ステージ14 それぞれの食卓
「尋常ならぬ気配……」
「ええ、間違いないわ」
九月十九日土曜日、三人の妖精は朝から食事もとらないままテーブルで顔を向かい合わせながら唸っていた。
「三日前もおとといも、何らかの力で覗かれてた訳か?」
「昨日はなかったけどなー」
「ハーウィンのバイト先の監視カメラとかってのと違うのですか?」
「全然違うぜ、あれは機械だろ?これはそんなもんじゃねえ、俺たちの知ってる力だ。そう、魔力だよ」
魔力と言う物が、この世界ではまったく信じられていない事。その使い手も、おそらくはいない事。その力がここ三日間で二度も侵入を図ろうとしている。尋常ならぬ事態である事に気付くのは、この三人にはまったく難しくない話だった。実際ディアル大陸を冒険した際にも魔王が自分たちを見張ろうとしていた事が幾度もあり、その度に自分たちの力で所在や行動を覆い隠して来た。
「この世界じゃ隠してる方がかえって目立っちゃうだなんて皮肉だよね」
「今さらやめても遅いんじゃないですか」
「魔王の息子がどう動くかだよ、お前らどう思う」
「とりあえず勇者様とのコンタクトを取れるようにしておくべきでしょう」
自分たちの手持ちの、と言うより縋れる最高の戦力は勇者ジャンである。そのジャンとのコンタクトを取り、いざと言う時に備えておかねばならない。そのコーファンの常識的な判断に、二人は首を横に振った。
「コンタクトって、伝言を入れるだけでもえらく魔力を使うんだぜ」
「この世界と私たちの世界、肉体ごと移動させるのは相当に困難です。方法はともかく使う力が莫大で………………」
野暮ったい、自分たちの今の格好はしょっちゅうそう言われる。でも、それ以上に目立つ事はない。逆に元の世界の衣装を着て出歩いたらと考えると、それだけでめちゃくちゃに悪目立ちする事が分かる。魔力どころか妖精さえも架空の産物と思われているこの世界で、それっぽい様子を見せる事は禁忌だった。
「魔王の息子の目的は何だと思う」
「それはもちろん、この世界で魂をかき集めて。悔しいけど、魔物の肉体、まだあの城の地下に結構眠ってる感じがしたのよね」
「でもそこまでたどりつくのにハーウィンの力を持ってしても八日間はくだらない上に非常に道が細く岩盤も堅く」
「あの魔法陣とかってのに魔力を込めて肉体を呼び出し、そこに魂を突っ込む……そういうやり方で魔物は召喚されていたらしいな。しかもその魔力ってのが嫌らしい事に妖精や人間の力じゃ無理でよ、魔王かそれに類するモンの力じゃなきゃできねえらしい」
「要するに魔王軍には、まだ戦力が残ってるって事でいいんですね。その戦力を」
どこに注ぎ込むのか、やはりそれがわからないのが問題だった。あれほどにまで虐げられて来たはずなのに、それでもあの勇者はこの世界の人間を巻き込む事を嫌っている。家臣として私的な制裁と魔王の息子に強力な魂を回収させないためにそれらの人間に精神的打撃を与えて来た、むろん反省をするのならばそれで良かったのだが結局皆最後まで伊佐新次郎と言う人間を踏みにじった事についてごめんなさいの一言もないままだった。
例えばあの依田美代子とか言う女性は、新次郎に数万円単位のプレゼントをねだっておきながら自分のプライドが云々とか言う実に安っぽい理由で別れたらしい。だからコーファンはその罪に向き合えとばかりに新次郎の姿で幾度も彼女の前に現れたのだが、向き合う前に彼女は罪悪感ではなく恐怖で精神を壊してしまい、数日後に精神病院で死亡が確認されたそうだ。
「目先の凶悪な魂を、私たちはあんな乱暴な形でしか鎮める事が出来なかった……勇者様、怒るだろうな」
「お叱りなら甘んじて受けるべきだろ」
「それに、結果的にその方が良かったかもしれないですしね」
「コーファン、お前結構怖いな」
「勇者様を貶めるような輩に慈悲は要りますまい」
