ステージ12 逡巡に満ちた決断

「頼むからさ」

「せめて厨房に入るだけにしてください」


 ディアル大陸の王宮では、今日もまたこんな押し問答が繰り広げられていた。


「あなたは王なのですから」

「ふんぞり返って威張っているだけの王が誰に尊敬されるんだい」


 勇者ジャンは、この世界の王と言うに等しい身分である。名目的には純粋なこの世界の住民であるリシアが女王となっているが、そのような事はジャン以外誰も認めていない。その唯一自分が王であると言う認識を持たない人間は、平気で厨房に入ったり畑に出て行こうとしたりする。




 ――好き放題にして構わない。英雄であり救世主である人間にはそれだけの免罪符があった。だがジャンはその免罪符を、食べる事にしか使わなかった。それも美食を楽しむ訳ではなく、料理を自ら作ったり良き作物を作るように命じたりだった。後者はほとんどただの農業政策であり、前者は極めて小さい欲望。これだからこそ英雄になれたとは言え、どうにも不満を隠せない人間もいた。


「漫画って言葉を知ってる?」

「よくはわかりませんが」

「まあある種の作り話だね。その作り話を絵と合わせた一種の娯楽だよ。その漫画を見て僕はその道で生きようと思うようになった」

「それが料理に関する漫画だったと」

「そういう事だよ」


 かなわなかったけどねと自嘲するジャンが、リシアには不服だった。あれほど強大なはずの魔物たちを倒して来た人間が、今さら何を謙遜すると言うのか。自分たちの宮廷料理人になって財を成したいという野心的なそれを含め、料理人になりたいという人間は山といる。そしてそれを成し遂げた人間も山といる。


「そんなに困難な事なのですか」

「ああ、僕にはできなかった。あまりにも発想が安易すぎてね」

「安易とは、剣を手に入れたから魔王を倒せると考えるとか」

「まあそうだね。レシピを覚える事、食材をうまく選びそしてさばく事、調理器具をうまく使いこなす事、そしておいしそうに盛り付ける事。そこまで要求されるのが料理人だ」

「全部出来てますけど」


 リシアの言葉は、まったく身びいきではない。食材が庶民のそれと同じ物や余り物なだけで、包丁の使い方や器具の使い方は王宮のシェフでも通りそうなレベルだった。レシピは多くないし盛りつけも素人のそれだが、何より味が優秀だった。


「私も女子として料理を少しはたしなみましたが、あれは自信を失います」

「ハーウィンにもそう言われたんだよね」


 四人で旅をしていた時の調理担当は、おおむねハーウィンだった。だが彼女が加入するまではジャンであり、ハーウィンが加わってからも3日に2度はジャンがやっていた。ずっと故郷にこもっていたハーウィンの料理はまずいわけではないが幅が狭く、トモタッキーはかなりいい加減で強引な味付けであり、コーファンには料理と言う概念すらなかった。だから、現在ジャンの故郷の世界で肩を寄せ合う3人の中での調理担当はほとんどハーウィンである。


「まったく、二度も料理人でありたいという夢が阻止されるなんてさ、僕は結局」

「お止めは致しませんが」

「リシアがそういうのならば我慢するよ」


 おそらく、前世で相当に欲望を押さえつけられ、痛めつけられて来ただろう魂。だからこそ前の世界には居場所などない、ここしか居場所がないだろうと思ってあそこまで張り切って魔王とか魔物とか言うまったく恐ろしい存在と戦ってくれたのかもしれない。そんな人間をさらにこの上自分たちの都合で縛り付ける事がどれほどに図々しいか、リシアはその事をわからないほど愚かな女性ではないつもりだった。


「わかりました、あなたの道楽を邪魔する私はいけない女ですね」

「ああ……」

「侍従たちにも命じておきます、あなたが厨房に入ったり野良仕事をしたりするのを止めてはならないと」


 この二年間、ジャンがリシアに心の底からの笑顔を見せたのはまだ二度しかない。逃げた魔王の息子を三人の妖精たちに追わせた時に、思いを託すように手を握った時。そして、リシアが彼の子どもを孕んだ事を知った時。魔王を倒した時でさえも、決して顔を崩す事はなかった。




「女王様のお許しを得て来たのですか」

「もちろんだよ」


 仮にも一国の王に等しい存在が、農家の真似事をして水汲みをしている。家臣たちは眉を顰めるが、女王リシアの許可が出ている手前どうにもならない。ちなみにジャンにしてみればこれでも肥桶を担がないだけ妥協した方であり、鋤や鍬を持つのは日常茶飯事である。


