第5話「水神フェイト」
その頃、ミーナたちのいる場所よりそれほど遠くない湖に異変が生じていた。
(ディーズ…私の大切なディーズ…)
その囁くような声ははっきりとした声としてあたりに響き渡っていく。と同時に、あたりの草木は不吉にざわざわと揺れ始め、そこに隠れていた怪しげな動物たちも一斉にどこか遠くへと駆け出していく。そして、声はさらに響く。
(許さない。私の愛するあのお方を滅ぼした者を。私は許さない)
「………」
邪神は滅せられなければならぬ──そのように言った後、ミーナはその湖の異変に気づいたらしい。視線をあたりに泳がせ、気配を窺う素振りを見せた。その彼女と同じように、カーリーやドドスも彼女に倣うかのように怪訝な表情を浮かべ、あたりを窺う。
オリオンとサフランはどうやら気配には気づいていないようだが、サフランはカーリーの異変に、オリオンはミーナの異変にそれぞれ気づいたようだ。
「ミーナ、どうした?」
オリオンは傍らで黙り込んで動かなくなった金髪の少女に声をかけた。
「邪神だ」
「え?」
囁くようにミーナが言ったので、思わずオリオンは聞き返した。
「………」
急に重苦しい空気があたりを押し包んだように彼は感じた。彼はごく普通の人間であったので、他の者たちのように邪神の気配というものは感じられない。だが、ミーナをその母より託された時から、通常の人間以上の強さを手に入れるために過酷な訓練を積んできたのだ。それなりに異常な雰囲気というものは感じることができる。それと、ミーナの変化にも敏感だ。もっとも、それは彼女が彼にとって特別な存在でもあるからなのだが。
「どうやら近くに邪神が居るらしい。あちらの方角だ」
ミーナは緊張した面持ちのオリオンに、己の顔を向けずにそう言い放った。あくまでその美しい面は、彼女が邪神が居ると言った方角に向けられたままである。その姿は、まるで、獲物を狙う豹のようだった。大きな青い瞳はじっと空間を見据え、その青さで相手を滅してしまおうとでもいうほどの鋭さで、そんな彼女を崇拝と誇りに満ちた眼差しでじっとオリオンは見詰める。
「邪神だって?」
すると、その空気を乱すようにドドスが口を出した。それをしかめた顔つきで睨むオリオン。だが、ドドスはまったく頓着せず、続けた。
「どうするのだ? 戦うのか?」
「そうだ。邪神は滅せられねばならぬ」
「勝てるのか? お前はまだ子供だというのに? それに成人しなければ力はないと言ってなかったか?」
「勝てる」
ミーナはドドスに向かってそう言った。その声には一片の曇りも迷いも感じられなかった。滲み出る誇りのみが感じられた。
「邪神は封印された時にその力のほとんども封印されたのだ。我等幼神と同程度の力しかないはずだ。だから、恐らく私一人でも勝てる。それに今は私は一人ではない」
彼女はそう言うと、傍らに立つカーリーに目を向けた。
「新しい炎神も力を貸してくれるだろうからな」
「もちろんだ。オレもそのつもりだ。別に自分に炎神としての力がなかったとしても、邪神を倒す手助けはしたい」
「よく言った」
ミーナは彼の言葉に力強く頷くと先に立って歩き出した。それに続くカーリー、そしてサフラン。続けてオリオンも歩き出す。
「………」
それを複雑な思いで見詰めるドドスだった。
(俺などに何が出来る)
彼はそう心で呟いていた。
それなりに力は強いという自負はある彼である。だが、それも下級魔族に対してだけだ。さすがの彼も上級魔族には勝てないかもしれないという思いがある。
(ましてや、相手は邪神だ。俺に敵うわけがない…)
ドドスはかつて風神に仕えていた。その風神の力の凄まじさは未だに覚えている。その風神に仕えていた関係でか、彼もまた風を操る事は出来るのであった。その力はまだまだではあったのだが、心なしか徐々に強まっている気がしないでもなかった。だがしかし、冗談にも「俺は強いのだ」と言いはしているが、本音では子供のお遊びでしかないのだろうなという思いも持っていたのだ。
「………」
とはいえ、彼も歩き出す。手出しはせぬとも、何故か見届けなければという思いから。
湖はそれほど遠くにあるわけではなかった。ほどなく彼らは問題の湖に到着した。
「ここなのか…?」
オリオンが声をひそめて傍らの少女神に聞く。だが、彼女は答えずじっと水面を見詰めるばかりだ。行き詰るような時間がしばらく過ぎる。と、その瞬間。
(ディーズを倒した者は誰だ?)