ジャンが極めて慈悲深い主である以上、汚らしい部分は自分たちがやっても良いのではないか。魔物たちが人間やゴブリンを公正な政治と言う飴と重大な犯罪者に対する過酷な処罰、それからサキュバスと言う鞭で統治していたように統治者には裏と表が必要である。そのぐらいの事は、勇者との冒険で学べたつもりだった。
「とにかくだよ、相手の出方をうかがうしかねえ、でもいざとなったら勇者様にすがるしかねえのが俺らの現実って所か」
「魔王になった気分だよね」
「魔王ってオイ!」
ハーウィンが声を上げると同時に、三人の腹の音が鳴り響いた。本来なら朝飯には勝てないんだなと言う笑い声の一つも出るところであったが、三人にはその余裕もなかった。自分たちが魔王、そう勇者を迎え撃つ立場に変じていた事に対する恐怖が三人の心を脅かしていたのだ。確かに、今魔王の息子がどこにいるのかわからない。かつてあの魔王アフシールだって、そうだった。自分たちの力で勇者を覆い隠されていたので、自ら動く事もできなかった。それに魔王には魔王で、魔物を召喚するという仕事もあった。
(勇者様は大丈夫だろうか……)
ハーウィンは包丁で絹ごし豆腐を切りながら、魔王の息子が確実に力を付けているという現実を思った。勇者ジャンとて、最初から強かった訳でもない。自分は三人の中で一番後に加わった存在だが、それでも勇者ジャンの成長を目の当たりにして来たと言う自負はある。ましてやトモタッキーやあのジャンの剣の師匠だという男性は尚更だろう。
「おいトモタッキー!」
「今ベーコンエッグ焼いてるから」
「もう少し他にねえのかハウスキーパー!」
そう思うとハーウィンはやや嫉妬心を覚え、そしてハウスキーパーになったくせに普段の家事がやたらずぼらなトモタッキーに対してその嫉妬心を燃料につい吠えかかってしまった。
「しょうがないでしょ、お互い朝ご飯の用意もしなかったんだから」
「悪いな、本当」
それをたしなめてくれるコーファンに厚く礼を言いながら、ハーウィンは豆腐を鍋に放り込んだ。
「いただきます!」
そして食卓に料理を並べ揃って挨拶をし、食事をかき込む。
「勇者様に頼るのは心苦しいけどな」
「他に方法もないのですから」
「せめてこっちだけは頼りたくないよね」
それでも三人の顔は、晴れない。魔王の息子に対しての打つ手の欠如、その相手の戦力が増強されているという事態の可能性の高さ。それからついでに、急いで作ったとは言えあまりおいしくない料理の味。ジャンに何もかも頼り切りな自分、鍛えようにも限界がたやすく見えてしまった妖精族の悲しさ。その全てが組み合わさって、三人の心を苛んでいた。
※※※※※※※※※※※※※※※※
「ディアル大陸にはない魚です」
「いけるじゃないかこれ、お前の腕とこれどっちがいいんだ」
「この魚でしょう」
ブリの照り焼き。この秋の初めにはなかなかない魚が、不破家の朝の食卓に乗っている。食費を抑えるために七歳の姿になっているインキュバスが二十五歳の姿で焼いたブリの照り焼きに、龍二は舌鼓を打っていた。
「どうでもいいけど相変わらず可愛らしい服だな」
「私は女性を誘惑するために服まで魔力で変えていますから」
守備範囲は人間で行けば下は幼稚園児から上は120歳まで、そんな事を高言できるほどにインキュバスは淫魔だった。だがあくまでも手段の枠をはみ出さない好色であり、だからインキュバスは魔力の点で常にサキュバスに劣っていた。
「尻に敷かれ続けた男の料理の味は違うな」
「進んでそうなっている所もありましたがね。仕事に疲れて帰って来た妻がおいしそうに食べる顔を見るとやる気が出るんですよ」
「妻の自慢を始めるな、話が長くなる」
魔王の側近として、専属の料理人がいなかった訳ではない。だがインキュバスは料理を作る事を好み、妻や王子たちにも好んで振る舞った。最初はただの趣味だと思っていたサキュバスや王子もその腕前を気に入り、他にする事はないのかと悪態を付きながらも笑顔で口に運んでいた。
「この世界の食材と言う物が我々の世界とさほどずれていなくて何よりでしたよ」
