第12話「兄と弟」

 ペンターシャンの里の奥深く、ファーの身体は保管されていた。

 彼の魂は眠らされていたということになっていたが、実は彼の魂はずっと目覚めたままで、なぜか彼は魂だけで時空も飛び越える存在となっていたのだ。

 なぜ自分がそんな途方もない存在になってしまったのか、ファー本人でさえもわからないことであったのだが、彼はその境遇をそれほど悲観することなく自分の知りたいことをすべて知るためにさまざまな場所へと旅をしていたのだった。ファーは自分の身体に戻る時もあったが、ほとんどを自分の身体以外の場所に飛ばしていた。それはもう、この世の全ての謎を知りたいと思う、自分の好奇心を満たす為であったといえよう。

「それで知った真実を貴方にお教えしましょう」

 ファーの身体に入り込んだイーヴルに対して、自分の身体に戻ってきたファーが語った。

「貴方もご存知の通り、もともとはこの世界は我々の住んでいた世界ではありません」

 そう、そうなのだ、とイーヴルは思った。

 イーヴルとその双子の兄であるオムニポウテンス、そして、他の神々は別の世界の住人であった。そして、人間たちもイーヴルたちと同じ世界の住人だったのだが、イーヴルが太陽の女神に裏切られたことで邪神となってしまった為、新しく誕生した世界へと住人もろともイーヴルたちは現在の世界へと追放されたのだった。だが、そのことは封印された者たちは知らなかった。彼らはそのまま元の世界で封印されたと思っているはずだ。ただイーヴルは封印してきた者を逆に自分の代わりに封印し、相手になりすました為に真実を知ることになったのだ。

「太陽の女神がオムニポウテンスとの間に世界を生み落した。その世界の中のひとつの惑星に我々は追放され、人間たちはそのままだったが、我々だけはこの惑星の別々の場所へそれぞれが封印されたのだ」

 イーヴルが自嘲気味に言った。

「人間たちは、我のせいで追放されたのだ」

「ですが、わたしたち人間はそのことは知らされていませんでしたし、別の世界に飛ばされたことも基本的に気づいた者はいなかったはずです。もちろん、中には気づいた者もいたでしょうが、それを教えてくれる誰かはいなかったですし、知った所でどうなることでもないわけで」

「あの頃は、本来の我等の世界で静かに暮らしていた神々の仲間でしかなかった」

 イーヴルはポツポツと喋りだした。身体はファーであり、声もファーの声であったので、その場で聞いている人々は不思議な感覚で彼の言葉に聞き入っていた。

 世界は、より善くあるために神々が統治していた。一部の者たちが永遠ともいえる時を不思議な力で統治し、その他の者たちは限られた命のもと、不思議な力を持たずに生きており、その者たちは「人間」と呼ばれていた。中にはその人間から神々と同じ力を持つ者も生まれたりし、その者はそのまま神々の仲間として受け入れられることもあったが、そういった事例は皆無ではなかったが、ほとんどといっていいほど事例はなかった。だから、今の世界で何人も神格化した人間が出てくることはとても珍しいことでもあったのだ。

「我と兄であるオムニポウテンスとは双子で、髪の色と瞳の色以外はそっくりだった」

 オムニポウテンスとイーヴルは、そんな神々の間に生まれたたった二人の兄弟だったのだ。彼らの親神の統治する世界で他の親族たちと一緒に暮らし、世界をより善く統治していた。そんな二人の傍で同じ親族であった太陽の女神は彼らの幼馴染としていつも一緒に過ごしていたのだ。

「シーラと言った」

 イーヴルは囁くようにその名を呟いた。

「シーラ、正式名をシーラスティーンと」

 彼は懐かしそうにその名前を呼ぶ。

 遙か遠くに過ぎ去った愛しい日々を思い出す。

 彼女は眩いばかりに光り輝く女神だった。彼は思う。自分はそんな彼女を愛しく思っていた。間違いなく。手に入らぬ光と同じ存在である光の乙女。彼女を愛することが心からの望みだと心に言い聞かせ、いつしかそれこそが己を幸福へと、常盤の彼方へと導くものなのだと、そう信じて、そして彼女に妻になってくれるよう告白したのだった。その告白が自分と兄と彼女を不幸のどん底に陥れるものであるとは露とも感じずに。

