ステージ11 魔王、ついに見つける

「何だよ、あんなカッコいい奴でも遅刻するんだな」

「してないだろ」


 九月十七日、火曜日。不破龍二の登校時間は八時二十八分だった。


「何があったんだよ」

「ただの寝坊、授業中に居眠りするよりはましだと思ってぐっすり寝たらこれ」

「ハハハ、誰にでも弱点ってあるもんだな」


 髪の毛は乱れ、制服もイマイチ決まっていない。半月で初めてと言ってもいい格好の悪い龍二の姿に、クラスメイトたちは好き勝手にはしゃいだ。


「おはようみんな……おや不破どうした」

「寝坊です」

「夜ふかしはほどほどにな、まあ間に合ったからいいが明日からはちゃんとするように。では出席を取るぞ」


 伊佐雄太さえも、龍二の心配をしていた。龍二は噛み殺したあくびをまぶたから吐き出しながら、一時間目の数学とおとといのことを考えていた。

(インキュバスがこの前出会ったと言うあの娘は一体……それで昨晩はあの娘の周辺に目を配りずっと強き魂がないか探していたがとうとう見つからず……)

 日曜日にインキュバスが出会った、女子大生。おそらくはかなり疲弊しているはずだから力を手に入れるのに絶好の対象だと思い夢から潜入を図ろうとしたが失敗した――と言うインキュバスからの報告を昨日龍二は受けていた。


「強固な障壁が張られています、紛れもなくこの世界の力ではない障壁です」

「今の僕で破れるかな」

「できなくはありませんが、こちらの正体を見せびらかす危険性が高そうです。うかつな真似をしてしまいまして申し訳ありません」

「構わないよ、とにかく普通の人間でない事は間違いなさそうだ。お前は引き続きその女子大生とやらを探ってくれ。僕も学校が終わったら探ってみる」


 その結果、その女子大生が年の近い女性と3人暮らしである事がわかった。インキュバスの侵入を防ぐような力を持った女性が、わざわざ普通の女性と同じ屋根の下で暮らすだろうか?あるいはその同居人の女性が、そういう力を使ったのか。いずれにしても、尋常な話ではない。


「考え事があるから今日は話しかけないでもらいたい」


 そう重々しく言って群がって来る人間を追い払った龍二は、遠くを見つめるような目でじっと座っていた。二人の同居人のどちらかか、それとも両方か。あるいはすべてか。仮にすべてだとすれば、その三人があの忌々しき勇者ジャンのしもべだと言う可能性が非常に高い事になる。

(今の戦力でもあの三人は殺せるだろう。でもそれ以上、ディアル大陸の征服、いやこの日本と言う国家の征服となると圧倒的に力が足りない。まあこの国なんかはただの鉱山のような物だが、ここで事を起こせばこの国の戦力が僕の敵に回る。やはりこの世界の資源をかき集めてディアル大陸へ戻り、そこでジャンを倒すべきだろう。あいつらはジャンがいなくなれば無力だからな)

 帰宅部の龍二が唯一読む教科書以外の本は、軍事雑誌だけだった。カツカツの小遣いの中から適当に買った軍事雑誌を漁り、読み尽くす。ある意味での敵情視察で得た情報は、龍二と言う存在に対する抑止力になっていた。他人とほとんど能動的に言葉を交わそうとしない龍二のただ一つのとっかかりであったせいか、半月もしない内にクラスの中に同じ雑誌やインターネットの情報を掴み取ろうとする人間が出始めた。


「お前、将来自衛隊員にでもなる気か?」

「どれだけ早く給料がもらえるんだ?」

「金かよ」

「何が悪いんだよ」

「まあそうだよな、お前みたいなやつばっかりだったら伊佐先生も苦労しねえよな」


 そう呑気に、まるで悪意のない声をかけられる事は珍しくもない。だが無論、龍二にはその声は雑音でしかない。もっともっと悪意のある相手の方が、素材としては好都合だった。


