決戦の日、九月二十日
勇者ジャンと伊佐家の人間たち
ステージ15 決戦の朝
九月二十日、日曜日。
「それで距離はどの程度で……」
「およそこの世界の単位で言う所の……」
「それで損傷率はどの程度に」
「瞬間的に投入できれば0%も不可能ではないと考えます」
小さなマンションの片隅で、親子が朝から激しい議論をしていた。朝の一時まで働き朝の六時半に目を覚ましたとは思えないほどに父親は元気であり、息子も意欲的だった。
「でもそれで、勇者が計画を察する可能性については」
「勇者の力でも我が妻たちの肉体が眠っている地まではたどり着けません。最悪の場合でもせいぜい魂と肉体が結びついた所を殺すまででしょう、無論全滅など不可能です」
「そうだな、それで心理的打撃はどこまでだ」
「その点についてはやや難しいと考えます。どんなに風景が勇者の故郷に酷似していてもあくまでも勇者の故郷ではございません。その上で言葉責めと言うのはどうでしょうか」
「反対だね。負け犬の遠吠えじみていてみっともないし、他人がいない所でそんな言葉を聞かせても意味があるとは思えない」
「ですから、私といたしましては」
トーストにコーヒー、それからチーズひと切れだけの簡素極まる朝食を口に運びながら親子は話し合う。昼間はファミリーレストランに行き、1000円単位の現金を注ぎ込みそしてデザートも買って食べる事が決まっている。決行はその後だ。
「おいしゅうございましたか」
「違うよ、お前の提案が素晴らしかったからだ。なるほど、あの勇者がこの世界に未練があるとすればそれだけだろう。その未練を目の前に突き付けてやるわけか」
「ええ。それで精神が乱れればよし、叶わずとも」
龍二は実にきれいな笑顔をしながら、ブラックコーヒーを啜っていた。魔王の息子だからと言う訳でもないが、龍二はブラックコーヒーがこの世界で大好きになっていた。高校生が飲んでも法律に反しないためか学食にも置いてあるこの飲み物を、半月で六杯も飲んでいた。そんなもん飲んで気取ってんじゃねえよと悪態を付いたり揶揄したりする人間は、校内にはもう一人もいない。
「最強の魂が手に入る、か。それでだ。どうやって付いて来させる?」
「そこはあなたのお力を」
「当てにするな、でもまあだいたいそんな所か」
「戦力の逐次投入ほどダメな作戦はありません、一挙に全戦力を投入し」
「なぜ父上はそれを怠ったんだろうな」
「ジャンの過小評価と、統治を優先した結果かと思われますが……」
人間は魔物たちにとって、ある意味資源であった。どんな集団にも、どうしても程度の低い存在は生まれるし逆もまたしかりである。ある意味では牧場のような存在、大事に育てて魔物のために大事な魂を持って来させる。その為に魔物たちは行政をし、統治に全力を注いで来た。その結果戦力が散らばってしまい、ジャンたちにより各個撃破のような形で倒されてしまっていた。
魔物が人間を支配するためには、苦労も少なくなかった。征服勢力としての反発、人間から見て外見的に異形の存在である自分たちへの本能的な恐怖と、圧倒的な戦力の差と言う現実的な恐怖。だから刑罰はある意味で公正になり、ある意味で差別を付けた。自分たちに抗おうとした者には寛容である一方、魔物の権威を笠に着たり私利私欲にかまけたりしたと判断した者に対しては極刑を施した。魔物たち自身ですら、むやみやたらに人間を傷つけた罪で町長から一兵卒に格下げされた話があったほどだ。ちなみにその魔物は、失地回復のために勇者への協力を渋っていた人間たちの家を襲うと言うさらなる失態を繰り広げたあげく、ジャンにより真っ二つにされた。
他にも多くの魔物が、人間を蔑みむやみに傷付けた罪で降格させられたり処刑されたりした。その度に被害者への補償も行われ、それによりゆっくりと自分たちの統治が良いと思う人間たちも増え始めていた所に現れたのが、あの勇者ジャンだった。占領した国や町の統治を優先し、これまでの有象無象の戦士と同一視したゆえに戦力が足りなくなった。それこそが、魔王アフシールの敗因だった。あるいは戦力をわきまえ着実に領土を拡張して行けば起きなかったかもしれない事態だったかもしれないが、今や完全な繰り言である。
