》を持っていないと言ったのだ。


「つまりあなたは、わたしをその、特別な席に着けるつもりなんですか?」

 そうです、と、男が即座に首肯する。

「化粧師を探すうちに、あなたの噂にそこかしこで行き当たった。年は若くも、女性を美しく見せる腕は、何人も足許に寄せ付けぬ、と。……マリアージュ様が所有する職人として、悪くはありませんでしょう?」

 ダイは目眩を覚えた。

 この男はダイを短期で雇いに来たのではない。

 引き抜きに来たのだ。

「条件についてはご安心を。衣食住は当然として、給与もこれまであなたが見たことのない額を保証いたします」

「お断りします」

「それはなぜ?」

「なぜって……お話はわかりましたけど、信じられません! 冗談がすぎますよ!」

「冗談でなぜわたしがこのような場所に、足を運ばなければならないのですか?」

 男が言った。淡々とした物言いながらも、そこには嫌悪感が滲んでいる。おそらく彼にとって花街は、汚らわしい街なのだろう。

 花街を悪く言われたところで、ダイが腹を立てることはない。よくあることだからだ。むしろ厭う場所にまで遣いを任された彼に同情する。

 とはいえ、男の物言いをダイが不快に思ったことは確かである。


「冗談でないにせよ、噂だけを頼りにわたしに話を持ちかけるところが信用なりません」

 男が薄く笑う。

「なるほど。……ご自身の技量に自信がない、と」

 かっとなって、ダイは勢い込んだ。

「違……そうではなくて……いたっ!」

 ごっ、と頭蓋を叩かれ、ダイの視界が縦に振れる。ダイは痛みに呻きながら隣を見た。

「正直にぽんぽんものをお言いでないよ! この馬鹿!」

 アスマが深々とため息を吐いていた。

「……ミズウィーリからの御仁も、お気を鎮めてくださいな。この子は驚いているだけなんだ。お国の天辺になろうかって人が、お声掛けくださるなんて、ここいらの職人だれしも、夢にも思いませんからね」

 それに、と、彼女はゆっくりと男に言い含める。

「この子の言うことにも、一理ある。あなたは、この子の腕前を確かめてもいない。それなのに、女王候補様の職人なんて……」

「分不相応、とでも言いたいのですか?」

 男はアスマの主張に首をかしげる。男はアスマに向き直った。

「彼が最も腕のよい化粧師だと言ったのはほかならぬあなたでは?」

「えぇ。だからこそ、適当な理由で引き抜かれては困るんですよ」

腕のよい職人は、芸妓と並ぶ、娼館の宝ですからね、と、アスマは言った。

「あなたの誘いはこの子にとっちゃ栄達だ。痛手でも送り出してやりたいところだが、この子の化粧の腕を確かめもせずに決めてしまうのは、お互い不幸じゃないですかね」

「……と、いうと?」

「化粧師にはそれぞれ得意分野があるもんです。あなた方がこの子に望むことと、この子のできることが一致しているか、確認は必要じゃありません? 不必要な人材に払う金や時間ほど損なものはありゃしません」


 しばし黙考したのち、男はアスマに頷いた。

「わかりました……。そこまでおっしゃるなら、見せていただきましょうか。……あなたに付いていけばよろしいのですか?」

「え……いまから見に来られるんですか?」

 さっそくと腰を上げる男に、ダイは口角を引き攣らせる。

「日を改めて、と、申し上げたいところですが、わたしも時間に余裕がないもので……よろしいですね、館主?」

「かまわないよ。……こちらが言い出したことだ」

「待ってください、アスマ……!」

 男の要請をあっさり承諾するアスマにダイは取りすがった。

「いくらなんでも急に」

「黙んな」

 ダイは口を閉ざした。男へにこやかな笑顔を向けるアスマに渋面になる。

「少し打ち合わせはさせてもらいますが、すぐにこの子を仕事に戻します。自由に見学していってください」


 こうなれば、従うしかない。

 あまりに強引なアスマにはあとでひと言、物申させてもらおうとダイは胸中で誓った。

 諦めの心地でため息を吐くと、ダイは面を上げて男と向き直った。

「……もう一度、お名前を教えていただいてもいいですか?」

 依頼の内容が衝撃的すぎて男の名を忘れてしまった。彼とこれから同行するのに、このままでは不便である。

「名前? あぁ……そうですね」

 男が了承の徴に頷いて、ダイへ右手を差し出した。

 握手の要求。彼の立場とこれまでの態度を鑑みれば意外な行動である。

 ダイは困惑しながらも衣服で自分の手の汗を拭った。男の手に恐々と触れる。

 ダイの手をやんわり握り返し、男が名乗った。


「ヒース・リヴォートと申します」


 その手は、まるで肌刺すように、冷たいものだった。


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