「先生さ、この時期になるとどうも元気がないんだよ。お前の面倒をよく見るのも、その反動なのかもな」

「そうなのか」

「先生はこの学校でもう十年もやってるんだよ、学年主任の先生によれば最初はどうって事もなかったけどここ二年、この時期になるとひどく落ち込むらしいんだよ」


 二学期からの転校生である龍二には、雄太の事情はあまり分からない。この学校に来たのも、一に邪悪な魂探し二に学費だった。


「まあ無理もねえけどな、先月の八日に亡くなった弟さんの事を思うとな」

「えっ」

「それで三日後の金曜日が弟さんの誕生日なんだよ。去年も先生はその前後の三日間に有給休暇を行使しててな」

「はぁ……」


 龍二は、雄太の行動を当初監視していなかった。まず一目見て悪意のまるでない魂である事が分かったし、他にすぐ使えそうな魂を探す方が優先だったからだ。ここ最近のあの大殺戮のついでに雄太の家庭も覗いてみる事にしたが、雄太の妻も子ども二人も話にならないレベルでしか悪意がない。


「どういう死に方をしたんだ?事故死?病死?殺人?」

「自殺だよ、入水自殺。それも誰にも何にも言わないでさ、崖から自転車もろとも飛び込んだらしくてさ。その事を知らされた時にはガチで悲しかったってよ」


 死んだと分かったのは、次の日に地元の人間が自転車を見つけたからだった。遺体はついに見つからず、遺影だけがさらにその下の弟の所にあるらしい。


「未練が山とあるだろうな」

「ああ、残された方はよ。逝っちゃった方はねえのかもしれねえけどな」


 自分だってそうだ、もっと父親にいろいろ教えて欲しかったし家臣たちとも戯れたり教わったりしたかった。だからこそ、自分は自分なりにインキュバスを大事にしたいと強く思っていた。

(もしその魂を使えたらどんな魔物ができただろうか……いやたぶん強くはならないだろうな。これまで手に入れた死刑囚の魂もずいぶんとばらつきがあったしな)

 それと同時に、父親の無念を晴らす事も考えていた。自殺と言う形で肉体を離れた魂もかき集めていたが、どれもこれも邪悪であったとしても気力が薄れすぎていた。そしてかなり量を集めた結果、そろそろキャパシティーがいっぱいになって来ていた。


「時間があればな」

「そうだよ、時間があればもうちょい何とかなったのかもしれねえけどな」


 時間。それこそが、今の龍二にとってジャンに匹敵する大敵だった。この世界での一日がディアル大陸での、と言うより自分たち魔物の世界のどれだけに当たるのか、それを真っ先に考えるべきだと言う悔いが龍二の中に巣食っていた。




 龍二の使う魔物召喚方法には、不便な点が二つある。まず一つに、魂を依代として魔物を召喚しようにも魔物の肉体がなければならないと言う事だ。今でこそディアル大陸の地下深くに眠っている肉体が残っているが、その次を生み出すのに相当な時がかかる。それこそ十年や二十年ではとても間に合わない。自分たちにとってはそれほどでもないはずの時間だったが、今はそれがとにかく長く感じてかなわない。

 死体に魂を突っ込めばゾンビやスケルトンとして使えるのだが、まずい事にここは日本だ。死体の大半が火葬と言う形によって葬られ、肉はなくなり骨も集めづらい。第一、こんな所で動かせば即座にこの世界の軍事力が動くだろうし「素材」だけ持って帰ろうとしてもやはり怪しまれる。あるいは勇者ジャンが所詮人間である以上、年老いて死ぬまで待つべきなのかもしれない。だが、その事をジャンがわからないはずもない。今舞い戻った所で斬られるのは自分たちだし、あるいはこの世界まで飛び込んでくるかもしれない、故郷であるこの世界をも守るために。今の勢力では、多分ジャンには勝てない。少なくとも1対1ならば鎧袖一触だろう。だからこそあの時逃げたのだ。

