ステージ23 快楽殺人者
「さあ…………目を覚ませ、サキュバス!」
男をたぶらかす淫魔とは思えないほど安らかな天使の寝顔をしていたその体の目が、まばたきをはじめた。目を覚ました証拠だ。
「なんつー事を……!!」
「すべてはこのためだ、こんな素晴らしい魂を見つけるために地球に逃げて来たのだ! それがまさか勇者の母親だったとは、まったく驚きだけどな」
アフシールJr.に噛み付くハーウィンに対し、ジャンはまったく無言だった。
自分の母親の魂が、今こうして魔王の肉体に強引に入れられた。殺された訳ではない、強引に魂を奪われただけ。その魂が今アフシールJr.、魔王の息子が自分を倒すための最終兵器としてこうして差し向けられている。
(僕がもたらした結果なら、僕がなんとかしなければならない)
それ以上の事を考える気にはなれなかった。とにかく目の前の事象を片付けない限り、兄弟や義姉、父や甥姪と何を話す訳にも行かないからだ。むろん、母親とも。
「ううっ!」
とりあえずは目の前の二人を斬らねばならないとばかりに飛び掛かったジャンであったが、間一髪で避けられてしまった。それでもとばかりに剣を振ろうとすると、いつの間にか後方に大きく飛ばされていた。実家より数メートル南、小学校時代仲良しだった津野の家。その彼の甥が、今雄太が教鞭を取る学校の生徒になっている事などジャンは知る由もない。アフシールJr.の攻撃かと思い前方を見たジャンが目にしたのは、今までずっとジャンの戦いを無言で見守っていた祐樹と由紀が泣き出すほどの恐ろしい気配だった。
「新次郎!」
生前のサキュバスのそれと変わらない、本来ならば色っぽいはずの声。だがその甲高く尖った声で誘惑されるのはよほどのM気質か、それともこういう声で怒鳴りつけるような存在を屈服させてやりたいと考えるようなS気質の持ち主だけだろう。豊満な肉体を震わせながら、背中の黒い蝙蝠の羽でジャンを追いかける。
その面相にもまた、声と同じ事が言えた。本来ならば多くの男を誘惑して離さないはずの顔、まったくのすっぴんにもかかわらず美しい顔が、醜く歪んでいる。さらに真っ赤に燃え上がっている。それがまだ気温による物や情熱的な興奮による物であったのならばまだ良いかもしれない、だが実際は憤怒による赤である。
「あなたと言う子は……あなたと言う子は!!」
「母さん!」
「どこまで…………どこまで私を辱めれば気が済むって言うのよ!」
確かにその通りかもしれない。高校卒業後ほぼ一年間引きこもり、大卒後入社した会社は三年でくじけてしまい、最後の二年間はただでさえ稼ぎのない弟に食べさせてもらっているだけのニート生活。どこに出しても恥ずかしい息子だろう。怒るのもお説ごもっともだ、そうジャンは思っていた。
「でも今はそんな場合じゃ」
「うるさい! その上に何!? 自分がうまく行かなかったからって逆恨みして殺すだなんて、いったい何のつもりなの!」
「えっ」
「もしかして気が付かないでやってた訳!? 母さんはそんな快楽殺人者なんかに育てた覚えはないわよ!」
インキュバスの夢の中では、新次郎が殺したのは彼らの魂を突っ込まれた怪物ではなく人間そのままの姿だった。面識のない人間たちには、元カノ・バイト先の店長・会社員時代の同僚と言う何も間違っていない説明をしている。
ちなみにジャンは、最後のかつての同僚以外まったく自分が殺したと言う自覚はない。単に、アフシールJr.の率いる魔物を倒しただけである。二年もの間、ずっと続けて来た事だった。かつての同僚・蔵野次男もまた、ただの敵として倒した。そこに、特別な感慨があった訳でもない。その点では確かに快楽殺人者なのかもしれない。
だがもし、ジャンが敵を殺す事にためらいを感じていたらディアル大陸はどうなっただろうか。おそらくジャンはその甘さゆえに敗北し、ディアル大陸はアフシールの勢力下に入っていただろう。魔物たちの、一見穏健に見えて実は家畜としての統治。人間は魔物たちのさじ加減一つでお前は強い魔物の依代になるからと言って殺されるような、あまりにも不安定な世界。そしてそんな世界で人間は進歩できるのだろうか。
剣よりも強い武器をたくさん知っている人間にとってはディアル大陸のある世界は極めてファンタジーに満ちた都合よく進化の止まっている世界であり、銃弾やミサイルなどの近代兵器に対抗できるようなそれではない。やがてはそういう方向に行くのかもしれない、しかし魔物たちが天下を治めている限り人間はあくまでも二の次でしかなく、アフシールJr.が言うように種族の限界を知っている魔物たちはその進んでいる技術を抑えようとする。人間は永遠に魔物の奴隷でしかない。そこまでのことを新次郎が考えていたのかはともかく、いずれにせよ彼は勇者ジャンとして魔王たちを倒す役目を与えられ、そしてそれを成し遂げた。その過程として数多の魔物を斬ったし、山賊や強盗などの不埒な人間たちも斬った。それだけの事だった。
「今の僕には手段として必要なんだ」
「そうなのね! 圧倒的な力を見せつけてわがままを通そうって言うのね! まったくどこまで根性がひん曲がっちゃったのかしら!」
生前のサキュバスと同じように、二本の短剣を作り出して斬りかかった。その太刀捌きは生前よりずっと速く、生前のそれでも押されていたジャンは完全な防戦一方になってしまった。