「本当にな、人間たちは魔物が何か得体のしれない物を喰うみたいに思っているがそんなに大きな差はないんだからな。強いて言えば骨とかを残すのがどうなのかと思うぐらいでな」
「栄養が一番多い所なのにですね、ああ人間の前ではやめるようにしてくださいね」
魚の小骨はむろん、骨付き肉の骨でもこの親子は咀嚼できていた。二人とも人間よりずっと鋭い牙と丈夫な胃を持ち、そしてその飲み込んだ物を栄養に変える事が出来ていた。
「それにしてもだ、これをどこで買ったんだ?昨日の祝いにしては早すぎるぞ」
「三日前、仕事から帰ってみたらひどく疲れていらっしゃったので滋養を付けようと思いましてひそかにおとといの昼間に」
「昼間にブリを買いに行くホストがどこにいるんだか」
「大丈夫ですよ、二十歳の野暮ったい大学生風の姿になっておきましたから」
「見せなくていい、ったく茶碗にご飯を何杯盛る気だ」
「一杯ですけど」
「二杯盛れ、許す。だいたいわかってるんだぞ、お前のやり方ってのは」
「ありがたくそうさせてもらいます、決戦は間近ですからね」
勇者たちが乗り込んで来たあの日の前、勇者たちはため込んでいた金を使って豪華なディナーを食べたらしい。一食に銀貨12枚、この世界の12000円相当のそれだ。それに比べれば自分たちの食事は質素だった。今日も、その時も。それが勝敗を分ける訳でもあるまいが、負ければそれまでだからこそ悔いがないようにしておきたい。その真理は人間も魔物も変わらなかった。
「それで問題として、決戦をどこでやるかと言う事です」
「どこでって、ここじゃまずいのか」
「まずいですね。どうやらこの世界とディアル大陸、魂があれば案外簡単に転移できるようですが」
「魔物の肉体はダメだと言うのか」
「魂の方が問題です。魂の入っていない肉体を転移させる場合、二つの世界を移動する際の強い負荷に肉体が耐えきれない危険性が大きくなります。魂があればその負荷にも耐えきれましょうが」
「ではディアル大陸へ帰れと?僕は反対だね」
「なぜですか」
「ディアル大陸に戻ってまた兵を起こしたとする、父さんのやった事と何の違いがある?勇者ジャンはまだまだ健在だ、もちろんあの3人も加わって来る。スタートから僕らは大損をしているんだ、この前の戦いに比べて」
レベル1だった相手を倒す事が出来なかったのに、今度の相手はレベル50だ。同じやり方で勝てるはずもない。ましてや、戦力そのものもたかが知れていた。多数の人間の魂を回収して魔物の肉体の依代にしても、量で言えば父親が動いた時より落ちる。質の方も、思ったより良いのがなかった。あの魂を使えば最強の魔物ができるのはわかっているが、それだとしても結局トントンまでにしかたどりつけそうにない事がわかってしまっている。
「あるいはもう少し待つべきなのかもしれない、良い質の魂を手に入れるまで」
「ですが、さすがにもうそろそろ妖精たちも気付くのではないかと言う懸念もございます」
「あのジャンは確実に、僕達がここで動く事を嫌がる。この世界でずいぶんと痛めつけられたのにまだこの世界を傷つけまいとする奴の事だから」
「おやめください、我々の目的はディアル大陸の征服と支配であって勇者ジャンの首ではございません」
「その通りだけどな、ではどうしろと言うんだ」
戦争の勝利者とは相手を倒した者ではなく最後まで戦場に自分の足で立っている存在だと言うが、ジャンを倒した所で命を失ってしまってはそれこそ何の意味もない。あるいはもう少し待ち、この世界の凶悪な魂をもっと探し求めて用意すべきなのかもしれない。そう思わない訳でもなかったが、それをする時間が残っているかわからない。最悪の場合、妖精の力で無理矢理にディアル大陸に引きずり込まれるかもしれない。そうなれば、勇者ジャンに及ばない力しかない自分たちだけで戦うしかなくなる。
「まあ方法がない訳でもございませんが」
「どんなだ」
「ディアル大陸よりこの地に落ち伸びる時、どう感じましたか」