「にしても、もう少しそれらしい道楽と言う物があるでしょう」

「どんなだよ」

「ダンスとか」

「できないんだよ」

「では絵画を」

「美術で7以上を取った事はないからね」

「今ひとつ意味が分かりかねますが、聞く耳をお持ちでないという事はわかりました」


 伊佐新次郎と言う人間に、趣味はなかった。上っ面ではスポーツ観戦と言っていたが、会社員であった三年間に合わせてたった七回、なんとなく近所に野球の試合を見に行くだけのそれを趣味とするのは相当に無理がある。会社員でなくなってからはなおさら余裕がなくなり、そんな事をする余裕さえ失われた。それでこの世界に来てからも魔物との戦い、魔王との戦いと言うとんでもない負荷を押し付けられたのだから、趣味などと言う雑事に気を配っている時間はなかった。

 そんな生活で、料理と言うのは絶好の存在だった。仲間たちとの仲を深め、会話を産み、火や刃物を使うから注意力も問われるし、何より生活から絶対に切り離せない。


「大地や海の恵みに僕らは生かされているんだ、その事を決して忘れちゃいけない」

「はい……」


 魔物たちもまた、その縛りからは逃れられなかった事をジャンは知っていた。魔物たちのある意味穏健な統治により魔王になついていた国や町には、かなりの量と質の食品があった。それらは現在、魔王に歯向かい大打撃を受けた国や町に輸出され産業の一角になっている。その結果あの牛乳バブルで財を成した人間がその財をますます膨れ上がらせようとしていたが、それらには魔物たちが残した法を適用する事になっている。もっとも、適正な商売のやり方をしている限りなかなか対処はできないのだが。


「妖精たちは大丈夫かな」

「大丈夫でしょう、陛下の家臣なのですから。陛下がお選びになった家臣なのですから」


 鍬を振り下ろす王の姿と共に、もう一つこの世界に住む人間やゴブリンたちにとって共通認識が生まれた。三人の妖精たちの存在だ。今まで妖精たちは魔王すら手を付けないある意味での不可触民であり、その存在はほのめかされても明示される物ではなかった。だが魔王すら倒した勇者ジャンを支えた存在に今更誰が敵うのかと言う理屈もあったし、三人自身にもここまで他者に姿をさらした以上何を今更と言う吹っ切れた思いもあった。だからこれを機にその存在を表に出すことにし、現在では三人はジャンの腹心の家臣と言う扱いになっている。


「いつまでですか」

「まもなくだよ」


 本当ならば、気が済むまでそうしていたかった。だが侍従のやわらかくも強い圧力とリシアの嫌悪感を思うと、ジャンは鍬を持つ手を止めざるを得なかった。


「後はちゃんと最後まで耕しておいてよ」

「はい」


 ジャンは意趣返しのように鍬を侍従に押し付けるが、侍従はまるで動じる様子もなくのほほんとした顔で右手に鍬を握りながら左手を振った。この勇者の家臣になってから筋肉が増えてしまった事に苦笑しながら、侍従はジャンの見よう見まねで鍬を振り下ろした。




「せいやっ!」


 かつて魔王アフシールを斬った剣は王家の秘宝として鎧と共に眠っており、今ジャンが身に付けているのは重さだけそれらに合わせた量産品である。無論、ジャンの腕前がそう簡単に錆び付く物ではない。


「まったく、実に勇者様はお強い」

「あなたからそう言われるのは嬉しい事です」


 この世界で剣と言う、まったく使った事のない武器の使い方を教えてもらったかつての騎士団長だという中高年の男性。王らしい、勇者らしい趣味として唯一侍従もリシアも目くじらを立てないのが彼との打ち合いだった。


「あなたのお言葉忘れてはおりませんぞ、この世界の父である……」

「やめてくださいよ」

「隙あり!」

「油断も隙もないよなあ」


 ジャンにとってかすかに未練があるとすれば、元の世界に残した父と兄弟だけだった。少しは悲しんでくれていればいいかなと言う、図々しい事を考えた事もある。だが父親については、この世界で厳しくかつ思いを込めて鍛えてくれるこの男性と出会ってある程度未練は断ち切れた。その事が技だけでなく、心の中でも実にありがたかった。ジャンはその事を、包み隠さずこの男性に話していた。


