第8話「氷神バイス」
その後、水神フェイトは月の御子に諭されて死することをやめた。だが、もともとは封印されていた彼であったので、再び彼は封印されることを願った。光神に正式に許されるまで自分は眠って待つとそう言い残し、代理人である光輝神官ジュークによって彼はもとの場所へと封印されることとなった。その封印される前に、彼は大地の御子を眠らせた氷神についてこう言い残した。
「我では氷神の施した凍れる眠りを破る事はできぬ。彼は一族の中でも一位二位を争う力の持ち主だからだ。彼の術を破れるのはイーヴル様とマリス様くらいだろうな。だから、やはり本人に解いてもらうか、あるいは彼を倒すか、二つに一つだろう」
ジュリーの言葉を信じれば、闇神イーヴルはすでにこの世にいない。となれば、音神マリスに術を破ってもらうということになるが、これはまったく期待できない選択だ。そもそもマリスが覚醒したという情報はない。もっとも、彼らのすぐ傍にいる吟遊詩人がそのマリス自身だということは皆は知らない。ジュークを除いては。
だが、ジュークはそのことは話すつもりはないらしく、素知らぬ顔をしたままマリーの正体を話すことはなかった。が、ここにもう一人、音神が覚醒していることを知っている者がいた。
そう、リリスである。
彼女の相棒であるリリンはジュリーの恋人となって彼についていった。今はジュリーの故郷で暮らしていて、いつもなら彼が出かける時には傍から離れるということはなかった。ただ、一緒に出掛けた町で少しジュリーからリリンが離れた時に、彼がクリジェスを見つけてしまい、そのままジュリーはクリジェスにくっついてきてしまったのだ。今頃、リリンはジュリーを血眼になって捜しているだろう。
だがしかし、リリスは、それどころではなかったのだ。
かつての相棒のこと、シモラーシャが光の乙女であること、マリーが邪神であること、そういうことを忘れてしまうほどに今はクリフのことが心配で死にそうなくらいだったのだ。
すると、心配そうな顔でクリフを見つめるティナの傍で、考え込んでいたドーラが呟くように言った。
「俺の友人が魂神マインド配下の上級魔族に眠らされたままずっと目覚めないんだよ。丁度この大地の御子のようにな。魔術をかけた当の本人は死んだが、それでもファーの眠りは破られることはなかった。だから、大地の御子も氷神を倒したからといって目覚めるとは限らないんじゃないか?」
彼の言葉に、膝枕をしていたリリスが泣きそうな顔をしてジュリーに顔を向けた。
シモラーシャはそんなしおらしいリリスを見て戸惑った。まるで普通の女性のようにしか見えない。
なんといっても初めて彼女を見た時は、リリスは邪剣士で、凶悪な女剣士だったのだから。それはドドスにも言えることだ。にわかにはドドスに対してもリリスに対しても信用を寄せることはどうしてもできないことだった。
それはドーラも感じていたことだ。
ドーラもリリスには痛い目に遭わされている。
だが、この際そういうことはあまり考えないことにしたようだ。ドーラもシモラーシャも。ドーラは早くファーを目覚めさせたいと思っていたし、シモラーシャはシモラーシャで、あまり深く物事を考えない主義だったので。そういうことで、シモラーシャはジュークに聞いてみた
「ねえ、ジューク。ジュークはこの子を目覚めさせることはできないの?」
その彼女の言葉に、クリフを自分の膝に乗せて心配そうにしていたリリスが祈るような瞳でジュークを見つめる。
「申し訳ありません。私にも大地の御子を目覚めさせることはできません」
「そうなの…やっぱダメなのね。じゃあどうすればいいんだろう」
シモラーシャはため息をついた。
リリスはポロポロと泣き出した。
それを見てギョッとするシモラーシャ。
ジュリーはというと、そんな彼女を辛そうに見ている。
すると、皆から少し離れた場所の巨木の下に座っていたミーナが立ち上がった。傍にはドドスが、まるで彼女を守るかのように立っていた。同じくオリオンも。その彼は胡散臭そうにドドスに視線を向けていたのだが。
そして、ミーナが口を開いた。
「ひとつ、試してみたいことがあるのだが」
一斉にミーナに視線が向けられる。
静かだった。
今まで森の中は何らかの物音が満ちていたのだ。
動物の鳴き声とか、近くの湖に流れ込む川のせせらぎとか、遠くに聞こえる何者かの吠え声などが。