「あなたはもっと正直に生きるべきでした」

 ファーは憐れみのこもった声音でそう言った。

「ご自分が本当に欲しているものを素直に求めるべきでした」

「そうであろうか。今でも我には正直に生きることが正しいこととは思えないのだが…」

 イーヴルはそう言ったが、だが、それが本当は間違いであることにも気づいているようでもあった。

「お話しましょう。わたしが知った真実を。あの時、光の乙女と光神に何があったのか」

 ファーは厳かに言い放つ。

 イーヴルが切望してやまなかったことを彼は淡々と話し始めた。



 あの日、遙か昔のその時に、シーラは婚約者であるイーヴルと瓜二つの男の前に立っていた。光輝く黄金色の髪と目の覚めるようなアイスブルーの瞳以外は何もかもが同じ、声までも同じであるイーヴルの兄であるオムニポウテンスを前にして、幼い頃から共に過ごした彼女ではあったが、やはり自分はオムニポウテンスではなくイーヴルを選んだことを後悔はしていなかった。だが、今、オムニポウテンスより聞かされたことに動揺していた。

「お前は本当にイーヴルを愛しているのか?」

 念を押すように彼は言う。

「たとえ自分が未来永劫愛されることはないとわかっていても、それでも愛するとお前は宣言できるのか?」

「……それが、それが真実の愛ではないのですか?」

「いや、私はそうは思わぬ」

 オムニポウテンスは言い切る。

「確かにどんなことがあっても相手を心から愛することが真実の愛と言えよう。愛することは自由だから、な。だが、私は思うのだ」

 彼はそう言いながらシーラに近づき、彼女の頬を優しく触った。

「愛する相手が真実に求めているものを捻じ曲げて、偽りのものを手にしようとしているのを止めることも真実の愛ではないか?」

「真実に求めるもの?」

「弟はお前を愛していない」

「え?」

 シーラの顔色が変わった。

 愛していない?

 まさか、本当に?

 実はシーラはそんな気がしていたのだった。

 幼い頃から一緒に過ごし、彼の心の機微も熟知していた。自分は彼を子供の頃から慕っていたので、彼が何か手に入らないものを求めていることも何となくだが気づいていたのだ。だが、彼は自分を選んでくれた。きっと一緒に暮らしていけばいつかは心から自分を受け入れて愛してくれるようになるとそう信じて、彼からの求婚を受け入れたのだ。

「イーヴルを解放してやってくれ。彼を本当に愛しているというなら、どうか私と共に生きてくれ。そうすれば彼も己が本当に欲するものを求めることができるのだから」

「それは…それは、あなたと契れということですか?」

「そうだ。お前が私を選べば、彼は幸せになるのだ」

「でも、私はあなたを愛していない」

「愛さなくてもいい。私の傍で生きてくれれば、それだけで私は幸せなのだよ」

「………」

 そうして光の乙女は愛する男を裏切った。

 本当のことは言えなかったから、黙って消えるしかなかったのだ。

「そんな…そんなことがあったなんて…」

 真実を聞かされたイーヴルの声は動揺で震えていた。

 どうして兄は、オムニポウテンスはそんな嘘をついたのだろう。いや、違う。確かにすべてが嘘ではない。それは自分が一番よくわかっていることだった。

「だが、全てが嘘ではないにしろ、ひとつ紛れもない嘘を兄はついた。それは、シーラが兄と契れば、我の欲するものを求め得ることができると。実際には、二人が契ることで、我は永久に欲するものを失ってしまうというのに」

「それはどういうことですか?」

「!」

 突然、シモラーシャが声を発した。

 だが、それはシモラーシャではなかった。それはシモン・ドルチェ、いや、シーラスティーン、光の乙女だった。

「シーラ」

「イーヴル、それはどういうことですか?」

 シモラーシャの顔つきがまるで違っていた。

 心なしか彼女の身体全体が仄かに金色に輝いているようだった。

 森の奥の泉の傍で、思い思いの格好で人々は一見寛いでいるように見えた。

 中央にはファーの姿をしたイーヴルが座り、その傍にはティナとドーラ、少し離れてクリフとドラン、ジュリー、リリスが座っていた。そして、クリジェスはシモラーシャの傍にマリーとジュークとともに座っていたのだが、今はシモラシーャは仁王立ちをしていた。そんな彼らから少し離れた木の下にドドスはいたのだが、いつのまにか傍にはミーナとオリオンがいて、その傍らにはバイスとスレンダが静かに立っていた。

「イーヴル、あなたの求めるものとはいったい何だったのですか」

「………」

「私にはそれを聞く権利はあると思うのですが」

「……兄だ」

「え?」

「我が愛していたのはオムニポウテンスだったのだよ」

「なっ…!」

 双子の兄を愛していた。

 だが、それは求めてはいけないものだとわかっていた。

 そして、それを誰にも知られてはいけないとも。

「当時の我はそれが真実の愛だと信じていたのだ」

 その気持ちはこの世に生れ落ちた瞬間から持っていたと思っていた。

 物心ついた頃にはすでにいつも傍らにいる金の天使を慕っていた。それは愛だと彼は信じていたのだ。

「だが、実際には兄を求めてはいても、その兄とどうにかなりたいと思っていたわけではなかった。愛しい、と、ただとにかく愛しくてしかたない存在として、未来永劫共に過ごしたいと思っていたのだ」

