西の空が橙色になっている

秌本単于

CONNE

 夏の日差しで白く輝く通りに人が行きかっている。歩くごとに服のテクスチャがするする変わっていく人もいれば、おそらくは手染めの深い色の服を着ている人もいる。森山くんはまだ来ない。私を十五分も待たせている。きっとまた、時計のバネに延々と構っているんだ。私は森山くんからもらった懐中時計をじりじりとした気持ちで見つめた。

 目をあげると、肩幅の広いTシャツの男の人がこちらに走ってくるのが見えた。森山くんだ。遅れてきて申し訳なさそうな顔をしているけど、私も彼女として許すわけにはいかない。

「チッキーごめん!ゼンマイの調整してた!」

「また私を待たせた!これで三回目じゃん!まったく、私と時計のどっちが大事なの?」

 私は思いっきり顔をしかめて見せた。

「そ、それは…」

 森山くんは困っているようだった。選べないのはわかっている。私は、得意で、夢中になれて、しかもみんなに認めてもらえることを持っている森山くんがうらやましかった。憎さは倍だ。

「もう!開演に遅れちゃう!早くいくよ!」

 私は森山くんの手を取ってメトロへ走った。不意を衝かれた森山くんは真鍮を毎日運んでがっしりした体をよろめかせて、すぐについてきた。


 地上直通のエレベーターでメトロのホームに着いても、手はつないだままだった。森山くんの手は大きくて、ハリがあって、毛が生えていてあたたかい。しかも器用だ。それに比べて、私の手はかたくて、冷たくて、指にはしわの代わりにモールドがある。時計を組み立てるなんてとてもできない。

 白いホームに白い電車が音もなく入ってきた。私の髪がなびいて、森山くんの首元にあたった。くすぐったそうだ。私がそんな風にくすぐったく思ったことは、これまであっただろうか。

 電車はいつものように空いていた。森山くんは席に座るとすぐに寝てしまった。きっと、夜更かしして時計をいじっていたのだろう。私はすることがなくて、向こう側の窓に映る自分と森山くんを見ていた。窓に映った森山くんは、実際よりやつれて見えた。

 森山くんは、いつも大好きな時計作りに打ち込んでいる。そして、作ったものでみんなに認められている。ゼンマイ仕掛けでカチカチ動く金色の懐中時計は、森山くんが流行らせたものだ。森山くんはときどき、私をそっちのけにして時計に打ち込む。話によると、まだ満足に言葉もしゃべれない子供時代から時計が大好きだったそうだ。

 それに比べて私は、何も取り柄がない。一応、漫画やリアルタイムカートゥーンは書いているが、誰にも認められないでベーシックインカムと森山くんに頼りっきりの生活を送っている。生まれつき得意なことが何もなくて、いつも世界の端っこだ。子供のころから大好きなものもなかった。いや、私にはそもそも森山くんみたいな子供時代がなかった。

 森山くんはお父さんとお母さんの間に生まれて、二人や親戚からの愛情を受けて育った。生まれてから二十四年でいろんなことを学んで、心も体もぐんぐん大きくなった。でも私は、生まれてからずっとこの姿で、こんな生活をしているままだ。両親もいない。強いて言えば、私の体の中のコンピュータやらアクチュエータやらを作った工作機械がお母さんで、それを金型で挟んで表面のプラスチックを流し込んだロボットアームがお父さんだ。知識はプリインストールされていて、両親から教えてもらうこともなかった。生まれてから十年、学んだことはたぶん森山くんの半分にも満たないだろう。すべてを忘れて没頭できるほど好きなことも見つけられなかった。

 この頃私は自分が数合わせのためにこの世界に生まれてきたのだと思うようになった。何かに熟練して大きなことをやることもなく、ただこの世界の中心に拍手を送り続ける。それだけで100年のメモリーのライフスパンを使ってしまう。そんな風にしていなくなってしまうのは悲しいけれど、そのように生まれてしまったのだから仕方がない。ただのプラスチックの塊が他人の起こす奇跡を見ていられるだけで十分奇跡なのだ、と。