だが、ミーナが一声発した瞬間、まるで彼女の声を恐れるかのごとく、すべての物音が消えた──ように思えたのだが、実際は、皆の耳がすべての音をシャットアウトしたに過ぎないのだろう。それはわからない。ただ、あたりがシーンとしたのを感じた人々は、そうは思いつつも、本当はミーナの存在が音をかき消したのだと信じてしまいそうだった。それくらい彼女には周囲を圧する存在感と威圧感があったのだ。
「それは何なのよ」
その静けさを破って声を発したのは、もちろんシモラーシャだった。
彼女は、ミーナが太陽の御子であったとしても、どうしてもその姿形で、ただの子供としか思えず、こんな子供に何ができるのだろうと思ったのである。
だが、そんなシモラーシャの侮るような物言いに気づいているのかどうかわからないが、ミーナは気にするふうでもなく話を続けた。
「うむ…私は太陽の御子、そしてティナは月の御子、そして、彼は大地の御子だ。私たちはこの世界の礎となるよう使わされた存在。いわば兄弟のような濃い繋がりのある三人なのだよ。実際は親達が姉妹という従兄妹同士となるのだが、それでも私たちの繋がりはそれ以上の繋がりがあるのだ。だから、私とティナで彼に呼びかければ、或いは目覚めさせることができるかもしれん。成功するかどうかはわからぬが、やってみる価値はあると思うぞ」
さて、ミーナたちのいる場所よりだいぶ離れた山奥で、とある人物が邪神と対峙していた。
そのとある人物とはマリーであった。
彼は、あの場所からそっと抜け出していた。
というのも、あの月の御子ティナは人間の神格化を感じ取ることのできる能力を持っていて、それはすなわち人間に化けた神の存在をも嗅ぎ取ってしまう能力なので、マリーといえども自分が人間ではなく神だと指摘される恐れがある。それもあり、一時あの場所から離脱したのだった。
不本意だった。
ティナのせいでシモラーシャから離れなくてはならず、ティナの存在を疎ましく思った。
いずれはシモラーシャに本当のことを話さなければならないとは思ってはいたが、それは今じゃない。とはいえ、今じゃないと思い込んで、その実はただ時間を引き延ばしているだけだったのだが、それを彼は認めたくなかったのだ。それもあって、再び逃げ出した。それほど彼は臆病になっていた。
だが、そんな彼を嘲笑うかのように、運命は一番会いたくない人物と彼を引き合わせてしまったのだ。
それが、今彼の前に立ちはだかる邪神──そう、氷神バイスであった。
氷神バイス──白い白い人物だった。
肌は透き通るような白さで、長く地面まで伸びたまっすぐな髪の毛は白髪だった。だが、その白髪も不思議な色合いで、白というよりは透明で色がないかのような色合いなのだ。そして、もっと不思議なのが瞳の色だ。白だった。白い瞳。何もかも白の存在。
その白い神が口を開いた。
「あなたはマリス様ですね」
「………」
マリーは珍しく強張った表情を見せた。
バイスはゆっくりとマリーに近づいてくる。
逆にマリーはじりじりと後退している。
「な…なんのことですかあ?」
「とぼけないでください」
バイスは近づくのをやめ、辛そうな声で言った。
「どれほど永くあなたと共に過ごしたと思っているのです。そんなあなたが私の前から姿を消してから、私がどれほど狂おしくあなたを捜したことか。その私の気持ちをあなたは踏みにじるおつもりですか」
彼の声に微かな憤りが混じる。
心なしか彼の身体も怒りからか震えているようだ。
「あの日、恒例であった太陽の女神の転生体を殺めてくるとおっしゃってあなたは旅立ち、私は待ち続けました…」
バイスは遠くを見つめるように中空に視線を向け、語りだした。
「あなたはすぐに戻ってくるとおっしゃった。なのに、いつまで経ってもあなたは戻っていらっしゃらない。そんな時にあちこちでかつての仲間たちが覚醒しては、何人かは殺され、そのうちの一人カスタムは、あなたが殺めるはずだった少女が殺めたという。どういうことかと私はあなたの真意を疑ったものです」
「………」
マリーは応えない。
「マリス様」
バイスは一歩彼に近づいた。
「どういうことなのです? どうしてしまったのです?」
少しづつ、マリーに変化が見られ始めた。
そんな彼に気づいているかそうではないのか、バイスは続ける。
「あなたは私を裏切ったのですか? 裏切りは絶対に許さないとおっしゃったあなたが、そんなあなたが裏切るのですか、この私を?」
マリーの瞳の奥が銀色に閃く。
そして、次の瞬間。
一気にマリーの姿が変化した。
今までにないくらいの劇的な変化だった。
ぶわっと髪の毛が伸びて銀色に変化し、顔の造形も冷厳な相貌に戻り、バイスと並ぶとまるで双子の兄弟のように見えた。かたや白の貴公子、かたや銀の貴公子。白と銀の一対の置物のように、二人は今相対して互いを見つめ合っていた。