「勇者様!」
「邪魔をしないでくれる!」
追いついたハーウィンがジャンに高速化の魔法をかけようとするが、叱責に伴う魔力の放出で弾かれてしまった。ダメージはなかったが、それ以上にサキュバスから醸し出される魔力の放出が妖精たちの足をすくませた。
「ふーん、へぇ、ほぉー………………私の知らない所でこんな女の子たちを落として来たから言う事を聞けって言うの? まったく、本当にわがままなんだから! とっととそんな出来の悪いコスプレ衣装なんか脱いで、すぐ真面目に仕事をしなさい!」
「今の僕はこれが仕事です」
「人殺しなんて仕事がどこにあるのよ! いい加減に目を覚ましなさい!」
実際に幾多の魔物を葬り現在進行形でサキュバスの双剣と打ち合う剣と、魔物の攻撃を防いで来た鎧や盾、兜を「出来の悪いコスプレ衣装」と呼ぶ。目の前のまったく姿形の違う存在を、伊佐新次郎と信じて疑わない。インキュバスが夢でジャンと伊佐新次郎が同一人物であると訴え続けて来た成果が実った格好だが、玖子はまるでその一見荒唐無稽な前提を疑う事なく剣を振り続ける。
五十九歳の玖子は、元からその肉体の衰えを嫌と言うほど感じていた。目はかすみ耳は遠くなり始め握力は落ち、しわは増え化粧は無駄に濃くなった。新次郎の醜態を見せられた所で、自分にはそれを止めるだけの力がない事に気付き深く絶望した。夢の中で無念の涙を流し、自分の無力さを呪った。
そんな中、自分にすさまじいまでの力が加わったのである。これならば出来の悪い息子、どこまでも言う事を聞かない息子を正せるのではないかと言う期待、どん底から頂点に上った彼女の気持ちもまた彼女の剣を活発にさせていた。
「構っている暇はねえ!」
「アフシールJr.め!」
「逃げるの? 私の方が先に死ぬからそれまで逃げるつもり? せっかくこうしてチャンスが来たんだから、申し訳ありませんでしたと頭を下げるまでは絶対に許さないわよ?」
ジャンは、逃げた。アフシールJr.を倒すのが目標なのだ、母親の魂の入った存在を斬りたい訳ではないし相手をしている暇もない。叱責ならあとでいくらでも受ける、それでも今の自分は勇者ジャンであり魔王を討たねばならない。サキュバスは歪んだ笑顔でジャンを追いかけた。
見慣れているようで、見慣れていない街。大学卒業後半ば強引に独立させられて以来、七年間一度も帰れないままこの地球を去った。故郷へ錦を飾る事も出来ず、自分のやりたかったこともできなかった人生。死んで花実が咲くものかと言う文句を踏みにじるかのように、死んで花実を咲かせて帰ってきた身。それを歓迎する人間も、非難する人間も、まさかと思う人間も一人もいない。その事実に対して今さらどうと思う事もない。自分がもはやディアル大陸の存在であり、この世界では終わった人間。ここに来たのはあくまでもアフシールJr.との戦いのため。
虚構の栄光。そんな言葉がジャンの頭をかすめる。その通りかもしれない。城も、お姫様も、魔物も、いずれも漫画がゲームかアニメの世界だった。ディアル大陸と言う名前を聞き、自分の小学生時代からあったあの児童文学と同じだなとなんとなく考えもした。内容はもう、覚えてなどいない。そんな街角を、ジャンは逃げに逃げた。
「どうしても逃げるって言うの? 悪い子ね。やっぱり甘やかしすぎたのが悪かったようね、それに増長して私の気持ちに全く耳を貸さないほどに威張りくさって…………人の忠告に耳を塞ぐが為にまさかあの世まで逃げるとは思わなかったわ! 死んだら目一杯おしおきしてやろうと思ったけど、ここで会ったが絶対的なチャンス……逃しはしないわよ!」
サキュバスの目はらんらんと輝き、口は笑っている。口元には牙が覗いていたが、もしその牙がないとしても、やはり今の彼女の笑みに魅かれた者はいなかっただろう。今度の笑みはそれこそ肉食獣の、目の前の存在をおいしく頂く事しか考えていない野生的な欲望に満ちたそれだった。そしてその肉食獣は、相手を殺そうとするような潔さはなかった。殺せばそれで終わりだったが、生かしておけばずっとなぶり続けられる。力の差を見せつけ、逆らえば殺すと言えば思うがままにできる。実に残酷なやり方だ。
「(あの子がもう少しだけ真面目に私の言う事を聞いてくれれば私の人生は完璧だったのに……私の苦しさ、私の辛さがわからないの!? 末っ子は甘えん坊で真ん中っ子は自由で気ままだなんて誰も彼も大嘘吐きよ!)」
新次郎が自殺してからと言うもの、玖子の顔は変わってしまった。順風満帆な生活を送っていたセレブリティなマダムから、子育てに失敗したうらぶれた女性の顔に。その事に気付いた玖子は年だからという名目で化粧を厚くする事に何のためらいもなくなった。成功者の仮面をかぶり続ける事により、玖子は新次郎と戦っていた。
あの甘え上手の新次郎を、ついぞ夫も二人の息子も長男の嫁も叱らなかった。その新次郎にほだされたままの彼らが、新次郎に無駄につらく当たりすぎていると判断してこれから先自分から離れようとするかもしれない。その自覚のない恐怖心が、彼女の頭から新次郎の存在を消し去ろうとしていた。
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