「チッキー!着いたよ!」

 私の考え事は森山くんにさえぎられて終わった。起きていたのに、駅に着いたことに気づかなかった。森山くんが起きなければ、おそらく乗り過ごしてしまっていただろう。

「あ、ごめん」

 森山くんに手を引かれて電車を降りる。地上に上がるエレベーターで、森山くんは私の顔を覗き込んだ。

「どうしたの?表情暗いよ?何か悩み事でもあるの?」

 勘がいいのが憎らしい。どうせ世界の中心にいる森山くんには、私のことなんてわからない。

「ううん、何でもないよ。それより、時間ヤバくない?」

 私は森山くんに時計を見せる。残り五分で開演だ。

「確かに。急ごう!」

 私たちはまた走った。今度は私が森山くんに手を引かれる番だった。


 ライブホールに着いた。時間ぴったりについたつもりが、会場の時計で残り五分あった。どうやら、私の時計がずれていたらしい。

「あんたが作った時計でしょ、何でずれてるの?」

「それは、ちゃんと巻き直さなかったからじゃない?」

「そんなことしなくても時間の合う時計を作ってよ、作るんだったら」

「ゼンマイだとそれは難しいんだよ。それに、手間がかかるほうがカワイイじゃん」

 森山くんは顔をくしゃくしゃにして言った。かわいい。罪な男だ。

 私はこのライブホールは初めてだったけれども、顔パスでゲートを通ることが出来た。森山くんは相当通っているらしい。

「そういえば、今日の人の名前なんだったっけ?」

「クルザワさんと来澤さんだよ」

「なにそれ」

「あー、そうだね、来澤雷太さんっていうのが人間で、体にMIDIポートを開けてる。で、相方のクルザワさんと、こっちはロボね、MIDIポートでつながって、指令をもらって演奏するんだ」

「なんで?」

「それは、確かクルザワさんのほうが思考が速いから、器用な雷太さんに繋いでめっちゃ速弾きするていう感じ」

「へー、じゃあ私たちにもできるじゃん。MIDIポート開けてよ」

「やだよ」

 席は全てスタンディングだった。私は前のほうへ行きたかったけれど、森山くんを気遣って後ろのほうにとどまった。

 夏真っ盛りなだけあって、会場の熱気はすごい。森山くんはしきりに水を飲んでいた。

 しばらくして、いきなりカールコードを首筋に挿した二人の男がステージに現れてライブが始まった。どちらもスキンヘッドで、眉毛も髭も全くない。おそらく、上手がクルザワで、下手が来澤だ。

 演奏が始まった。クルザワは何か円形のパッドを、来澤はキーボードを弾いている。かなりヘビーなダンスミュージックだ。早くも前のほうではモッシュピットが起こっている。森山くんはあまり前に出たがらないので、私はじっとしていた。

「森山くん」

「なに」

「そういえば、なんでカールコードなの?」

「わかんない。そっちのほうがそれっぽいからじゃない?」

 大音響もあって会話が続かない。

 しばらくして、来澤はギターを手に取った。森山くんが私の肩を叩いた。

「いまから始まるよ。見てて」

 ギターソロが始まった。ピッキングの一つ一つが聞き分けられないほど細かく、まるで音が曲線を描いているようだ。前のほうでは昏倒者が出たのか、人波の上を寝っ転がった人が出口へ運ばれていく。私たちはかなり後ろのほうにいたけれど、それでも皆かなり激しく踊っていた。私も踊った。

 曲が終わると、一旦会場が静かになった。私は森山くんを見た。森山くんもやはり踊ってしまったようで、水のボトルを空にしてしまっていた。

「大丈夫?水買ってくる?」

「大丈夫、これからは静かだから」

 ステージに目をやると、来澤は首筋からコードを引き抜いていた。それを抛ると、中央へ移動した。クルザワは空いた下手に入った。

 中央では来澤の顔が良く見えた。顔のところどころに小じわがある。結構な年齢のようだ。

 クルザワがキーボードで伴奏し、来澤は口笛を吹き始めた。来澤の口笛は深みのある太い音で、PAがなかったとしてもこちらに聞こえてきそうなくらいだった。超絶技巧のギターソロよりも、私の心を揺さぶるものがあった。