 そして第二に、魂の活発さに力が左右されやすいと言う所だった。どんなに過去に罪を犯していても、現在進行形で悪い事をしようと言う意欲がなければ大して強くはならない。弱そうに見える魔物の肉体でも強い魂を吹き込めば強くなるし、逆もまたしかりだった。かつてトモタッキーとさえも出会っていない頃のジャンの下に一匹のドラゴンを送り込んでやった事があり、その戦いをジャンはリシアにこの世界で経験した一番恐ろしいそれであると未だに言いふらしているらしい。あんなこけおどしが通じるのならばもっとやってやるべきだった、そう父親が自嘲を込めて笑っていたことを龍二は忘れていない。どんなに汚い魂でも、その意欲がなければ強くはならない。あのドラゴンに込めていた魂は確かに生前六人の人間を殺した男だったが、自分たちが殺した時はすでに先の罪で牢に入れられ死刑を待つ身であり本人もその宿命を受け入れていた。だから活発さがなく、強くならなかった。

(無論活発であっても汚くない魂ではダメだ、まあ使えなくはないが強くはならない。一刻も早く、強い魂を探さねばならない)

 インキュバスに対する恩は、自分なりに感じているつもりだった。今龍二が持っているお金は、インキュバスが稼いできてくれるそれが全てだった。父親がいた時は、王子と言う立場として食い物に困る事もなくきれいなベッドの上で眠れていた。リシアを口説きながら、父親の勝利を確信していた。二人分どころか、四人分でも楽に寝られるほどのベッドで、目覚めの時間にはいつも誰かが起こしに来てくれていた。今ではそのような物はすべて失われている。それらに対する懐かしさがなかった訳ではないが、龍二は自分を食わせてくれている存在を少しでも速く、そして大きく喜ばせたかった。

(フン、拾った魂と取り換えてやったよ。結構優秀なそれで消滅させるのはもったいなかったからな、人間のそれとしては言う意味でだが)

 そして、そのインキュバスをおとしめる存在に対する嫌悪感も大きくなっていた。ホストとか言う自分を生かし続けてくれている商売を蔑むような発言を転校初日から繰り返した人間の魂を、この世界にやって来た初日に回収して気まぐれで持っていた魂と取り換えてやったのは全くの腹いせである。それ以来、彼は急速に愛想と人が良くなった。その魂の出所も、代わりに手に入れた魂がザコキャラレベルに過ぎなかった事も龍二にはどうでも良かった。

(父さんだって気まぐれであんなドラゴンやガーゴイルを送り込んだんだよ、魔王が気まぐれをやらかして何が悪いんだ?)

 このほんのお遊びは、自分が、自分なりの力を持って行った事だ。こんな退屈な場所なのだからそれぐらいの遊びをする自由はあるだろう、そんな理屈を龍二は脳内で作っていた。




「ストリートミュージシャンと言う者がこの世界にはいます」

「それがどうしたんだよ」

「それがその、昨日目星を付けていた女子大生と同居しているようなのです」

「ストーカーかお前は」

「まあその通りですね」


 出来合いのトンカツを口に運びながら、マーガリンが塗られたパンを龍二は見下ろす。冗談その物の軽い言葉遣いだが、二人とも極めて真剣だった。


「名前は」

「確かクミとか言っておりましたが」

「お前はそのクミとやらか何かを感じ取れたか」

「我が家内はそれこそ、魔力のひとかけらであっという間に相手にとって理想の女性へと変身できる姿を持っておりました。それで多くの有力者たちを惑わし、我々の勢力拡大に大きく貢献してくれた素晴らしい」

「バカか」


 この世界でもディアル大陸でも、人間にも魔物にも限らず女性がメーキャップで別人のようになる話は山とある。それをこの、魔法などあると思われていないような世界で瞬間的にサキュバスのように変化したとでも言いたいのか。インキュバスの唯一の欠点である、突発的に始まると長い妻の自慢話から要点を瞬時に理解した龍二はインキュバスの報告をそう切り捨てた。


「ですがそれほどの力の持ち主であるのならばあの結界もつじつまが合いますが」

「まだ証拠としては弱いぞ、もう一人いるんだろう?」

「そのようです」

「じゃあ僕もストーカーになってみようか」

「それがいいですね」


 ストーカーと言うが、インキュバスと龍二ではやり方もレベルも違う。インキュバスのは怪しまれないような姿になっての物理的なそれだが、龍二は魔力を飛ばしてこの場に居ながらにして相手をストーキングできる。監視カメラが空を飛び続けながら付いて来るような物だ。


