ステージ13 間抜けな謝罪人たち

 ここで話は八月三十一日、土曜日までさかのぼる。







「何のご用ですか」


 あと二日で小学生の夏休みが終わる事などどうでもいい一人の主婦の家のチャイムが、ひとりのほぼ同い年の主婦の手により鳴らされた。ひどくしょぼくれた顔をしたその女性は、その家の主である主婦が出て来るや100度近い角度で頭を下げた。


「申し訳ありませんでした!」

「はい?」

「うちの夫があんな悪辣な真似をしていたとは、妻でありながらまったく知らず……」

「あなたは」

「五部倫太郎の家内です!」


 五部倫太郎。かつての伊佐雄太の上司であり、十三日前の同窓会の事件で過去の伊佐新次郎に対する非道を暴露されて全てを失った男、翌日に四人の共犯者と共に自殺していた人間の男の妻だという女性。今この国でもっとも生きづらい存在の一人である彼女は、本来ならもっと早くこの伊佐家に足を運びたかった。だがまったく関与できなかった夫の非道による伊佐家の悲劇とその自殺に伴う処理に追われ続け、さらにマスコミも絡んでいたため今の今まで連絡すら取れなかったし、訪問する事も出来なかった。


「お子さんを預かる身でありながら、うちの夫があんな非道な真似をしていたとは……そして妻でありながら、まったく夫の仕事にも気を配らず……どう謝っても何を今更以外の何でもないのはわかっておりますが」

「やめてください、その通り何を今更ですから」


 悲痛な声を上げながら土下座さえしようとする五部夫人に対し、玖子の返答は実に平坦だった。冷たいという訳ではなく、どちらかと言うと何を謝る必要があるんだかと言うサバサバした返答。この二週間近く、誰にもして来た返答をまた玖子は繰り返しただけだった。


「わかっていますよ、わかっていますけど…………」

「これ以上気に病まないでください。もし、本気で私に謝りたいのならば背筋を伸ばして生きてください」

「申し訳ありません!」

「ですから、もう全て過去の事です!」

「もはや私がこんな事をしても息子さんは帰って来ないと」

「マスゴミはそう取ったようですね、うちの雄太の言うように!」


 泣いて縋りつこうとする五部夫人に投げ付けられた、マスゴミと言う単語。それが彼女の意の全てを現している事を知った五部夫人の目から、あふれ出ようとしていた涙が一気に乾いた。


「これ以上言わせないでください」

「わかりました、では……」

「私はあなたを許しています、と言うよりあなたを許さない存在を許しません」


 五部倫太郎とあの四人の生徒の自殺を聞いた時、玖子は初めてその五人を責めた。そのせいでマスコミに絡まれて面倒な事になったのもあったが、それ以上にやりすぎだという思いが強かった。五人が普通に幸せに生きている事に、玖子は何の嫉妬も憎悪も覚えていなかった。泰次郎や雄太が他者にその憎悪をばらまく事が、玖子は恥ずかしくて仕方がなかった。そしてその憎悪が雄太から妻や二人の子供に感染っているかもしれないと思うと不安で仕方がなく、それがなおさら玖子の心を新次郎に対する憎悪に染めていた。


「と言う訳で何も世間にはばかる事などあなたにはありません、堂々と生きて下さい!」

「はい…………」


 世間に向けての大声、自己主張。マスコミにはしなかったそれを、玖子は臆面もなく近所に撒き散らした。大きいのは音量ばかりであり、声色はまったくいつも通りの玖子のままで。その声の本気ぶりと玖子の期待に反し、五部夫人は心強さを覚える事はなかった。

 ――――この人は許してなどいない。彼女はこの玖子の態度をそう解釈した。声高に罪を喧伝する事により、世間から改めて圧力をかけさせようと言う発想。寛容すぎるほどの寛容さを見せつけ、いざとなったら手の平を返してもまったく文句の出ない存在。それをこの息子を失った女性はさいなもうとしているのだ、そう判断してもおかしくないだけの材料を彼女は持ち過ぎていた。