「屈辱で一杯になっていて覚えていない」
「この地球と言う次元とディアル大陸の間には、大きな空間があります」
「そうだったな」
「先ほど多くの魂のない肉体が傷付いてしまうと言いましたが、それはその空間に漂う多くの物体に衝突してしまう事が原因です。魂のない肉体は」
「ただの木偶人形か……」
ジャンこと伊佐新次郎が無事に移動できたのは魂だけしかなかったからであり、この二人や三人の妖精たちが無事に抜けられたのもまた迫りくる物体を跳ね除け、あるいは打ち砕く事が出来たからである。
「その途中の空間に魔物の肉体を放り込み、そこで魂を与えると言うのは」
「難しいんじゃないのか」
「幸い大半の物体は止まっていますから衝突の危険性はないでしょう、ただし」
「やはりどこで兵を興すかが問題だな」
「そこで私は考えました、魔物の虚像を送り込むのです」
「どうしてだ」
インキュバスは真っ白な皿を棚にしまいながら、いつもの姿になって右手の拳を強く握った。普段からこの姿でいるならばもう少し父親扱いできるのにと思いながら、この所帯じみた中年男性からの提案を楽しみにしていた。
「妖精たちならば我々がいよいよ動き出したのかとあわてるでしょうし、普通の人間ならば半端でなくあわてると思います。いずれにせよ、心を乱さない者はいません」
「それをしたら妖精たちに気が付かれないか」
「虚像を見た所で他の人間にどうやって証明するのです?この世界にはCGとか言う代物も存在するようですが、それとて相当な技術が必要なようです」
「ふーん……それであわてた所で勇者ジャンを呼び出すのは無理だろと言う訳か、でも妖精の本拠に送り込めばこちらが特定される危険性がある、危険だとは思わないか?それでだ、ただの人間に送り込んで一体どうするんだ?」
「ただの家ではありません、あの王子様が見つけ出したあの財宝の家です」
「財宝の家にか……なるほど」
頑迷固陋、自分が絶対に間違っているとは思わない。そういう人間こそ、魔王にとっては何よりの財宝だった。ましてや、その目的が自分の私利私欲のためだとすれば最高だった。どんなに頑迷であろうとも、目的が国家や家族や研究など崇高であった場合はさほど強くはならなかった。実際、かつてその目的のために動いていた男の魂を使って召喚士した魔物はジャンではなくコーファンにより鎧袖一触にされた。
「心理的打撃により魂の弱化が気になるけどな」
「大丈夫であると判断いたします、何せ財宝と言うのは自分の思考範囲にない物を徹底的に遠ざけてこそ財宝なのですから。王子様の眼力を私は信じておりますよ」
「そうだな、ますます自己の信仰に閉じこもるだろう。基本的に高齢であればあるほどいい、より思考が凝り固まっているからな。それでいて極めて意欲にあふれている魂」
「若年でも思考が硬直していれば使えます、ほら例えばこれ。この前の我が任務の最高傑作ですよ」
その男性は生前自分に厳しいが他人にも厳しく、そのため多くの人間から煙たがられて来た。上司や部下のみならず妻や子供からも、尊敬もされたがそれ以上に恐れられた。その男性の家庭をインキュバスが狙ったのは、任務七割同情三割だった。あの九月十三日金曜日の午後六時、彼はその女性に背中を刺された。インキュバスにすっかり魅了されていた彼女はまったくためらうことなく幾度も包丁を振り下ろし、彼の心臓が止まるまで手を止めなかった。
「さすがだな」
魔王の息子は、笑顔で部下の手を握った。白魚のような手が、その気になれば一瞬にして人間の心臓を貫ける武器と出来る。自分のそれには及ばないにせよ、敵の肉体を切り裂くには十分な爪を持った部下。その手が、今はとてつもなく温かかった。
「ごちそう様でした」
「はい」
「それでだインキュバス、もう一つ面白いことを知ってね」
「何でしょうか」
「あの先生だよ」
「先生ですか」