轟くような声が彼等の脳髄に直接響いた。
「!」
ミーナ以外はすべて頭を抱えてその場にうずくまる。だが、ミーナだけはすっくと立ったまま、水面を睨みつけていた。湖は、まったく動いていなかったのだが、その頃からゆらゆらと水面が揺れ始め、だんだんとその漣が激しくなっていった。何かが出てこようとしている。
ざばあという水飛沫とともに人の形をしたものが湖から出てきた。それは人だった。酷く美しい面の人だ。だが男のようだった。長い薄い青色をした髪をたなびかせている。水から出てきたというのに、その髪は濡れていなかった。時折り吹いてくる風に煽られ、日の光を浴びてキラキラと輝いている。同時に衣服も乾いていた。双眸も髪の色に合わせたかのような薄い水色。その目がまっすぐにミーナを見詰めていた。
「う、浮いている…」
オリオンがかすれた声でそう言った。
そう。湖から出てきた人物は水面の数センチ上に浮いていたのだ。もっとも、神であればそれくらいのことはたやすいこと。ミーナでさえもそれくらいはできる。
オリオンの存在など知らぬと言いたげな雰囲気を漂わせ、相変わらずその人物はミーナただ一人を見詰めていた。そして、結ばれた唇から声がついに発せられた。
「我はフェイト。水を司る者なり」
「水神フェイトか…」
フェイトの言葉にミーナは呟いた。
すると、水神は続けた。
「そなたは誰だ? まるでオムニポウテンスに生き写しのそなたは?」
「私はオムニポウテンスが孫のミーナだ」
彼女は誇りに満ちた声でそう言い放った。
「その様な者が何故この世界にいる?」
「邪神である者達を滅する為に」
ミーナの言葉に大きく目を見開く水神フェイト。まるでそのようなことを言われるとは思いもしなかったという表情だ。だが、すぐに皮肉めいた口調で言った。
「邪神か…そなたのような幼き者にオムニポウテンスが何を言ったか知らぬが、我は…我等は決して邪神ではない。信じては貰えぬだろうがな」
「………」
ミーナは何も言わない。ただ、彼女の瞳は己の成さねばならぬことを遂行するのみという決意が表れているのみである。その瞳の意味するところを察した水神は諦めたような表情を見せた。
「もう何を言うても無駄か…ならば一つ教えてくれ。炎神を滅ぼした者は誰だ?」
「私は知らぬ。しかし、それを知ったところでどうする気だ?」
「復讐だ」
「愚かな…」
「黙れ」
フェイトの頬が微かに赤くなった。それを見たオリオンは思わず「美しい」と思ってしまった。が、慌てて心の中で(何を馬鹿なことを…)と反省した。
「知らぬというのならば、交代した新しき炎神が滅ぼしたものということにしよう」
言うと同時にフェイトはカーリーのもとに瞬間移動すると、彼とともにその場から忽然と姿を消してしまった。
「カーリー様!」
サフランの悲痛な叫び声が響く。
ミーナは微動だにもせずに、フェイトが消えた空間を睨みつけているだけだった。
一瞬、カーリーは己に何が起きたのかわからなかった。目の前が暗闇に包まれたかと思った瞬間、サフランが己の名前を呼ぶ声が急速に遠ざかっていくのを感じていた。だが、すぐに真っ白でまぶしい場所に立っているのを知った。
「こ、ここは…」
「水の底だ」
傍で肉声が聞こえた。はっとなって振り返ると、そこには水色の髪を空間にたなびかせながら水神フェイトが立っていた。驚いてカーリーは飛びかかれるように構えた。フェイトの水色の瞳には憎しみの炎が見えるようだった。
「オレをどうするつもりだ。殺すのか」
「さて、どうするかな…」
憎しみの炎が見えていたフェイトの瞳から、なぜかスーッとその憎しみの色が消えていく。
そして、彼はカーリーをじっと見つめると、静かに語りだした。
「邪神は滅せられねばならぬ。あの幼き神の言う事も我にはわかっているつもりだ。永き間封印され恐ろしく永い間考える時間は充分あったのだ。我等が一体何をしてしまったかは認めたくなくても今はわかる。神もまた人間と同じ。人間たちはそうは思っていないようだが、我等神にはそれはわかっていることだったのだ。だが、我は個人的にそれを知っていることはよくなかったのではないかとも思っている」
「……」
カーリーは黙っていた。
神と人間が同じ?
それはいったいどういうことなのだ?