 その五部の為した事を玖子が怒るどころか感謝しているなどと言ったら、どうなっただろうか。おそらくなおさら混乱し、それこそ夫の後を追いに行ったかもしれない。ちなみに彼女はその後、夫のいなくなった家で一人淋しく玖子の許しを乞おうとして夫の部下であった雄太につなぎ、その雄太から適当に責められてある意味での安心を得ていた。




「……………………」


 何者かが、あの不肖の息子と自分を向き合わせようとしている。その事が何よりも玖子にとっては不愉快だった。存在すらなかった事にしているあの人間を、再び目の中に入れようとして来る輩がいる。それだけで、玖子にとってはひたすらに不愉快だった。


「異性を見極める目って、どうして遺伝しない物なのかしら!」


 自分は若い頃、必死に流行のファッションを追って出世しそうな男を探し回った物だった。そして泰次郎を探し当て、結婚した。その思惑通りに泰次郎は大企業の幹部、社長一歩手前の地位まで出世した。

 それで、依田美代子と言う女性が狂乱を起こして入院させられた精神病院で心臓麻痺を起こして亡くなった事を玖子が知ったのは、数日前に入ったその彼女の兄からの連絡だった。その彼女の兄から、美代子が自分の息子を貢がせた挙句袖にして捨てた事を知らされた玖子の顔は大きく歪んだ。そして


「別にもうどうでもいいんですけどね」


 と言うこれまでと同じように口から出された玖子の心底からの本音がまっすぐ届く事もなく、彼が後日取引先の幹部である泰次郎に深々とかつ幾度も頭を下げた事を玖子は知らない。二十三歳にもなってそんな女と付き合う方も付き合う方だし、その上に無駄に被害者を増やす理由もないのにまったくどこの誰だか知らないがなんて事をしてくれたのだと言う憤りが、彼女の態度をますます硬化させた。




 その上におとといの出来事である。昼間、いきなり花束を持って白田綾子なる女子大生が伊佐家を訪ねて来た。


「実は私がバイトをしているコンビニの前の店長の男性が、いわゆるブラックバイトを強いていて」

「それが私に何か関係でもあるの」

「そちらの息子さんの」

「総司がどうかしたんですか」

「いや、新次郎さん」

「人違いです」


 ――――ああ、この女性もまたあんな男に振り回されている。まったくバイト期間も被っていないはずの女性が、わざわざ貴重な時間を割いて来たと言うのだ。その店長のせいで新次郎が自殺したのではとどこから聞かされた情報で勝手に判断したらしいこの女性を、玖子は冷たく睨み付けた。


「実はその前の店長が昨日心神喪失の状態で警察に保護され」

「伊佐と言う家は結構ありますよ」

「ですからこちらの」

「どんな人間なんです」

「二十代後半の、IT企業をクビになったとか」

「そんな人はたくさんいると思いますけど」

「間違いなくこの辺りだと」

「お帰り下さい」


 取り付く島もない対応を繰り返し、この人のよさそうな女性を追い払いにかかる。それでも重大さを訴えて何とか話を進めようとするが、最後の最後まで玖子はにべもなかった。スマホを右手に抱えこれ以上しつこいようならば通報しますよと言わんばかりの態勢を取ると、この女性が幹部の妻をやっている天命食品を就職先から外す事を決意しながら綾子は仏花を抱えて逃げ出した。

(この保身家の小娘が……!!)

 親しき間柄とも思えない人間が今さら何をしに来たのか。おそらくはあのブラックバイトを強いていたような店長が失脚したんですが自分はずっと反感を抱いていたんですというアピールだろう、なんと浅ましい人間だろうか。綾子が玖子から逃げたように、玖子もまた綾子を保身家の小娘であり万が一天命食品を受けに来た場合絶対に入れないように夫に告げる事を決意した。




 ――――死んでなお、遺志を継ぐ者が動いている。そう言えば聞こえは良い。だがそれがもたらす副作用、いや主作用がこれだとしたらまったく恐ろしい世界だった。

(どこの誰だか知らないけど、一体どこの正義の味方のつもりかしら!こんな事が起きたら自由なんてなくなっちゃうわよ!)