「マリス様…」
その一方のバイスから声が発せられる。
「教えてください。あなたは何を考えているのです?」
「………」
だが、マリーは、いや、マリスは答えない。
じっと黙ったまま一言も喋ろうとはしなかった。
そんな彼に業を煮やしたのか、バイスはイライラしたように声を荒げる。
「何も答えては下さらないということは、やはりあなたは私を裏切ったと取っても宜しいのですね。そうなんですね!」
バイスはその白い瞳でマリスの表情を読み取ろうとした。
しかし、銀の瞳には何の感情も浮かんでおらず、まるで人形のようにマリスはそこに立ち続けている。
しばらく、その場にシンとした静けさが広がる。
彼らの周りだけが極寒の地のコーランドのように冷え冷えとして、本当に気温が下がっているかのようだ。
実際、気温は下がっているらしく、彼らを取り巻く空気が結晶となってキラキラ輝いている。
「……もし、私がお前を裏切っていたとしたら、お前はどうするのだ?」
すると、唐突にマリスが口を開いた。
「私をその手にかけるか?」
「私は知りたいのです!」
バイスは叫んだ。
その声は悲痛で、誰でも思わず心を揺さぶられるほどだった。
だが、マリスはそれほど心を動かされたわけではないようだ。
「何を、だ」
至極落ち着いた声でそう問うた。
逆にバイスは感情的に己の思いをぶちまける。
「何故、あなたは裏切ったのか。裏切りは絶対に許さないあなたが、どうして裏切る側になったのか。私はそれを知りたくて気が狂いそうだったのです。ですから、聞かせてください。何故、あなたは彼女を殺さないのですか。どうして?」
「…………」
マリスは答えない。
再び黙ってしまった。
それを今度は辛抱強く待つバイス。
恐ろしいほど張りつめた空気が彼らを取り巻いていた。
その頃、大地の御子の横たわった身体を囲むように太陽の御子ミーナと月の御子ティナは互いに向き合った。
それを祈るように手を組んで、心配そうに見つめるリリス。
そんな彼女をシモラーシャは胡散臭そうに眇めて見ている。
(これがあの最低最悪の女邪剣士なの?)
彼女は自分のその思いを聞いてほしいと思い、いつもそばにいるはずのマリーを探した。
「あれ?」
すると、マリーはいなかった。
「どうしました、シモラーシャさん?」
「あ…ううん、なんでもない」
ジュークに問われて彼女はとっさにそう答えた。
何となく、マリーがいなくなったことを知られたくないと思ったのだ。
それを、なぜか不思議に思う彼女だった。
「…………」
だが、ジュークはそんな彼女の気持ちにも気づいているらしく、何もかもわかっているという表情を浮かべた。
そんな彼らのことなどお構いなしに、ミーナがティナに声をかける。
「始めようか」
「はい」
ティナは頷くと両手を横たわる身体にかざし、目を閉じた。
そして、それを確認したミーナも彼女にならって手をかざし、目を閉じる。
とたんにあたり一面の空気が張りつめ、その場に居合わせた者は何となく息苦しくなった。
すると、ミーナの身体から金色のオーラが、そして、ティナの身体からは銀色のオーラが、目に見えるほど放出し始め、その二つのオーラは絡み合い混じり合いながら、横たわるクリフの身体を包み始めた。
その様子は厳かで、思わず祈りたいという気持ちにさせる。
実際、リリスなどは手を組んで祈っていたのだ。
その様子はとにかく必死であり、いかに彼女がクリフの心配をしているかが窺われる。
と、その瞬間、目を閉じて安らかに眠っているように見えるクリフの瞼が急に見開かれた。と同時に、彼は叫んだ。
「いけない! 戦ってはいけない!」
そして、彼はその場から忽然と消えてしまった。
それを茫然と見つめる周りの者たち。当然、手をかざしたままのミーナとティナも、いったい何が起きたのかわからなかった。
だが、すぐにミーナとティナにはクリフが向かった場所に察しがついた。
「近くに邪神の気配がある。それも二体」
ミーナがそう言うと、頷きでティナが答える。
「我等も向かうぞ」
そう言うとミーナはティナと共に瞬間移動でその場から移動した。
慌てたのはオリオンである。
「ミーナ!」
彼は叫んだが時すでに遅し、ミーナはティナとともにその場から消え去り、二人がどこに行ってしまったのか知るすべはない。
しばらく、残された者たちは硬直したように動けずにいた。
一方、バイスはマリスに切々と問いかけていた。
「お願いですからあなたの御心をお聞かせ下さい。でないと私は…」