「だからこそ、最初我々が狩ったのはそういう輩でした」
「一部では正義の味方呼ばわりする声まで上がっていたらしいね、本当に参ったよな」
「我々の手段のために利用しようとしただけなのに」
この世界に落ち延びたこの主従が真っ先に目を付けたのは、その魔物たちと同じ事をしていた人間たちだった。適当に調べては魔力をかけて殺し、魂を吸い取った。これにより怯え出した一部の企業では、上層部が身を守るために人員増強を行ったり賃金を上げたりする事態が発生していた。サキュバスほどではないが、二人は経済にも関与したのである。
「勝てばよし、負ければそれまでです」
「無駄に殺し過ぎたんじゃないのか」
「完全なる物はありませんよ」
無論、自分たちが手にかけた分だけでない魂も回収していた。だがその大半は使い物にならず、蔵野次男のような優秀な魂との交換に使うのがせいぜいだった。最初アフシールJr.がそれをやった時にはインキュバスも不機嫌になったが、すぐさまそのレベルの魂が大量に出た事がわかってからはおとなしく手のひらを返した。
「しかしこれだけやりすぎるとみんなおとなしく、清く正しく生きるんじゃないかなってそれだけが嫌だね。資源が取れなくなりそうで」
「この世界に長居するんですか」
「しないよ、でも幾代か先に向けて資源が取れるぐらい数を残しておかないと」
「さすがですね」
父と同じ魔物であった龍二の母は、十五年前に病でこの世を去った。正確な年は息子である龍二も聞いていないが、父から十歳ほど下だと聞かされていた。その父親がもしあと千年生きて力を蓄えられていればジャンなど鎧袖一触だったのに、それがサキュバスへの追悼と並びインキュバスの口癖になっていた時期もあった。
「言いたくないけどこのトーストまずいな」
「申し訳ありません」
「別にいいんだよ、賞味期限とやらが今日一杯の上に6枚で200円にもならない安物だろ?コーヒーだってマーガリンだってチーズだってしかりのはずだ」
「ですが」
「お前以外が作るともっとまずいだろうけどな」
「過ぎたる言葉をありがとうございます」
皿洗いを終えようとしているインキュバスの横に並び、水を拭き取って龍二は棚へ戻して行く。この御年八百歳の少年は、魔王の息子らしく手段のために寛容の仮面をかぶる事が出来た。だがこの鷹揚な態度は、ただ一人残った家臣へのご機嫌取りではなかった。必死に自分のために見知らぬ地で励み続ける、自分よりずっと大きな人間への敬意。だから、皿を棚にしまう二人の笑顔は、不思議なほどにきれいだった。
「それから例の幻影は」
「順調でございます。まずは羽虫の幻影を送って心を乱し、いら立ちを高めております。そして時が来た時には魔物の幻影を送り」
「それで心を硬化させた所で一挙に乗り込むと言う手筈か」
「最初は我々を疑うでしょうが」
「それが正解なのにな」
そして座に付き話を進めると、これまできれいだった二人の笑顔が急速に濁った。彼らが人間の親子などではなく、魔王と淫魔である事を最大限にアピールする笑顔。自分たちとしては、一番本来のそれだと思っている笑顔。だがそうやって二人が自分たちの中だけで膝を付き合わせて勝手に動こうとする今の有様が、もし練っているのが旅行や遊園地の計画だとしたらただの仲良し父子でしかない事には二人とも気が付かなかった。
そしてそのまま計画を組み立て終わり、
「では午後はファミリーレストランにでも参りましょうか」
「ああ!いいのを頼むぞ」
と言い合うその姿は、とても魔王の息子と淫魔のそれではなかった。
※※※※※※※※※※※※※※※※
二人がファミレスに入った午後0時ごろ、伊佐泰次郎の家では朝からずっと泰次郎と雄太一家と総司が玖子を取り囲んでいた。言うまでもなく、新次郎の話である。本来ならこの日、三十二歳の誕生日を迎えるはずだった人間について、今日こそ玖子に向き合うように勧めるのが目的だった。
「シッシッ!」
だがその玖子はこれだけの視線を集めながら、九月下旬だというのに乱暴に手を振っていた。
「シッシじゃないだろ」
「ったく地球温暖化だかなんだか知らないけどハエやカが多くってね」