「あなたは良き意味で臆病であり、良き意味で大胆です」


 その男性はよく、ジャンをそう評した。かなわぬ相手と見れば見栄も外聞もなく逃げ、行けると言う時には多少強引でも押す。そのジャンの戦い方は、元騎士団長そっくりのそれだった。


「少しでも隙を見せれば油断なく来る、それがあなたのやり方ですから」

「こうして相対している以上、敵味方です。まあもう完全に超えられてしまいましたがね」


 さきほどのもかつてジャンが自分に言った言葉を思い出させて照れを誘い隙を作ろうとした一種の策であり、実際にあの3ヶ月の間はこれで幾度もやられて来たのだ。今回ジャンがそれを凌げたのは、単にジャンの剣の振りが速くなったからに過ぎない。


「たったの二年であなたを超えるだなんて」

「それが勇者様なんでしょう」

「勇者か……確かに僕は勇者にはなれたのかもしれない。でも、それ以外の何にもなれていない。倒す敵がいなくなれば勇者なんて無用の存在に成り下がる、それが怖いんだよ」

「ここまで戦っておいてまだ自信をお持ちになれないとは」


 英雄と言う存在になれる人間が、一体何人いるのか。魔王との戦いでどれほどまでに大きな戦いを繰り広げて来たのか。そこまでやってもなお自分に自信が持てていない。


「この世界に来る前は何をしておったのですか」

「まったくダメな生活だったよ、何をやってもうまく行かない。最後には稼ぎの少ない弟のおこぼれに縋ってるだけだった」

「あの妖精から聞きましたぞ、あなたがどれほどの責任があるかわからなかった災難ばかりに出くわし続けて来たと。その輩たちは、あなたがかなり評価している魔物たちの法によればもれなく重罪のようですな」


 魔物たちの法は、あくまでも自分たちの力を高めるためのそれかもしれない。真の悪人でなければ決して無駄に殺す事はなく、あくまでも強制労働と言う名の懲役刑や禁固刑にとどめると言うのはなかなかに先進的だった。だがその一方で、魂が強力な魔物を生み出す依代となれば元の世界から見て大した罪がなくとも遠慮なく死刑にしていた。それでありながら魔物へのヘイトが溜まらないように人間たちからも嫌われているような存在のみを殺し、またその罪を正直かつ公正に判断して発表する。殺されても仕方がないような存在を選んで殺し、またひそかに監視もしていたらしい。

 確かに、自分に窃盗の冤罪を着せたあの5人は魔物の法で行けば死刑かもしれない。だがそれにしたってやりすぎだし、ましてや自分を振った元カノや会社員・フリーター時代の同僚や上司たちはまったく裁かれる必要も理由もない。もしあの程度で殺されたり魂の回収対象として睨まれていたりしたら、たぶん精神の方が持たなくなるだろうとジャンは思っていた。あくまでも気持ちの問題であったり、立身出世のための手段を取ったりしただけではないかとも。


「今のあなたの力は、言うまでもなくその輩たちを上回っています。そしてあなたは絶対にその力におごらない。その時点で勝敗は見えています」

「そんな僕の密かな夢が、料理人でした。でもそれを僕にとって大事な人がどうしても望まないと知った時、もう何もかもおしまいだと思ったんです。ああ今の話は、あの3人の妖精にもしていません」

「元の世界では無理だったから、この世界では何とかという事ですか」

「ええ」

「まったく、魔王とてそこまでの呪詛を吐く事はいたしませんでしたよ。ですがその場合、魔王の息子がその存在を狙って動かないとも限りませんよ」


 呪詛を吐き、これほどの英雄の心を縛り付けた人間。もし魔王がその存在に目を付けたならば、資源として利用するかもしれない。ましてやジャンにとって大事な人間とあらば、その心理的打撃も計り知れない。


「僕は3人を信じて待ち続けるべきでしょうか」

「それはお任せ致します。まあ、勇者様に心底惚れ切っている3人の女子からの恋文を待つのも男の甲斐性でしょう」


 師匠の冗談にも、ジャンの顔はまったく晴れなかった。




「ふーっ……」

「どうなさったのです」

「いや、あの3人は大丈夫なのかと思ってね」

「大丈夫でしょう、勇者様が選んだ3人ですから」


 リシアは3人を信用していた。それでも、ジャンは気分が晴れない。もし魔王の息子が魂を手に入れて、この世界に眠る魔物の肉体に注ぎ込むのならばそれでいい。魔物たちを、また同じように倒すだけだ。