「かかってくればいい」
「な…!」
マリスの言葉にカッとなるバイス。
「どうしても…どうしても話してはくださらないのですね…わかりました…」
バイスはそう言うと、片手をあげた。
とたんにあたりの空気の温度がさらにぐっと下がったようだ。
だが、よく見てみれば、バイスの表情にはためらいの色が浮かんでいた。
それはそうだろう。
彼は納得しているわけではない。
本当はまだどうしても音神の本心を知りたいと思っていたのだ。
(何故、どうして話して下さらないのです、マリス様)
彼は自分をじっと見つめ、ただそこに立っているだけのかつての仲間であるマリスを見つめた。
「どうした、かかって来ないのか?」
いつまでも行動に起こせないバイスに対して、マリスは冷たく言い放つ。
「お前がどう思おうと、私は本心を話すつもりはない。それが気に入らないのなら私を倒すことだな」
「それはあまりにも酷ではありませんか!」
バイスは悲痛な声を上げた。
「私はただあなたを待っていただけです。あなたは待っていろと私に言った。そんな私に対してそのような言い草はないでしょう。お願いですから、いったい何があったのか、どうしてこんなことになってしまったのか、後生ですから私に教えてください。たとえ、それであなたの不興を買って命を奪われようとも構いません。マリス様、どうかお願いですから、本当のことをお教えください!」
「………」
ほんの少し、マリスの面に感情の揺らめきが見えたようだった。
だが、それを恥じたのか、すぐに表情はもとに戻り、その美しすぎる相貌に非常なる冷酷な表情が浮かんだ。
「では死ぬがいい」
マリスがバイスに向かって手をかざした。
「!」
バイスの表情が緊張で強張った。
と、その時。
「ダメです! やめてください!」
「な…っ!」
二人の間の空間に実体化した者がいた。
それに驚いたマリスとバイス。
「おまえは…」
だが、バイスにはその者に見覚えがあった。それもそのはずで、彼らの間に現れ出でたのは大地の御子であるクリフだったからだ。
すると、わずかな時間の後、今度はミーナとティナがその場に実体化した。
「これは…」
ミーナが目を見張ってマリスとバイスを凝視する。
ティナはというと、少し青ざめて太陽の御子のように二人の邪神を見ている。言葉は発していない。
しかし、クリフは二人に構わず、言葉を続けた。
「お願いですから、殺生事はもうやめてください」
クリフは悲しそうな瞳でバイスに視線を向け、それからマリスに顔を向けて更に言った。
「この人を殺めてしまったら、あなたはきっと後悔してしまう。絶対にダメです。そんなことは僕がさせない」
マリスの銀色の目が大きく見開かれた。
それは驚愕というよりは、まるで不本意なことを言われたとでも言いたげな様子だった。
「何を小僧が知った風な口をきく…私を誰か知っての物言いか」
「あなたは音神マリス様でしょう? そんなことはわかっています」
その言葉に、マリスは一瞬すねたような表情を見せた。
これではどちらが子供かわからない。
「あなたはこの人に本心を言うべきです。この人はそれを心から望んでいる」
「何故、おまえがそのようなことを言うのだ。バイスのことなど知らぬ小童のくせに…」
「わかるんです!」
クリフはマリスの言葉をさえぎって叫んだ。
「この人の心はオープン過ぎたのです」
「………」
クリフの言葉を聞き、思わず顔をしかめるバイス。その様子は恥じているようにも見えた。
「僕はこの人に眠らされた。けれど、その時に僕の心にこの人の心がなぜかリンクされてしまい、この人の心が僕の心にどっと流れ込んできた。僕は知ってしまった。あなたとこの人の長きに渡る日々のことを。そして、あなたがこの人に語ったすべてを」
「すべて、だと…?」
マリスは明らかに青ざめた表情でクリフを見つめた。
「何を知ったというのだ、お前は何を…」
「太陽神のことも、そして、邪神戦争がなぜ起きてしまったのか、を。太陽神が今どうしているかも…あっ…」
クリフはそれ以上喋れなかった。というのも、クリフと二人の少女を抱え込んでバイスがその場から瞬間移動したからだ。
それはあまりに素早く行われたので、さすがのマリスも対応に遅れた。
「バイス…お前…」
マリスは目を細めて、消えてしまったかつての友を見送った。
彼の銀色の瞳には、様々な感情が入り乱れて浮かんでいるようだった。
2012年2月22日記
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