話題ずらしでない事は泰次郎にも雄太にも総司にもわかっている。なぜか知らないが朝からやたら虫が目につき、しかもいくら殺虫剤を撒いてもいなくなる気配もない。
「何事なんだよこれ」
「帰って舞台の稽古でもしてろって言う意味じゃないの?」
今の玖子には三十年以上ともに過ごした伴侶も、二人の子供も、その子供の嫁も、二人の孫もうっとおしくて仕方がなかった。六人が六人一斉に、自分の期待に何ひとつ応えなかった存在を受け入れろと迫って来る。
「確かにさ、俺だって新次郎が勝手に死んだことは許せない。でももう二年も経ってるんだ、いい加減さ」
「久美さん、お夕飯のメニューは」
「あのお義母さん」
「あなたも本当に悪い嫁ね、どうして夫の手綱を握ろうとしないのよ」
「優しいおばあちゃんがどうして」
「二年間も働かないでただぼーっとしてるだけの人を祐樹は好きになれるの?」
こんな問答が、延々二時間以上続いている。どうしていい加減諦めないんだろうか、お互いがお互いにそう思いながらこの重苦しい空気の中にいる。二年間も経つのにまだ新次郎の事を許せないのかと迫る兄弟と、あれほどまで自分たちの名を汚したはずの子どもをまだ兄弟と考えるのかと嘆息する母親。この二時間あまりの中で、玖子の口から新次郎と言う名前が出た事は一度もなかった。その新次郎の存在をほのめかす言葉さえ、二時間でこれが三度目である。
「と言うか、今さら何を言っても始まらないじゃないの」
そしてこのセリフは十度目であった。前向きなそれに聞こえなくもないが、実際は京都の人間がよく言う「ぶぶ漬けでもどうです」である。
「ここしばらくのニュースを見ただろ、ああいう連中が次々と死んだんだ」
「総司も熱心よねー、ずいぶんとあの人たちと親しかった訳?」
「親しくねえよ、忘れたいけど忘れられねえ名前なんだよ!あの五部とかって言うジジイと同じぐらいな!」
五部倫太郎だけでなく雑多・魚沼・茂山・武村と言う、新次郎に冤罪を被せた最悪の同級生四人があの断罪事件から全てを失い、八月中に相次いで死亡した。しかも一件として他殺はなく心臓麻痺による突然死か、自殺で。さらに依田美代子と言う新次郎から搾取した女も死に、そして富良野久太郎と言う労働基準法など知らないと言ったばかりに新次郎をこき使った人間も精神崩壊したあげくに九月に入ってすぐ死んでいた。ここまで揃った以上何らかの意思が働いていると考えるのは自然であり、そしておそらくは新次郎が中心だと言うのもまたしかりだった。
「ジジイだなんて、総司もずいぶんと擦れた物ね」
「尊敬してればおじさんって言うよ、おふくろは腹が立たねえのか」
「全然。それよりファミレスにでも行きましょ、せっかく家族揃ったんだから。ねえ、祐樹、由美」
「うん…………」
「いやなの?」
「おばあちゃんがおじさんにごめんなさいしたら行ってあげる」
「悪いわね総司、今日日ジジイだなんてどこでも言うわよね」
成人した息子たちだけでなく、孫までもあの堕落しきった叔父と向き合えと言って来る。まともな事を言っているはずなのにどうして四面楚歌の状態になるのか、そしてその四面楚歌の状態なのにまったくダメージを受けていないのがわかっているはずだ。なのになぜ二時間も粘ろうとするのか、玖子はまったくわからなかった。祐樹の問いかけを取り違えたのは、この二年間で身に付けた玖子の必殺技が自然に出ただけだった。
決して玖子は、怒鳴り声を上げる事はしない。あくまでも、聞き流し続けるだけだった。泰次郎も雄太も総司も、何とかして怒鳴らせたかった。そこで思いっきり憎悪の気持ちをぶちまけてくれれば、いっそ見切りも付けられた。だが玖子は声色を変える事はあっても、声を荒げる事はほとんどなかった。会社役員の妻として自然に身に付いた柔らかい物腰のまま、全ての攻撃をいなし続けた。
「母さん、もうそろそろ許してやれよ」
「まあね、うちの人が大過なくサラリーマン人生を終えられそうだからね」
「浅野治郎なんてたかが漫画家にヘイト抱いて人生楽しいのかよ」
もしディッシュマンズがホームフードではなく天命食品とコラボレーションしていたら、玖子は浅野治郎に対してどんな感情を抱いていただろうか。あそこまで絶対排除の姿勢を取ろうともしなかったかもしれないし、総司がディッシュマンズの2.5次元ミュージカルに出るとなった時ももう少し前向きに対応しただろう。