 問題は、魔物たちの肉体が魔王の息子が今いる世界に持ち込まれた場合だ。その時はおそらく、とんでもない大惨事が発生するだろう。幾百億円単位の損害と、何十万人の人的犠牲。これはあながち作り話でもなかった。自分のせいで、まったく要らない犠牲を産むかもしれないと思うとジャンは気が気でなかった。

 魔王アフシールが、自分の元いた世界のことを知っていたのだろうか。おそらくは知らないだろう――――そう思いたかった。そうでなければ、自分の世界に眠る資源を取りに行っただろう。だが、魔王アフシールの息子は知ってしまっている。


「魔王の息子が空間を移動するのに使った呪文の解析は案外簡単だったな」

「まさか!」

「興奮しないでくれよリシア。3人の力を見ただろう?」

「安心していないんですね」


 前世のジャンは自分を、自分の尻も拭けないような人間だと思っていた。せいぜいそれができたのはサラリーマンでいられた3年間だけ、あとはずっと人に縋りっぱなし。そしてその自発的に動いた3年間の大失敗。絶望するには十分だったかもしれない。あるいはもっと早く、この世界に来るようなきっかけを作るべきだったかもしれない。そこまでジャンは思い詰めていた。


「勇者様は元の世界でひどい仕打ちを受けたとのこと、しかもそのような格好はおよそありえない物であるとも聞きました。まだ一糸まとわぬ方がましだとも」

「それは大げさかもしれないけどね。とにかく魔王の息子がこの世界に戻って来るのならばそれでいい、でも」

「また重荷を背負うのですか」

「背負いたいんだろうね、気が紛れるからさ」


 気を紛らわす、まったく不謹慎な表現だった。だが、他にどう言えばいいのかわからない。そうやって誰かのために戦っているという感触がある限りは、冴えない自分から逃げていられる。自分はその程度の存在に過ぎない、その言葉をリシアは旅立ちの前の三ヶ月に四回も聞いていた。


「私も、呪詛の言葉の一つや二つ唱えたくなった事もあります」

「まあそうだよね」

「いえ、勇者様をそこまで縛っている存在にです。勇者様は勇者様であり、他の何でもないのです。そして今は国王様です、それで自由に動けばよいはずなのに何をむやみやたらに背負っているのですか」

「…………お腹の子どもに障るよ」

「わかっております、でもはっきりとした返事が欲しいのです。私は、待つにせよ向かうにせよです」

「行けないのならば諦めも付くけどね」


 3人の妖精や王宮付きの学者・市井の賢者たちとやらの分析により、この世界と地球が案外簡単に行き来できることがわかってしまったのはジャンが魔王を倒してからほどなくの事である。ジャンを召喚した時ひどく回りくどく過酷な事を強いられたのは魂だけだったからであり、生きた肉体ごと転移させるならばそれほど難解ではなかったと言うのだ。もっとも、その為の手段が簡単なだけで使う魔力は半端な量ではないのだが。


「この世界で魔法とやらも覚えたよ、一種類だけど」

「その力をお使いになれば行けるのですね」

「ムリだよ」


 移動の魔法。ジャンが使えるのはたったそれだけだった。だが性能は高く、早口でもとっさに相手との間合いを詰めたり攻撃を交わしたりする程度には使えるし、気合を込めて念じれば大陸の端から端まであっという間に移動できた。


「あの3人は帰って来られるのでしょうか」

「妖精と人間は違うから」

「英雄であるあなたと、姫である私と、他の民たちもみな違います」


 確かに、ジャンの剣術と魔法の力は他の人間にはない物だった。だが前者は所詮暫定一位に過ぎないし、後者はコーファンとの戦いの後すぐ出会ったその姉だという全く似ていない妖精からある程度基礎を教わり、それからふた月もの時間をそのためだけに注ぎ込んで完成させたジャン曰く劣化コピーの魔法。実際、燃費は悪く一度一日分の距離を移動する分を打つと回復までに一日かかった。次元をまたぐとなるとどれだけのエネルギーが必要でどれほど回復するまでかかるのか見当もつかないし、そもそも回復しないかもしれない。


「よし、決めた。あの3人が救いを求めて来たら、僕は行く。それまでは待つしかない」

「それがよろしゅうございますね」


 結論と言うにも心もとない、先送り。だがこれでも自分にしてはよくやった方だとまで思っていた。正義の味方がいかに不自由であるか、ジャンは知っている。相手がはっきりと悪い事をしていない限り、動ける物ではない。先に悪であると決めつけて動けばそれこそ暴虐で悪辣な輩に成り下がる。まったく何の意味もない。