 やがて、来澤は歌いだした。嗄れてはいるが、説得力のある、体の中心に響いてくる声だった。さっきまで暴れていた観客たちは、静かに揺れていた。

“みんなになりたくないのなら、君にしか行けないところに行けばいい”

 私は目を閉じた。来澤を直視できなかった。森山くんは、優しく私の肩を抱いてくれた。


 ライブが終わり、森山くんは余韻に浸る間もなく帰っていって、私は一人になった。本当は私より時計のほうが大事なのだろうか。私がただの観衆の一人でしかないからだろうか。私に何かを作り出す能力がないからだろうか。私が何もしないからだろうか。

 つきまとってくるネガティブ思考を追い払うために、私は大通りを歩くことにした。

 通り沿いにはいろいろな店が軒を連ねている。どれも一種のギャラリーみたいな趣だ。パン屋。ロボットに縁はない。ランジェリー。買ったばっかり。ヴィンテージPC。そんな金も趣味もない。古書店。本を読むほど物好きではない。エモタトゥー。心の中を見られたくはない。ペン、針、愛玩用タランチュラ…

「危ない!」

 しばらく歩いていて、前方からいきなり声がした。私はびっくりして、止まった拍子にしりもちをついてしまった。眼前に手が差し出された。私は何も考えず取って、立ち上がった。手は筋張っていて、あたたかかった。

 立ち上がると、目の前には初老の男がいた。髪は頭頂から薄くなっている。どうやらここで露店をやっていたらしい。今時珍しい。

「すみません、前を見ていませんでした」

「ああ、大丈夫大丈夫。それより、大事に至らなくてよかった。どうせだから、うち見ていかん?」

 促されるままに見ると、歩道にひかれたシートの上には漆器が置いてあった。どれも深い色をしている。綺麗だ。漆など私には縁のないものだと思っていた。そして、そのなかでとりわけ、曲線と木目が目を引くものがあった。私は手に取った。

「これ、きれいですね」

「そうでしょ?こいつら全部おれの手作りだからね」

「そうなんですか」

「そうだよ、おれが漆の木から彩文まで全部やってんだ」

「なるほど」

「まだなるほどじゃない。おれはしっかりこだわって作ってんからな、そこらの器とは違うんだ」

 そうして、初老の男は、ものを作る人によくあるように、自分のこだわりを延々としゃべり続けた。

 私は上の空で、器を眺めながら自分の将来に思いを巡らせていた。このままではいけない。でも、何をすればいいかわからない。私はそういうことがわかる風には作られていない…

「どうしたんボーっとしてて?なんか悩みでもあんのか?」

 私は顔に出やすいタイプなのだろうか。

「いえ、別に」

「いやいやあるだろ。見ててわかる」

 それでも私のことはどうせわかってくれない。森山くんだってそうなのだ。ものを作れる人に私の悩みは理解できないだろう。

「いえ、これに見とれていただけです」

「それはいいんだけどよ、ほかにも絶対あるだろ、なんか。嬢ちゃん、いつもは何やってんの?」

 観衆。

「漫画を描いています」

「だったらスランプだな。今日は気分転換ってとこか。おれはもう帰るんだが、気分転換ついでにうちに来てみんか?」

「いえ、締め切りがあるので」

「顔に嘘って書いてあるぜ。ついてきな」

 男は露店をほとんど一瞬で片づけた。

「で、嬢ちゃん、名前は?」

「アヤカ・チキムラです」

「おれは竹原。こっちだ」


 通りを脇にそれ、しばらく歩くと山があった。そこを登ると、眼前に瓦屋根の家があった。

「ここがおれんちだ。さ、あがって」

「お邪魔します」

 中は思ったより広かった。私は和室に通された。開け放たれた障子越しに、林が見えた。

「こいつが漆の木だ。おれは毎日かわいがってやってる」

 私に待ってるように合図して、竹原さんは部屋を出た。向こうでかなり大きな音がして、すぐに竹原さんは戻ってきた。

「今からおまえをおれの仕事場に通す。勝手にさわんなよ」

 襖を開けると、そこには天井まで漆色に汚れた部屋があった。石造りの机の上には道具類や塗られていない器、そしてその奥の棚の上には漆器があった。それがとても目を引いたので、私は思わず近づいてしまった。