「ヘイトねえ、まあ一応抱いているわよ。そのおかげで人生少しは無駄も必要だってわかって賢くはなれたけど」
「母さんの趣味って何だ?」
「近所の奥様と一緒に井戸端会議したり、ツアーに乗っかったり」
「そんだけかよ」
それが嘘ではないが、決してディープなそれでもない事を総司は知っていた。自分が家出同然の形でこの家を飛び出すまで、家族旅行などしようとしなかった人間。たまにしたとしてもあくまで泰次郎主導であり、ただ後を付いて行くだけの存在。それが玖子だった。
「不服?」
「不服だな、いつごろからツアーに行くようになったんだよ」
「九年前からだけど、何か悪い?」
「その時母さん、心底から安堵したんだろ。兄さんがようやく独り立ちしてくれて」
「総司ったら、雄太が教師になったのは十二年前よ?あなたが家出して小さな劇団へ転がり込んだって言うのが正解じゃないの?まあいずれにせよ、そろそろお腹も空いたしどこか行きましょ、それがいいわね」
総司の言う事は、何も間違っていない。ようやく自分を手こずらせ続けた新次郎がこちらの思い通りになった事に安堵し、肩の荷が下りたと思ったからこそはしゃぎ回ったつもりだった。だがそれが三年間で裏切られたと知った時はそれこそ完全に見放し、いっそどうなってしまってもいいとまで思った。
「えー」
「どうしたの?お腹空いてないの?」
「だから、どうしておばあちゃんは新次郎おじさんが嫌いなの?」
「だから言ってるでしょ、二年間も何もしていないような人が好きになれるのかって」
「でももう死んじゃったんでしょ」
「悪い物は悪いと言わなきゃダメなの」
真顔でこれを言うのが伊佐玖子であり、だからこそ海千山千のビジネスマンの妻の世界をうまく泳ぎ切って来たのかもしれない。貴重な品も憤怒の日には益なしと言う言葉が聖書の一節に存在するが、玖子の声に憤怒の二文字は全くない。社会的規範を全身にまとったような言葉だけを並べ、ごく自然に自分の望む方、反論しづらい方向へ誘導していく。名人芸と言っても良いレベルのそれであり、あるいは彼女は天才であったかもしれない。
「なんかみんな元気がないみたいだけど」
「人の事言えるのかよ」
「しょうがないわね、最近ちょっと化粧のノリが悪くって」
「もし俺が役者として大成したら、それは母さんのおかげだね」
「あらそう?」
その堂に入ったレベルの演技ができるような親の息子だから成功するのも当然だと言う総司の皮肉も、玖子には届かない。五人の男女がぐったりとした様子でテンションの上がった玖子に付き従おうとする中、由美だけは台所のほうをじっと見ていた。
「何かすごいのがいるよー」
「はいはいはい」
由美が指さした先には爪と牙の鋭くとがった1メートル前後の生物が立っていたが、玖子にはもはやただの雑音であり目の錯覚だった。二時間近くこれだけの存在に粘着されている間に、細かい羽虫など玖子はどうでも良くなっていたし、ましてや無知な孫娘しかその存在を関知していない存在などないのと同じだった。
※※※※※※※※※※※※※※※※
ようやくこの三世代七名の人間たちがファミレスに着いた時、一組の父子とすれ違った。ビーフシチューをすすりアイスクリームを頬張って来たその親子、取り分け子どもの方のあふれるばかりの笑顔を横目に見ながら、玖子は息子や孫を縛り続ける存在を改めて呪った。
(万が一目の前に現れる事があったのなら、それこそ思いっきり殴って蹴って罵ってやりたいわ!いくら内から外から叩かれてもまったく懲りないんだから、そのあげくあの世まで逃げて、そして自分をしつけてくれた相手を皆殺し……どこまで恩知らずなのかしら。あーあ、あの時中絶してれば良かったかな……)
玖子は脳内で二十七歳の自分を思い浮かべ、もしタイムマシンがあったらその時に飛んでその子供を堕ろせと強く迫るべきだったなと思いながら笑顔でファミレスのドアを開け、床で駄々をこねる三十路の新次郎を足蹴にするイメージを浮かべつつ席に座った。