「男には男の、女には女の夢がございます。英雄になりたいという願望は男たる物誰でも持ち合わせている物、それを成し遂げたあなたは英雄です。私が保証いたします」

「……ありがとう」


 国家、いや大陸を挙げての魔王討伐歓迎式典の時もジャンは心底からの笑顔を見せなかった。その時は魔王の息子を討ち漏らしている事を知ったからだろうかと思っていたが、このあまりにも勇者らしからぬ優柔不断で自信のない態度が、相当に根深い事をリシアはこの時悟った。

(所詮、英雄だと勇者だと私たちがもてはやし続けて来たのはただの二年間。十六歳と言う事になってはいますが本当は三十二歳だという勇者様が受けた打撃が二年間では癒せる物でないのでしょうね……)

 これまで勇者なのだから、王様なのだからと言う枷をはめて来た自分たちの行動にリシアは微妙に罪悪感を覚えていた。


「十六歳の頃のお話をしていただけますか?」


 リシアの言葉に、ジャンは魔王と対峙する時のような表情になってベッドに腰を下ろした。25センチほど身長差のあるリシアに見下ろされる格好ではあるが、ジャン自身それほど不愉快でもなかった。


「伴侶として、知りたいのです」

「わかったよ」


 これもまた、戦いの一つかもしれない。ジャンは英雄らしからぬ過去、あまりにもみじめで重たく苦しい前世の記憶を絞り出すように、リシアに言って聞かせた。










「どうにもならなくってね……」

「……………………」

「それでもう、何もかも嫌になってね」

「あの3人には聞かせたのですか?」

「一度だけ…………それもトモタッキーにだけだよ。ちょうど二年前、まだトモタッキーと二人旅だった頃に、夜昔の事を思い出して辛くなった時にね」


 一つや二つではない、嫌な思い出。その中でも特に心を痛めつけた四つの思い出を一挙に語って聞かせたジャンの顔は、幾分晴れやかになっていた。一方で途中からジャンの傍らに腰掛けたリシアは、顔を怒りと悲しみの混ざった紫色にしていた。


「その者たちがもしあの魔王の息子、アフシールJr.に目を付けられたら」

「利用されるかもな。あの魔王との戦いの時、魔王は魂を一個残していた。僕にはあの鎧の力が、3人には妖精の力があるからできなかったらしいけど、もし敗れてその力が消え失せたら魔王はその魂、ものすごく邪悪な魂を僕のと取り換えてやろうとしていた」

「なんと恐ろしい!」

「そして魔王は死に際に魂を、生み出されたばかりの魔物の肉体に投げ付けた。魔王よりは弱かったけど、魔王の息子を逃げ切らせる時間を稼ぐ事には成功したよ」


 近距離ではあったかもしれないが、魔王には生きた人間から魂を奪い入れ替える事もできたと言うのだ。交換する物がなければできないのかもしれないが、それにしたって最悪の場合全く使えない魂を交換材料として入手して――――つまり邪悪な人間の魂と取り換えるためだけに善良な人間を殺すという真似をやりかねない。


「でも私はそうやってあの魔王の息子があなたを貶めた人間たちから魂を奪う事を好みません」

「なぜだい」

「魂が替わった所でこれまで魂がその肉体で積み上げて来た罪科はなくなりません。でもその入れ替えられたきれいな魂がきれいな事をし続けたら、その魂が入った肉体の人生はきれいな物として終わってしまいます。私は一人の人間として、勇者様を無用に苛んだ輩の生涯がきれいに終わる事を望みません」


 魔王の息子に囚われて婚姻を迫られ、さらに自分よりずっとこの大陸のことを考えているような事を言われる。さらに言えば、魔物の魂を吹き込まれる危険性もあった。そこまでの危険にさらされながら手を跳ね除けて来た強い意志の持ち主。自分が孕ませたのはこんな存在なのか。元から亭主関白なんぞあきらめていたが、それでもやはり母は強いのか、それとも元からの王家の血筋の為せる業なのか。


「とにかくだ、今はまだその時じゃない。3人が助けを求めて来ない事を祈りながら稽古に励もうじゃないか」

「はい」


 全く本心からのため息を吐きながら、ジャンはベッドから腰を上げた。

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