「まあその際、出来得るならばその……」

「有効に使えそうな魂か?」

「そうです、家内のために」

「わかってるよ、このトンカツとやらはうまいな、お前が作るのより」

「当たり前でしょう、作った事などないんですから」

「ああそうだったな」


 魔王と淫魔の会話としては、あまりにも温かかった。その温かさが、いったいどれだけの人間の家庭にあっただろうか。




 ※※※※※※※※※※※※※※※※




 例えば、この家庭にはそんな温かさはなかった。


「夫婦二人で膳を囲むのも淋しいもんだな」

「別に飲み歩いて来てもいいんですけど」


 米飯に味噌汁、筑前煮にきんぴらごぼう。質素な和食と言えば体はいいが、どうにもこうにも殺風景な夕食だった。


「雄太のうちは何を喰ってるんだろうな」

「さあね」


 伊佐泰次郎と玖子の食卓は、たいていこんなだった。泰次郎がいくら話を振っても、玖子は淡白に返すばかり。飯の話をしようにも、玖子の腕前が腕前だから景気のいい話にはならない。常務取締役にまで出世した一流ビジネスマンである泰次郎の言葉も、玖子にはまるで届かない。

 総司が家出同然の形で伊佐家を出てから、もう十年間も二人きりの食卓が続いている。たまに人数が減る事はあっても、増える事はない。雄太も、年に数度しか来ない。一家総出で帰省――――とか言う年中行事も、年に二度あれば多い方だった。証拠のない話だったが、雄太は嫁の実家である浜根家には毎年三度は通っているらしい。徒歩でも二時間、電車を使えば三十分足らずの自分の実家と電車でも一時間半の嫁の実家、別世界に来たと言うリゾート感を楽しめるのは後者である事はわかる。とは言え、実の母親としては面白くない。


「なあ玖子、俺もほどなく会社を辞める」

「首切りですか」

「バカを言え、定年だ。その後どうするか考えてもいい頃なんじゃないかな」

「あなたは好きにしてていいわよ、私が地元の人たちと一緒にあれこれやるから、自治会とか。まあここで、お互い認知症になったら容赦なく施設に放り込んで構わない旨連判状とかでも作ってもいいんですけどね」


 玖子は、大企業の常務でない自分にどれほど価値を感じているのか。肩書きをなくしたサラリーマンがどれほど無力か、その事はこれまでの先達の経験から泰次郎はよく知っている。


「最期ぐらいは笑って終わりたいからな、料理教室でも通う事にしようか」

「成し遂げるべきことを成し遂げた方はそれでいいんですよ」


 そして未だに、この妻は新次郎への敵意を捨てていない事も。自分に対して挑戦して来たあの小生意気な小僧が、その恨みつらみを引きずり抱え続けながら海の中へ飛び込んだ。自分の非才を決して認めようとしないで、だからこそ中途半端に生きて失敗してあんな風になったのに頭の一つも下げようとしない。もし身の程知らずぶりを認識して土下座でもしてくれるのならば、本気で味方になってやるつもりだった。父親のコネでも何でも使って、食い扶持だけでも与えてやるつもりだった。それなのに、最後の最後まで何も成し遂げないまま反抗だけを繰り返した。その事が、玖子には何より許せなかった。


「それとも何ですか、今日の私の筑前煮がおいしくないと」

「ああ」

「ありがとう、それコンビニで買って来たのだから。ところで明日は」

「仕事に決まってるだろ」

「そうよね、あの菊枝ちゃんに教えてもらったらうまくなりそうなのにねー」

「妬いてるのか」

「妬いてるわよ、若さにはね。私も昔はとか言う事を抜かす気もないけど、あれは絶対に言い主婦になるわよ。ただ、いい五十九歳になるかは別物だけど」


 玖子自身、自分が料理が下手であり菊枝の料理がうまい事は知っている。だがなぜか、心のどこかで拒否してしまう物がある。これを素直に認めては自分の専業主婦三十五年としてのキャリアとプライドに傷が付く、そう見栄を張るような年でないのもわかっているがどうしても心の奥底で拒否してしまう物がある。その点泰次郎は、彼女の料理をすんなりと受け入れている。女として、主婦としての嫉妬がないわけではなかったがたいして大きくはなかった。