「おっと、勝手に動くな。何が落ちてるかわからない」

「あれを見せていただけませんか?」

 私は棚の上を指さして見せた。竹原さんは首を横に振った。

「見せられる出来じゃねえ」

「美しいじゃないですか。見せてくださいよ」

「駄目だ」

「どうして?」

「駄目なものは駄目だ」

「見せてよ」

 口をついて出た。竹原さんと私の間に気まずい沈黙が流れた。

「仕方ねえ。壊すなよ」

 結局、竹原さんは棚の上の漆器を私に手渡してくれた。

 その漆器は、鮮やかな赤でありながら、色は凪いだ海より深かった。そして何より私が気に入ったのは、わずかに表面に入った溝だった。

「それは30年前のやつだ。おれがひよっこだったころの。塗りムラがひでえ」

 漆に入った溝に、私はほとんど吸い込まれそうになっていた。あまりに長く見つめていたので、竹原さんはしびれを切らした様子で、私に話しかけた。

「そんな駄作に見とれられても困る。おい、もっと見せるものがあるからこっち来い」

 私は漆器から目を離さずに言った。

「これ、ください」

「駄目だ」

「下さい」

「駄目だ」

「お願いします!ください!」

 竹原さんがまた黙り込んだ。私は漆器に吸い込まれたままだった。

「あげられねえ」

「なぜ?」

 なぜ。悪いものだったら人にあげてもいいではないか。またこだわりか。

「おれがひよっこのころを常に思い出すためだ。こんなのしか作れなかったっていう時代があったってことをな」

「それは嘘だ」

 私は竹原さんの顔を見ずに言った。

「若いころの最高傑作を、越えたくても越えられないからだ」

 竹原さんは、口を真一文字に結んでこちらを見た。

「あげられねえ」

 私は漆器を棚の上に戻した。


 竹原さんは私に、帰りがけに紙袋をくれた。器を一つと、かんざしを一つ、両方とも若いころのものだそうだ。髪をまとめて、原稿に集中しろということだった。

「もう来るなよ」

 竹原さんは、それだけ言って戸を閉めた。

 私は、竹原さんの家を出てすぐに紙袋を開けた。漆器は、塗りムラがひどくて、本当に初心者の作品だった。かんざしには、竹原さんの飾っている器と同じ、溝があった。私はすぐに髪を留めた。


 西の空が橙色になっている。私はどこから来て、どこへ行くのか。私はプラスチックで満たされた金型から出て来て、いつかメモリーが摩耗して、私が私であるためのすべてがバラバラになって消えるだけかもしれない。そうやって、皆が私のことを忘れて、ただアヤカ・チキムラという名前だけが戸籍に残って、古くなっていって参照もされなくなるのかもしれない。私は、ただ100年かそこら稼働して、ただいなくなる、それだけの存在なのだろうか。

 海風が強く吹いた。紙袋が持っていかれそうになって、私はあわてて抱きとめた。竹原さんの漆器の輪郭を感じた。振り向くと、向こう側の空はもう紫色になっている。もう六時だ。消えていく夕陽を見ていて、感傷的になってしまっていた。私にはまだ、いまからやるべきことがまだあるし、今日やりたいことも残っているし、一生でやりたいことは数えきれないくらいだ。雲の塊が西日を受けて流れる。光と影の落ち着いた赤と黒のコントラストが、とてもきれいだ。

 森山くんとの約束には、今度は私が遅れていくことになるだろう。私は、駅へと走り出した。

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西の空が橙色になっている 秌本単于 @zenuakimoto

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