第一章①
化粧筆を、置いた。
「終わりました」
ダイは女に告げて、己の仕事を観察した。
化粧を終えたばかりの芸妓は今日もうつくしい。そのきめの細かな肌にはしっとりした質感の色粉を重ねて艶を出し、上瞼には薄紅がかった銀を散らしている。頬へは淡く珊瑚色を広げた。輪郭を濃く縁取ってから丁寧に紅を塗り重ねた唇は、ふっくらとやわらかそうに仕上がった。きっと、だれもが触れたくなるだろう。
ダイは彼女に手鏡を渡した。どうですか、と、感想を求める。
彼女は磨かれた銀を覗き込むと、満足そうに微笑んだ。
「素敵。ぜったい注目の的だわ、ダイ」
芸妓がダイの頬に音高く口づける。ダイは思わず渋面になった。
「あぁ……紅を塗り直さなきゃならないじゃないですか」
「あら、ごめんなさぁい」
ダイの苦言に悪びれることなく、女は笑ってみせる。
呆れたダイの胸中を代弁するように、叱咤がすかさず順番待ちの女たちから飛んだ。
「ちょっと姐さん! もう少し考えて行動しなさいよ! あたしたちずっと待ってるのに!」
「次はあたし! あたしなんだからね!」
「もう、あんたたち、待っていないで顔ぐらい自分でしなさいよ!」
「だれでもいいから早く次を決めてくださいよ……」
ダイは思わずこめかみを押さえた。ただ花街はこの芸妓たちの明るさがあってこそ。平和の証左でもある。やれやれと肩をすくめ、紅の付いた化粧筆の筆先を布で拭っていたダイは、戸布の動く気配に背後を振り返った。入室する女の姿に目を瞬かせる。
豊かに波打つ黒髪、豊満な肢体、手には彫りの見事な煙管――気怠そうな顔で戸口に立つ女は、王都でも一等と名高い、この娼館の女主人である。
「アスマ?」
「悪いね、ダイ」
ダイの後見人でもある女は、ふっと紫煙を吐いて言った。
「ちょっと来ておくれ。あんたにお客さんなんだよ」
「あら、ダイ。エミルたちのお仕事終わり? じゃあこっちに来なさいよぉ」
「ダイ、ダイ、時間が空いたなら、アタシの部屋に遊びに来て」
「たまにはふたりで遊びましょ。顔だけじゃなくてあっちもかわいがって? ねぇダイ」
「はいはい、すみません、またあとで」
部屋の戸口から伸びた腕や、しなだれ掛かる柔らかな身体、漂う甘い香りからの誘いを適当に断り、アスマを追いかけながら、珍しいこともあるものだ、と、ダイは思った。
開店したばかりのこの時間に職人を呼び出す阿呆はいない。客人は夜明けまで待たせるか、日を改めさせることが通例だ。そう定めたアスマに逆らう者は、この花街にいないはずだった。
アスマはかつてあまたの男を虜にした元娼婦。引退したあとは娼館を営む側に転じて周囲の度肝を抜き、いまではこの王都で三軒もの店を抱える女主人だ。花街の娼婦たちの呼称を〝芸妓〟と改めたのもアスマで、その気風と面倒見の良さから、娼館に属する芸妓たちはもちろん、客やはては同業者にいたるまで、だれからも慕われる花街の顔役である。
ダイはアスマの館専属の化粧師だった。芸妓たちの肌を整え、美しく化粧をすることが生業だ。
高級芸妓は無論のこと、張見世で一夜の客を捜す下級の子らにも化粧を施す。ひと仕事終えた彼女たちの化粧を直し、非番の芸妓たちの肌の手入れに館を回る。それが最も優先すべき役割で、中断させられることは滅多にない。
ところが今日は日が落ちて方々に灯が点され、さぁこれからという開店間際の呼び出しだ。たまに職人の欠員を出したほかの娼館から、急ぎの出向の依頼もあるが、それにしてはいつもと様子が異なる。
「アスマ」
仕事部屋を出てから黙り込んだままの主人に、ダイは焦れて呼びかけた。
「ねぇ、アスマ。そろそろ教えてください。だれなんですか、お客さんって」
光量を絞った魔術の灯が足許を照らす廊下はほの暗い。その中を行く主人の足取りは速かった。小柄なダイでは追いかけるのも一苦労だ。
アスマは沈黙を守っていたが、彼女の部屋の前まで来て、ようやっと重い口を開いた。
「……お貴族さま、さ」
「おきぞくさま? ……わたしにですか?」
娼館の顧客には貴族も多い。しかし彼らは裏方など見向きもしないものだ。
アスマが呟いた。
「正確には、お貴族さまのお遣い、といったところだね……。場末の顔師に何させようってんだか。顔をするのは、侍女とかだろうにさ」
アスマがダイを導いた先は、彼女の仕事部屋の前だった。この館で最も上等な部屋だ。何人たりともアスマの許可なしには立ち入れない。
「失礼。待たせましたね」
軽く叩いた扉を押し開き、アスマが猫撫で声を紡ぐ。本当に上客なのだと、それだけでダイにも充分に理解できた。
男が長椅子から立ち上がってダイたちに向き直った。
きれいな、男だ。
ダイは思わず部屋の入り口で足を止め、その客人とやらを凝視してしまった。
若い男だった。年の頃は二十前後。優美だが肩幅は広く、均整のとれた体躯をしている。
顔立ちは端正だ。さらりとした短い金の髪に、蒼穹を思わせる澄んだ青の目。女顔負けの、きめ細かな象牙色の肌。貴族の客でもなかなかお目にかかれないような、怜悧な美貌を宿す男だった。
その素顔を、見てみたい。
人の顔を観察してしまうのは仕事柄の習い性だったが、初対面の人間に不躾な視線を向けたのは、自分としても初めてだった。挙げ句、抱いた感想はいささか珍妙だ。
男はダイの視線を訝しく思ったか、小さく首をかしげただけだった。
「ダイ、こっちにおいで」
いつの間にか応接席に着く男の対面に移動していたアスマが、ダイを手招いている。ダイは我に返り、扉を閉じて彼女たちに歩み寄った。
「こちらが?」
「えぇ、あたしの館で、最も腕のよい化粧師です」
アスマが男の問いに首肯して、温かな手をダイの背に添えた。
「ダイ、こちらはリヴォート様だ。女王候補に選出されたマリアージュ様のご生家、ミズウィーリ家はわかるかい? そちらのお遣いとして、今日はお越しになっている」
「……女王候補?」
ダイは驚きながらアスマを仰ぎ見た。
「女王選の女王候補?」
「そうだよ」
アスマはダイの反応にさもありなんと頷いた。
「年始に始まった女王選に、ご参加なさっている女王候補さ」
「……その、女王候補のおうちの方が、裏方のわたしにいったい何の用なんですか?」
「仕事の依頼に伺いました」
ダイたちの会話に男が口を差し挟む。
低いがよく通り、耳に馴染む、厳かな声だった。
「あなたを、マリアージュ様の化粧師として迎えたい」
女王に相応しい顔を作って欲しいのだと、男は言った。
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