インキュバスがサキュバスの話をよくするように、アフシールJr.も伊佐雄太の話をよくする。あくまでも仮の関係であるとは言え教師と生徒となればそれ相応の触れ合いもある。不思議な事に、アフシールJr.は担任の教師である伊佐雄太の事が気に入っていた。
「あの先生の弟、死んだ弟がどうやら勇者ジャンらしいんだ」
「はぁ?」
「ジャンがこぼしたディアル大陸での話を集めると、三十歳の時に自殺してディアル大陸へと流れて来たらしい。そう、九月二十日にね。ちょうど先生の弟が死んだのが三十歳、やはり九月二十日。先生は弟の死を悼みその数日の間有給休暇を取ってるらしい。去年もおととしも、今年も。
そしてこれまであの妖精たちがこちらの魂集めを阻止しようとした案件が四つ。その全てが先生の弟に関する案件だった。ジャンが命じたのか妖精たちの勝手な行動なのかはわからないけどたぶんあのジャンの性格を考えると後者だろう。あのジャンの腰巾着たちの妖精が真っ先にそこまでの憎しみを抱く存在としてあの連中たちを襲ったとすればつじつまが合う」
「なるほど!」
「まったく、どこまでも素晴らしい家系だよ。弟の方はどうだかわからないけど」
この世界で疎外され続けて来たからこそ自分を必要としてくれたディアル大陸のために尽くす無私で無欲な英雄になり、自分たちを倒したのだろう。もしその力が別の事に使われていたら、この世界でもあの伊佐雄太のように立派な人間になれたかもしれない。最悪の死に方をしたはずの弟のことを未だにきちんと悼むような優秀な人間。なるほど、勇者と言うのは優秀だからこそ勇者なのだ。何よりアフシールJr.にしてみれば父親を倒した人間が優秀であって欲しいと言う願望もあった。
「安心しろ、僕は先生が立派だからと言ってジャンを倒すのに手を抜くつもりはない」
「しかしジャン以外には」
「やめてくれよ」
魔王の息子と言う誇り高き存在として、無駄な存在を襲うつもりはない。もう十分に必要な魂は取った、一つを除いて。
「それで、いますぐお取りにならないのは」
「普通に戦っても勝てるとは思わないからさ。それだけだ」
自分のやる事がどれだけ恩師を悲しませるか、怒らせるか。そんな事はわかっている。でも自分はあくまでも魔王である。魔王として、尋常なる手段では勝てない相手に勝たねばならない。そのためには、結果的に無駄な犠牲を出すのも仕方がないのかもしれない。人間社会の一番悪い所だけをこそぎ落とし、それを自分たちの資源とする。そんな素晴らしい世界のための戦いが、いよいよ明日に迫っていた。
アフシールJr.とインキュバスにより拭かれた皿は、二人に魅了されたかのようにカランと言う音を立てて戸棚にしまわれた。その白さと輝きはまるで自分たちの勝利を祈っているようだと二人は決意を新たにし、魔王と夢魔らしくもなく早めに床に就いた。
※※※※※※※※※※※※※※※※
夜。伊佐雄太の家では有給休暇中の主と妻と子供二人が、唐揚げと一緒にご飯をかき込んでいた。子どもたちがパクパクと元気そうに食べる中、主である伊佐雄太の箸は重い。
「胃もたれでもしてるんですか」
「ああ、おふくろのせいでだよ」
「明後日にでも一緒に行きますか、法要って事で」
伊佐雄太はここ数日、妻の久美と共にずっと玖子の説得に当たって来た。自分だって、新次郎に対して言いたい事はある。でももういい加減割り切るべきではないのか、まもなく二年になるというのに。だからこそ、雄太はちょうど新次郎の三十二歳の誕生日である明日をきっかけに新次郎を許してやるべきではないのかと玖子に幾度も言って来た。
だが、まったくの梨の礫だった。雄太は昨日などほぼ一日中張り付いて新次郎の話をしていたはずだったのに、「ふーん」「へぇ」「ああそう」「聞こえない」「うるさい」「あーはいはい」以外の言葉はほとんど返って来なかった。泰次郎からも同じように言われていた玖子だったが、その反応にまったく変化はなかった。
「にしても改めて聞くけど本当かよ、兄さんにんな事言っただなんて」
「ああ、葬儀の席でも言っただろ……」