 北本菊枝ことトモタッキーが私生活ではぐうたらな事を知っているのは、ハーウィンとコーファンだけだった。休みなく業務をこなす「北本菊枝」の姿しか知らない玖子には、彼女がいつか潰れてしまう未来がたやすく見えた。あなたにはわからないでしょうねと言う優越感で眺められたからこそ、自分にない料理の腕と若さと美しい肌を持つ菊枝に対して上からの立ち位置を保持できた。




 九月十八日、金曜日。北本菊枝が伊佐家にやって来る、五回目の日。


「よろしくお願いします」

「あらどうもよろしくお願いいたします」


 彼女が来るようになってから、玖子はまともに掃除をした事がなかった。料理は下手だったが掃除や洗濯はうまかった玖子であるから、最初は本当に北本菊枝なる存在は大丈夫なのかと不安になって帰った後こっそりと点検していた事もある。だがやってる内にだんだんとポテンシャルの高さと差を感じて半ば匙を投げてしまい、現在ではほぼ丸投げ状態だった。そして、その事を今は後悔していた。


「それでは本日は」


 玖子は菊枝が何かを言う前に、彼女の手元に万札を乗せた。そして菊枝が戸惑い気味になる中、玖子は菊枝にいつもの午前八時半~午後二時半と言う契約より長い時間いてくれるようにと言う願い事をぶつけた。


「午後三時ぐらいから何かあるの」

「いえその、用事が」

「用事って、それどうしてもダメなの」

「はい、出来得ることならば……最近その、実は私シェアハウスってのに暮らしてるんですけど、最近ストーカーが出てるらしくて」

「あらやだ、大変ねえ」

「ですから明るいうちに帰りたいんですよ、出来るならば」

「でもたまにはいいでしょ。実はうちの人がねえ、料理を習いたいって言い出して」

「そうですよね、必死に料理が作りたいって言ってるのを無下にする理由もありませんからね」

「だからお願いね、今日はお掃除はいいからレシピを教えて」

「でも」

「いいの、今日はお掃除とかお洗濯とかはどうでもいいから」


 少しでも掃除をしておけば、より菊枝を縛り付けやすかったのに。玖子はそんな事をナチュラルに考えていた。夫はこの日夜遅くまで帰って来ない、と言うより玖子がそうするように勧めた。


「その、実はお昼の分しか考えてなくて」

「今から考えて頂戴、それでお昼ご飯終わったら買い出しに付き合って。今日はもうお料理以外しなくていいから」


 逃げる事が出来ない訳ではない、でもその結果自分の目先の食い扶持を失うのは嫌だったし、これをクレームと呼ぶのは無理がある。


「事務所に連絡した所、午後六時半までならOKだそうです。それで一時間に付き3000円で」

「じゃあもう2000円と」


 半ばあきらめながらスマホを取り出したどたどしく所属事務所に連絡を付けた菊枝が追加料金を口にすると、玖子はまったくためらうことなく二枚の千円札をトモタッキーに渡した。


「はい……」


 長男は独立、三男は半ば家出、次男は自殺。ただでさえ女の子が出来ず夫婦二人淋しい生活なのだから、少しは構ってあげるべきなのかもしれない。トモタッキーは勇者の母親の孤独を感じ、素直に傍にいる事にした。

 そして玖子は、菊枝の技を盗み取ろうと必死だった。少しでもアドバンテージを得て、自分が泰次郎に教えてやると言う形にしたい。最後の最後まで、夫の尻を叩き続けたい。負けたくなかった。自分と言う存在が咀嚼して初めてえさを与える、今まではずっと夫からの給料と言うえさを与えられ続けて来た自分の不甲斐なさを燃料として、彼女は心の炎を燃やしていた。




 ※※※※※※※※※※※※※※※※




 その日も寝坊、遅刻寸前。そして休み時間はこらえていたあくびを連発。そのくせ授業中はいい所ばかり見せた。

(他にする事もないんだからしょうがないだろう、何より早く結果が欲しいんだから)