 イーヴルは語る。

「今ならわかる。その気持ちも確かに愛ではあったのだろうが、異性に対する愛情ではなく、自己愛だったのだと。我は己しか愛せない、神とは呼べない愚か者だったのだ」

「それは違います!」

 イーヴルの言葉を否定する声があがる。それは彼の息子であるクリフだった。

 クリフは立ち上がるとイーヴルへと近づいてさらに言葉を続けた。

「そんなはずはないのです」

「クリフ…我が息子よ」

 イーヴルは顔を上げて息子を見つめた。

「以前にも僕はあなたに言いましたよね。あなたはきっと母を愛していたはずだ、と。あなたはあの時、はっきりとは言いませんでした、母をその手で殺したとは。母は確かにすでに常盤の彼方へ旅立っていますが、それは別の理由であったことを今は僕も知っています」

「そうですよ」

 クリフの言葉を継いで、今度は銀髪の青年が立ち上がり、ゆっくりとイーヴルの傍に歩いてきた。ジュークだ。

「直接手を下したのは私です」

 彼の言葉に、その場の空気が凍りついた。

 片方の目は銀髪で隠されていたが、もう片方の目は悲しみの色が滲んでいた。その瞳を見たその場の者たちは心がざわつくのを感じた。

「オムニポウテンスの娘であるスメイルとノナビアスは自暴自棄となったスメイルの暴走の末、無意味な戦いを始めてしまったのです。そして、それを放っておけば世界が崩壊してしまう。それを恐れたノナビアスの懇願で、私がお二人の機能停止を施しました」

「機能停止って…機械だった時の悪いクセが出たな」

 ボソッと呟いたのはミーナだった。それを聞きつけたオリオンは苦笑した。

「なので、イーヴルはスメイルを殺めてはいません」

 ジュークはきっぱりと言い切った。

「だが、そうであっても、我と関わったせいでスメイルは不幸に陥った。彼女が最低最悪な女神と謗られるようになったのも、我との関係のせいだったのだから」

「父さん…」

 イーヴルはクリフの憐れみのこもった声に反応する。

「父と呼んでくれるのか」

 心なしか声が嬉しそうだ。

「そもそもなぜ母は最低最悪な女神と言われるようになったのですか」

 息子の疑問にイーヴルは答える。

「彼女が生まれ落ちた時には、我はすでに封印されていた、ということになっていたが、我はお前も知っての通り、ナァイブティーアスに取って代わっていたのだ。だが、他の者が知らぬ時に、元来の姿に戻り、スメイルに接していた。お前の父の弟なんだよ、と。物心つく頃から我はそう子守唄のごとく囁き続けたのだ」

「なんでそんなことを…」

 ドランがしかめっ面を見せながら言ったのを傍でジュリーが嘲るように言った。

「お子様なお前にはわからんだろうな」

「なんだとぉ、おっさん」

「おっさん言うなよ」

 今にも互いに掴み掛らんばかりな態勢で二人は睨み合う。

「最初はただの好奇心だった」

 そんな二人のやり取りにも頓着せずにイーヴルは続ける。

「兄の最初の子供があまりにも兄本人に似ていたのだ。しかも女だ。さぞかし絶世の美女になるのだろうなと思ったのもまた業なのだろうな。いつしか我はスメイルをそういう対象で見るようになっていったのだ」

「……そんな…」

 ショックを隠し切れないのがシモラーシャ、いや、シーラだった。

 それはそうだろう。かつて愛した男が己の娘に恋心を抱いたのだ。

「当時も、そしてつい最近までも我は己のその気持ちに気付かないでいた。無自覚でスメイルを可愛がっていたのだ。だが、肉欲には勝てなかった。美しく育った彼女をどうしても欲しいと思ってしまった。なので、ナァイブティーアスとして彼女を娶ることにしたのだ。兄と、そして我を裏切った女に復讐する為と言い聞かせながら」

「それが真実の愛情だったのだと気づかずに…」

 クリフが呟く。それに対して黙って頷く父。

「そして、その真実の愛に気付かずに、我はスメイルを傷つける発言をした。そのせいで彼女は自暴自棄になり、妹に戦いをしかけたのだ」

「そうだったんですか…」

 重い、果てしなく重い空気が充満していた。

 見上げれば森の木々の隙間から澄み切った青空が見え隠れし、彼らの佇む場所に木漏れ日が差し込んでいた。

 遠くでは鳥のさえずりや獣たちの遠吠えが微かに聞こえ、世界は美しくその姿を見せつけていた。その場所に垂れ込める重苦しい空気を浄化してくれそうな、そんな雰囲気が満ち溢れている。そんな次の瞬間、ジュークの口がゆっくりと開き、その口から彼とは違う声が響いた。