先ほど弟から入った電話。二人がかりの説得の成果を期待していた弟を大きく裏切る返事しかできない無念さが、雄太の胃袋にもたれかかっていた。
去年の八月六日、玖子は一本の電話を雄太に入れていた。
「もしもし雄太」
「ああ母さん」
「新次郎の事」
その時の新次郎は、バイトさえせず総司のヒモ同然だった。雄太としてもその状況はわかっていたが、どうにも為しようがなかった。二児の養育費を始めとした生活費で家計はカツカツであり、その上に仕事も忙しく時間もなかった。
「今、天命食品って清掃人が足りないらしいのよ」
「それか、それならば」
「そこに来るように言ってくれない?そうすればレベルの違いを目の当たりにしていい加減あきらめるでしょうから」
玖子はその新次郎の現状を、自分に対する反抗だと理解していた。そうやって精気をたくわえ、自分が弱ったり死んだりしたら堂々と夢のまた夢であるはずの料理人の世界に飛び出してやろうと考えている。あんな自分たちの生活を脅かしたくだらないマンガなんかに浮かされたまま、叩き付けても叩きつけてもなお浮かれ上がろうとする妄執の塊。もうこの辺でいい加減地面に叩き付けてやるべきではないのか、そうでなければ死んでも死にきれない。玖子の平坦な声色がかえってその意志の強さを証明し、雄太を震えさせた。
「まさか兄さんに言ったんじゃねえだろうな」
「言わなかったよ、でもとても偶然とは思えない」
ちょうどその二日後、新次郎は崖へと身を投じてしまった。遺書もないままに。そしてその日以来、玖子は新次郎と言う存在の記憶を全てなくした。五十七歳にして、ある意味での記憶喪失を発症した。その症状について常識的な判断――—――――入水自殺によるショックではないかと言う判断に基づいて他者が動こうとすると彼女はなおの事強硬になった。
「もうあの人にとって新次郎は悪の権化なんだろうな」
「兄さんって出来が一番良かったからな」
その分期待を一身に背負っていたのだろう、本来は今頃目も眩むようなエリートに成長して夫のような大企業や国の中核を担っていたはずだった存在。それを必死になって守ろうとしていた結果があの顛末では、怒り狂うのもわからないわけでもない。
「俺は今でもあの時の顔は忘れられねえ。何度生まれ変わっても絶対に認めねえって意志を示した顔を。俺自身、俳優になったのなんてただ逃げたかったからに過ぎねえ。好きな役者も脚本家も演出家も言えやしなかったような奴だ」
「それが超一流にならないとは限らない、か」
可能性の話をすればきりがない。とは言え、きっかけはどうであれその世界に足を踏み入れてしまえばスタートラインは同じである。今の警察官の中に、刑事ドラマにあこがれを抱きその道を志した人間が何人いるだろうか。それらがただ純粋にこの国の治安を守ろうと思ったり、安定した収入を求めるためにこの道を選んだりしたような人間に比べ劣っているというデータがどこにあるのだろうか?
「おばあちゃんはどうしておじさんの事になると怒るの?」
「言う事を聞かない悪い子だったからね」
新次郎の事になると、孫にすら決していい顔をしようとしない。まだ二人とも将来の夢について何も言っていないが、料理で身を立てようなどと言い出したらどうなるか。それを思うと胃袋も箸も重たくなった。
「私も全力で説得にあたってみますから」
「お父さん大丈夫?」
「私たちがついてるから!」
「うん!」
雄太はまだ三十五歳だと言うのに、アラフォーかそれ以上の顔をしていた。生気をなくした家の主を、久美も祐樹も由紀も盛り立ててくれていた。だがその立派な態度こそ玖子が一番歓迎しないそれである事を知っていた雄太には、空元気を振りかざすのが精一杯だった。そして唐揚げを口に運びながらおいしいおいしいと言ってみるものの、味はほとんどわからなかった。
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