 ただでさえやたらに死刑執行が発生したせいでかつての凄惨な事件が再び電波に乗って世相がざわついている上に、いつも報道される事件。それから死刑執行に付属して発生した法務大臣への追求と言う政治的スキャンダルで生活は慌ただしく、その上にこの個人的事情。

 たった一人の人間を冤罪で責めたり搾取したりするのは確かに悪ではあるが、自殺するまでに追い込むほど厳しく責め立てられる必要があるのか。悪を滅した所でまた別の悪が現れる、それを繰り返すのはあまりにも不毛ないたちごっこであり、恐怖政治にも通ずるのではないか。皆が清く正しく生きている社会と言うより、清く正しくしか生きられない社会。少しでも権力者に逆らえば即死刑と言う、あまりにも窮屈な世界。誰がそこまでの事をしようとしていると言うのか。玖子は五部や美代子ではなく、その私刑の執行人たちに対し強い憤りを抱いた。


(何を今更ってのがすっかり口癖になっちゃったわね……ったく……みんなしてあんなのに振り回され続けて……!どこまで人に無駄に責任を負わさせるつもりなのかしら、負う方も負う方だけど)

 玖子は酒の代わりにペットボトルの緑茶を飲み干しながら、不肖の息子と間抜けな謝罪人たちに向けて内心毒づいた。あの叱責され邪険にされるのがふさわしいはずの人間に感じ入ってしまうような同類項たちが、玖子は嫌で嫌で仕方がなかった。

 一応、買い物に出かけた際などに井戸端会議をして悩みを吐き出した事もある。だがいくら話しても、まるで尽きる事なくいら立ちが沸き上がって来る。愚痴をクドクドこぼすだけこぼして聞き入れてくれる相手がいた所で、愚痴さえも無意識のうちにピントを外している玖子の悩みの根本的な解決にはならない。玖子がこの九月から北本菊枝と言う名前のハウスキーパーを雇う事にしたのは、彼女に家事だけでなく愚痴の聞き役を担ってくれることを期待していたからだった。長男の嫁が同居しようとしなかった事もあり、すっかり話し相手に飢えていた玖子がそれを求めたのは自然な流れだろう。




 土曜日だが、夫は夜まで帰って来ない。そうするように玖子が勧めたからだが、実に孤独で淋しい時間ばかりが流れる。その暇な時間にかこつけ、玖子は十年以上物置と化している子ども部屋を漁った。忌まわしい人間の私物は片付けたが、それでもまだ多くの物が残っていた。


「まったく、子どもってのは本当に……」


 例えば、雄太がまだ小学生だった頃に買い与えたゲーム機。不思議なことにケーブルはまだつながったままであり、テレビの後ろに差し込めば今すぐ動きそうな程だった。適当にホコリを払うとそのゲーム機に差しっぱなしになっていた、二十五年ほど前に雄太に買い与えたRPGのソフト。そのタイトルをちらりと眺めながら玖子は居間にたたずむ古めかしいテレビにつなぎ、スイッチを入れてみるとまだ動いた。当時としては斬新なはずだったムービーが流れ、そしてタイトル画面が出る。スタートボタンを押すと、ゲーム終盤らしきセーブデータが残っていた。


「ゆうた  LV45 HP330 MP107

 そうじ  LV39 HP340 MP50

 ゆみか  LV40 HP250 MP190

 しんじろ LV41 HP199 MP240」


 ゆみかと言うのは、一体誰の事なのかはわからなかった。おそらくは3番目を歩いている女性の事なのだろう。そして主人公がゆうたと言う名前を付けられた所からすると、おそらくは雄太のデータなのだろう。