 こんな時期に徹夜で勉強でもしてたのかよと何度も言われ、その度にうなずく。不破龍二は今日そんな猿芝居を何度もして来た。もちろん実態は、日曜日にインキュバスが出会った女子大生とやらと同居している三人の女性のうちの一人、ストリートミュージシャンのKUMIを密かに調査していたからである。だがKUMIと言う女性に怪しい所は何もなかった。やがて追跡のうちに結界が強くなり、自分の存在を関知される危険性があると言う理由でその手を引っ込めるしかなくなってしまった。


「ったくさ、先生も有給取っちまったもんな」

「今年は六連休かよ」


 その上に、龍二を守ってくれる伊佐雄太もいない。土日+秋分の日の上に有給休暇を取って六連休にしてしまい、代理で担任を務めるのはまだ四年目の新米教師だった。その事についてはどうでもいいとしても、いずれにせよこの二十四時間は龍二にとってまことに実りのない時間だった。


「今日こそ証拠を見つけてやるからな」

「まあとりあえずお片付けを」


 そのKUMIが結界の主であると言う結論を出すにはまだ早い―――それが龍二とインキュバスの結論だった。また先送りかよとも思ったが、結界より大事なのは強い魂だった。龍二が昨晩これほどまで疲弊したのは、同時に強い魂を探していたからだった。

(片方ならばそれほど疲れないのにな)

 午後九時半に寝たつもりなのに、十時間以上ぐっすり寝られる。まったく、いつから自分がこんな寝坊助になったのかと思うと龍二はいささか腹立たしかった。


「お体に障りますよ」

「早く仕事に行けよ」


 そして今夜も、インキュバスの忠告を聞き流して龍二は視線を飛ばす。狙いは無論、もう一人の同居人であるあのハウスキーパーとやらの下だ。


「お食事が用意できずに申し訳ございません」

「いいんだよ」


 台所でカップラーメンの容器を逆さに置きながら、龍二はじっと念じ始めた。彼女がこの金曜日にいつも通う家。本来ならばもういないと思いながらまずそこにエネルギーを飛ばしてみる事にした。


「それでは私は行って参りますので」


 返事がないのもいつもの事だと思いながらインキュバスがドアを開けると、背中にとんでもない衝撃が走った。




「おーっ!」

「声が大きいですよ!」

「ついに見つけたんだよ」




 おっと言う大声、この世界でどころか生涯で一番大きな声を出した龍二はまるで五歳児のようにはしゃいでいた。その声と顔から主の吉事を察して内心で喜び、そしてすぐさま部下として忠告した。その忠告に従い龍二は声を潜めたが、それでも手遅れであった。


「ちょっと、子どもが起きちゃうじゃないの!」

「申し訳ありません、おい龍二」

「すみません、ゲームやっててつい……」

「ったくもう、気を付けて下さいね!私だけじゃなく上にも下にもたくさんいるんですから、そんな人たちに迷惑をかけるような真似をするんならば管理人さんに言ってペナルティでも加えてもらいますからね」


 隣の部屋の女性が、龍二の大声に怒って同じぐらいの声で怒鳴りかかって来た。親子して平謝りするしかなく、彼女が納得するまで三分近く平身低頭する事を強いられた。

 もっとも、まだ午後六時である。確かにうるさかったかもしれないが、子どもが起きるぞとか言うのもおかしな理屈だった。そう怒鳴り込んで来た不破親子の隣室の主は、実に幸運であり幸福だった。もしこの親子が魂を求めていれば、彼女の魂は狩り取られていた可能性が高かった。

(金貨の山を見た後で銀貨を見てもしょうがないんだよな)

 金貨の山などと言う俗っぽい財宝ではない、もっと大きな財宝を掘り当てた不破龍二――――――――――――いや、アフシールJr.は改めての覚悟を決めた。

(二日後、この財宝でお前を倒す。ジャン、お前の命をもらうぞ。父上の無念、数多の魔物たちの無念、晴らしてやる……)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る