自分は今何か重大な秘密を聞いているような気がしてきた。
カーリーは思わず身震いしてしまった。
「本質は人間なのだ。強大な力を持ってしまった人間の末路は想像に難くない。だが、神になるということは、神になるだけの資質があったから神格化したわけだ。今のおまえがそうでもある」
「オレ…?」
カーリーは困惑した。
「オレは…人間であるかどうかもわからないんだ。魔族じゃないかってな。物心ついた時にはすでに両親はいず、傍には弟が一人いた。それも本当の弟かどうかも疑わしい。顔も性格もまったく似ていないし、何より、オレには魔族だと後ろ指を差される原因となった痣があったが、弟にはそんなものはなかったからな。それだけでなく、オレは炎を生み出すことが出来た。そして、その炎で己の痣を焼いて消したのだが。だから、オレはきっと魔族だったんだ。そんなオレが神格化するだなんて、いまだに信じられない」
フェイトはそれを黙って聞いていた。そして、静かにこう言った。
「確かに、お前は魔族の子供だったのだろう。恐らく人間との混血だったのではないか。魔族の印は炎ごときでは消えぬ。たとえ魔力のある炎であったとしても。だが、人間との間に生まれた混血であったならば、魔力で消すことはできるからだ」
「……そうか。やはりオレは魔族の子だったのだな。やはり…しかし、そんなオレがどうして神格化するんだ? オレにはわからない」
「魔族とは一体何であろうか。それがわかる者は人間にも神にも魔族自身にもわからぬことだ」
フェイトは苦悩するカーリーに優しく語り掛ける。ゆらりと漂う髪が揺れる。
カーリーはそんな様子を見て、神とは何と美しいのだろうと、場違いなことを思った。
「だが、我は聞いたことがある。魔族とは罪人であると」
「罪人?」
「そうだ。この世界ではない、別の世界の罪人が、罪から許されるためにこの世界に送られてきたのだと」
「な…なんと…」
フェイトの言葉に驚くカーリー。
「別の世界だって…?」
「お前にはわからぬだろう。別の世界と言われてもな。だが、あるのだよ、この世界とは違う世界というものが」
「そ…そんなことが…」
「我にもはっきりとした事は言えぬ。この世界で他の世界に送られたという罪人は聞いたことはなかったからな。この話もずっと昔、仲間の一人が冗談のように言っていただけだ。本当に真実であるのかはわからぬ」
カーリーは水神の話をじっと聞いていたが、思わずこう言った。
「それがもし本当だとしたら、その別の世界の罪人は処刑されるためにこの世界に送られたのだろうか。だから、死ぬと魂は転生されないのだろうか。その罪人である魔族に殺された人間たちも魂の転生がないと聞いた。罪人にはチャンスは与えられなかったんだろうか…」
フェイトはじっとこの若者をみつめた。
炎神と同じ雰囲気を漂わせた同じ髪の色をした一人の男が苦悩を浮かべて考え込んでいるその姿を。
彼は一瞬めまいがした。
まるで大昔の平和だったあの頃に戻ったような、そんな錯覚を起こした。
(ディーズ…まるであなたと過ごしたあの頃のようだ。あなたは本当にこの若者に己を託したのですね…確かに、認めないわけにはいかない。魔族であっても清き正しい心を持っていると、この私にもわかるのですから…)
「チャンスは与えられるべきだ。オレだってチャンスが与えられたおかげで、残虐非道な魔族とはならなかったんだ。悪い事をしたから即処刑だなんて、そんなことは許されるべきことじゃない。それをオレに教えてくれた人がいたんだ。オレのやったことを許し、そしてちゃんとオレの話を聞いてくれ、そして友と言ってくれた人が」
「ほう…それは良い友を得たな。お前は幸運だったのだ。だが、すべてのものがその幸運を手に入れられるとは限らぬ。我等も言ってみれば罪人。しかし、我等は別の世界に送られることなく、滅せられる運命なのだ」
水神の言葉にはっとして顔を上げるカーリー。
それは思ってもみなかったという表情だ。
水神は苦笑した。
「そのような顔をするな。憐れみは要らぬ」
「あなたは…伝え聞く邪神とはまるで印象が違う。もしかしたら反省しているのではないのか?」
「これは笑止。そのような殊勝な気持ちは持ってはおらぬ」
「でも…」
「同情は要らぬ。我はもう疲れたのだ。新しい神が生まれるというのなら、我はお前たちに丸投げしてしまいたい気分なのだよ」
「そんな無責任な…」
空間がゆらゆら揺れる。
空間といってもここは水の中なのだ。
水神フェイトは片方の手のひらを、何かを受け取るかのごとく上に向けた。
「いつの日か許される時が来ると信じていた。そして、再びディーズとともに静かに生きていけるのだと。だが、それは叶わぬ夢と成り果てた。ディーズはもう常盤の彼方に消え去った。できればディーズを直接葬った者を道連れにしたかったのだが、その者が誰であるのか知る術はない」
カーリーはフェイトの悲しみや辛さが感じ取れる気がした。
それほど水神は悲嘆にくれていたのだ。
だがしかし、彼には何も慰めの言葉が浮かばなかった。
たとえ慰めの言葉を投げかけても、それはまったく現実味を帯びない空虚な言葉でしかないだろう。
カーリーはただ嘆く水神をみつめることしかできなかったのだった。
2010年6月22日記
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