「何が不満だったのかしらね……」


 全く慣れない手つきでコントローラーを握りながら愚痴をこぼしつつ、長男が名付けたとおぼしきゲームのキャラクターのステータスを玖子は眺めた。「そうじ」は魔法はほとんど使えずスピードとパワーで勝負する戦士系で、「ゆみか」は敵の特殊能力をコピーして使うキャラで、「しんじろ」はいわゆる魔法使いだった。現実にはあり得ない現象を起こして相手を攻撃する、しかしファンタジーではありふれた職業。4文字までしか入れられない古めかしいゲームに使われた、精一杯の愛情。甘い甘いと夫に言っておきながら、自分こそ相当に甘い母親だったと思いながら玖子は町を出て、適当にボタンを押して適当に雑魚と戦い適当に雑魚戦の終了を確認した。


「この大陸の命運はゆうた、おぬしにかかっておる。

 ぜひとも魔王トゥルエンズを倒してくれ!」

「姫はみなさまの無事をお祈りいたしております

 とりわけゆうた様の、いやこれは失礼……」


 移動魔法で飛んだ先には、自分たちを最大限かつ無条件に慕う王様と姫がいた。ヨーロッパ的とも言いがたい奇妙な世界。これがどれほどまでに子どもたちの心を掴み続けて来たのか、どうにも今の玖子にはわからなかった。

 数多の魔物を倒し、数多の民から歓呼して迎えられる「ゆうた」たち。あまりにも都合の良い世界。まるで伝説の英雄ではないか、まあ実際伝説の英雄なのだがそれにしては苦労をしなさ過ぎている。ボタンを押して、話を聞いて。ほぼそれだけで英雄になれると言うのならば、英雄と言う言葉の価値もえらく安っぽくなったものだ。

(総司は無論、雄太も結局はこの時のまんま…………図体以外何にも大きくならないで、夢を見ているまんま。私がいくら注意してもついに改まらなかった。そして、誰も改めさせようとしなかった。人のせいにするのは嫌いだけど、ちょっとは責任を負ってもらってもいいじゃないの)

 憎しみの声を上げるとすれば、それは魔物たちにだけ。あまりもわかりやすい敵への呪詛、すなわち英雄である自分への期待。それがどれだけプレイヤーの心を高揚させるのか、現実から目を背けさせるのか。

(他にも相当に欲しい物は与えて来たつもりだった、ゲームも、雄太のサッカー用品も、総司のバスケットボールのユニフォームも……私の甘さがあの子たちを浮き上がらせたのかもしれないわね、もう少しビシビシやるべきだったのかもしれない)

 当時の流行に乗って買ってやったゲーム、それに対し今や子どもたちは見向きもしていない。ほんの数年のためだけに、こんな物を買い与えた自分の教育的にも経済的にも覆い隠せない甘さ。それが自分の子供を堕落させたのかと思うと、玖子の自己嫌悪の念が大きく膨らんだ。

「ええいっ!」

 コントローラーを乱暴に投げ付けスイッチを切ってケーブルを引っこ抜くとゲーム機を蹴飛ばし、持ち上げて元あった場所に乱雑に投げ付けた。そしてスマホを握って中古ゲーム店を探し出し、いずれ動くか否かわからないこの過去の遺物を処分してやろうと玖子は決意した。

(こんな物でもありがたがる人間がいるんだから、世の中分からないわよね。一生夢から醒めないで生き続け、そしてそのまんま死んで行く人たち。ああ、本当に幸せな人たち。うらやましいけど、絶対に真似したくない生活……)

 それで一体どれだけの物を失って来たのか。立派に真面目に、現実を見据えた上で動く事が結局は幸せの種。それを怠るような愚かな存在だけにはなって欲しくなかった。そのつもりで自分もまた必死になって生き、夫を立て続け息子たちに心血を注いで来たはずなのに。めくり忘れた八月のカレンダーを破り捨てながら、自分の愚かさを悔いる渋面を作りつつ内心で玖子は嘲笑の声を上げた。野太く、重たい笑い声を。

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