祐樹も由美も、新次郎に対しとくにマイナスの感情は抱いていなかった。プラスのそれもなかったが、死んでからは雄太の思いが反映されたのかかなり同情的になっていた。それを言い腐し続ける祖母の存在は第一に不可解だったし、第二に単純に腹立たしかった。
「…………………………」
「おいしい?」
「うん」
まるで葬式帰りのように、活気のない七人。おいしいともまずいとも言わずに、無言で料理を口に運んでいる。実際ある意味での葬式帰りではあったが、それにしてもこれからまるで心中でもするかのように七人は暗かった。
「あーあ、何あそこ。さっきの親子とえらい違いだわ」
先程実に楽しそうにしていたイケメン親子がいた席付近に座っていた七人の有様にウェイトレスがそうこぼしたのもお説ごもっともであり、実際その七人がいるだけで店内全体が重たくなっていた。
元々ファミレス自体、玖子は好きではなかった。昔は栄養が偏るのと贅沢だと言う意味で、二十年ほど前からは息子たちがこれで料理の道に進むなどと言う白昼夢を抱いたりしたら一大事だと言う意味で。だからここに来るまで唯一高かった玖子のテンションも下がってしまい、それに引きずられていた六人もなおさら暗くなってしまった。
もし、玖子が引き返せるとしたらここがラストチャンスだったのかもしれない。あの父子は、家族総出で暗くなっているのは魔物や羽虫の幻影のせいであると判断していた。玖子と言う人間を見くびっていると言う訳ではなかったが、過大評価する気もなかった。あるいはここで新次郎に対しいささかでも謝意を見せ家族を喜ばせようとする意志があったなら、その父子は勝率が下がるかもしれないと見て作戦をためらったかもしれない。
「お義母さん、そんなにガツガツ食べちゃダメですよ」
「いいじゃないの、たまには!」
――あんたらが私が忘れたいあのバカ息子の事をさんざん言って来るからそれでストレスがたまっちゃったのよ、どうしてくれるの!そう言わんばかりに、嫁とメニューの肉に噛み付く玖子の姿は、文字通り血肉を喰らう獣だった。普段のお上品なマダムの姿はどこにもなく、ただ暴食を繰り返す野卑な存在。無論、すれ違った父子の事など目に入っていない。仮に入っていたとしてもただ憎悪を増幅させていただけだっただろう。なぜ自分はこんなに不幸なのにあの父子は幸せそうなのかと、成功者であるはずのこの女性はひとりだけで不幸になりその不幸を家族全員に伝染させていた。
「ごちそうさまでした」
「……」
「あいさつは?」
「ごちそうさまでした」
玖子はしまいまで自分が迷惑な客である事に気づかないまま、口止め料同然の調子で七人分の代金を払った。その背中に当たったウェイトレスたちのため息は、決して彼女が考えていたような「ほどなく午後一時になり忙しい時が終わると言う安堵のため息」などではなかった。
「ささ、帰りなさい」
「まだ話したい事があるから」
「じゃあもう少しだけね」
深い絶望――————――――まったく、認める気も向き合う気もないこの存在を前にして、それでも雄太たちは抗いたかった。せっかく時間を使い、ここまで来たのだから。守りたい、救ってあげたい。だから、雄太も総司も諦めなかった。
だが、相手を救ってあげたかったのは玖子も同じだった。いつまでもいつまでも絶対に動かないと分かっている存在を動かそうとする哀れな年少者たち。その存在がだんだんと痛々しく、哀れに思えて来ていた。
(ったく、どうしてここまでするのかしら?わがままで自分勝手で、安っぽい望みがかなわないと知るやああして不貞腐れちゃうような人間のために。それで気が済むんならせいぜい泣き真似でもしてあげようかしら)
無論、する気になるかと言うと別問題だった。あまりにもしつこいこの追及ぶりを半ば楽しむ節さえ芽生え始めていた玖子は、この時どこまで深みにはまって行くのか傍観したい気分にさえなっていた。
とにかく一人の女性と六人の敗北者たちは詰め込んだ料理の分だけ重たくなった体を引きずりながら、伊佐泰次郎の邸宅へ足を運んでいた。その七人組が玄関に向かおうとした時、二人の男性が姿を現した。
「どちら様です?」
「先生はこちらにいらっしゃると聞いたのですが」
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