「イーヴルよ」

 それと同時にジュークは、右目を隠している髪の毛を手でゆっくりと取り払う。

「!」

 彼の右目を見た者は吃驚した。

 それもそのはず、ジュークの右目は眼球がなく、吸い込まれそうなほどの闇がその眼窩に見て取れたのだ。

「本来なら、自分の身体と声でお前に許しを懇願しに行かねばならないところなのだが、今の私にはそれができない。申し訳ない」

「オムニポウテンス」

 イーヴルが呟くように彼の兄の名前を発した。

 オムニポウテンスは世界の中心の宇宙空間でその身体を変化させていた。巨大な、恒星と同じほどの大きさの赤子の姿で空間に浮かんでいたのだ。もうずいぶんと長い間、その姿で生き続けることを決め、彼の腹心の人物であるジュークと同化して意識だけの存在となっていたのだ。

「私はシーラスティーンを手に入れたいと思うあまり、お前と彼女を嘘で引き離した。その結果、結局は彼女も、そして彼女の子供たちまでをも不幸にしてしまった。本当に申し訳なかったと今は思う」

「……いまさらそんなこと言われても」

 生気の感じられない声でイーヴルは答える。そして、続ける。

「兄よ。我は本当に疲れた。もう新しい者達に世界を委ねる頃合いだと思う」

「そうだな」

 弟の言葉に同意する兄神。それに頷きながらイーヴルは苦笑した。

「我等は自ら常盤の彼方へは行けぬ。だが、我はもうこの世界にいてはいけないと思うのだ」

「同感だ」

 ファーの姿をしたイーヴルはゆっくりと立ち上がった。すると、彼はジュークの姿をした者に視線を注ぐと言い切った。

「我を常盤の彼方へと旅立たせて欲しい」

「それはジュークに言っているのか」

 イーヴルはジュークの先にいる兄に向って言葉を発していた。

「だが、私はもうこれ以上ジュークにそんな役回りをさせたくないのだが」

「では、僕が送ってあげましょうか」

 その時、おどけた声を発して立ち上がった者がいた。マリーだった。

「お前は…」

 イーヴルが目を細めてマリーに視線を向けた。

「お久しぶりで御座います」

 マリーはそう言うと、その姿を変化させ始めた。

 琥珀色の髪が徐々に伸び始めた。それはどんどん色が褪せていき、銀色へと変化していく。同時に髪の色と同じだった瞳の色も銀色へと変化していく。

「……マリスか」

 呟くイーヴル。

 そして、その姿を完全に変貌させたマリーは、何もない空間から銀のフィドルを取り出した。

 マリーのことを知っていた者たち以外は、驚きの表情でこの顛末を凝視していた。

 だが、フィドルを奏でようとしたマリーを止める声が上がる。

「待ってください」

 クリフだった。

 彼は立ち上がると、マリーの傍までやってきた。それから自分の父を振り返った。

「父さん、それは逃げですよ」

「………」

 父は息子を見詰めた。

 それはわかっている、とイーヴルは思った。

 だが、だからといってこのまま生き恥を晒すつもりもなかった。

 それは恐らく兄であるオムニポウテンスも同じ気持ちだろうと彼は思った。

 生きたかった者達の気持ちを思えば、我々はのうのうと生きていくことはできない。そして、新しい世界には旧時代の神々は必要がない。人間達はいまだに邪神の記憶が拭い去れていないのだ。だとしたら、邪神は滅せられるべきだ。

「クリフ…」

 しかし、息子達はそれを受け入れてはくれぬだろう。

(致し方ない…)

 イーヴルは辺りに視線を泳がせた。

 すると、ミーナの姿が目に留まる。

 ノナビアスの娘はその鮮烈なるアイスブルーの瞳でイーヴルを見詰めていた。その目には微かな嫌悪が感じられた。イーヴルは意を決すると素早く動いた。ミーナの身体を抱え上げるとあっという間にその場から空間移動を果たしたのだ。

 イーヴルの行動はあまりにも俊敏過ぎて、そこにいる全ての者が一瞬、何が起きたのかわからないでいた。

 だが、それでもミーナの側近でもあるオリオンだけはすぐに反応を示した。

「ミーナ!」

 とはいえ、彼は所詮は人間である。

 愛しい女の名前を叫ぶしかできない。

 それから他の者たちが我に返る。

「イーヴルは何をしようというのだろう」

 ジュリーが難しい表情をして呟く。

 彼のその言葉に途方に暮れたような顔を見せ、不安そうにクリフが呟いた。

「父さん…」

 彼は空を見上げた。

 そこに彼の父親の姿を見つけるかのごとく。空はそんな彼の心などお構いなしに澄み切った青空を見せていた。


        2017年7月29日記

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