ステージ10 ニアミスと勇者ジャンの過去

 九月十五日日曜日。朝からスーツ姿のハーウィンは気が立っていた。


「ねえお姉ちゃん」

「何!」

「うわわわ!」


 あのある意味での大量殺戮の仕掛け人は、間違いなく魔王の息子だ。犯行の行われた場所からすれば、この辺に潜んでいる可能性が高い。3人全員で手分けして探してみようとばかりに歩き回り始めピリピリしている所に不意に声をかけられた物だから、つい声が荒くなってしまった。当然、その荒っぽい声をかけられた男の子は怖がった。


「どうしたのそんなに怖そうな顔をしてさ……」

「なかなか就職が決まらなくてね」

「そう、大変なんだね」

「ああそうなの」


 ハーウィンはなぜか、頭を下げる気にならなかった。なまなかな心構えで就職などできる訳ではない、したとしてもブラック企業にぶち当たってすぐやめる事になるかもしれない。ましてや今ハーウィンが籍を置いている大学は、いわゆるFランとまでは行かないにせよ決して偏差値の高い大学ではない。相当に張り切らねば一流企業への就職など土台無理、そんなレベルの大学だ。実際、ハーウィンの大学の同じ授業を受ける学生の中でやる気がある者は既に就職戦線にどっぷり浸かって戦っている。


「でもお姉ちゃんってきれいでカッコいいしさ、例え仕事が不慣れでもきっとモテモテになれると思うよ」

「そんなに褒めないでよ」

「いざとなったら結婚しちゃうってのもありでしょ」

「そんな、でもおとといのニュース見たでしょ」

「あー、でもそうやって気にしてる人は大丈夫のはずだからさ、ね。まあ頑張ってよ」

「うん!」


 小学三年生ぐらいの男の子。十年後にはイケメン俳優になりそうな素質を持ったような顔をしているくせに、子どもっぽく素朴。その上に大人のニュースを理解するような頭の良さもある。その彼の存在を、ハーウィンはなぜかすんなりと受け入れられなかった。真っ赤な上下が派手過ぎたせいか、それとも顔の上に乗っかっている髪がきれい過ぎたせいか、それともあまりにも出来過ぎた感じがしたせいか。答えは、そのどれでもない。

(何やってるんだよ、俺はあくまでも勇者ジャンの家臣。他の男にうつつを抜かすような真似があっていい訳がない。それにしても、魔王は本当にこの辺りにいるんだろうか。いたとして、あそこまで戦力を集めた魔王に今の俺たちで勝てるのか?)

 ハーウィン自身、この世界のある意味での軍事力が分かっていない訳ではない。自分たちの世界にもある刀剣や、家庭で使われる包丁。そして銃と言う弓矢を駆逐した存在。それから戦闘機や戦車などと言う大型の戦闘兵器。それらが実際に魔王の息子率いるモンスターたちと対峙して、勝てるのかどうかわからない。そして勝ったとして、どれほどの損害が出るのかわからない。この世界の人間や建物に損害を出すことを、あのジャンがどれほど嫌がるのかを3人はよく知っている。

(俺だったら元の世界からあんなに冷たくされ続けたんなら、どうなってもいいとかって考えちまうかもしれねえ。それをあのお方は……なんとまあ優しいお方だ。だからこそ魔王を倒し、王様になられても考えるのは庶民の暮らしと飯の事ばかり。まったく、本当に欲のねえお方だよ)

 ハーウィンは何とかして自分たちの主に迷惑をかけないように事を済ませるにはどうしたらいいか、そんな事を考えながら歩き出した。


「この辺なんだけどな……」


 どんなに地味に潜伏しているつもりでも、どこか特異な存在として目立ってしまう。自分たちだってそうなのだから、魔王の息子など尚更だろう。だからと言ってこの辺で最近目立つような人間がいない物かなどと聞けるはずはない、むしろ自分が目立ってしまうからだ。自分たちが存在を認識したからと言って有利になると言う物でもないが、やはりその上で対策を立てたかった。


 そしてそれは、魔王側も同じだった。

(女性の一人暮らし、そして魔力が通らない……これでかなり条件は絞られると思ったのだが……)

 魔王の息子が仮住まいのしているマンションにある一番厚い本は、電話帳である。インキュバスはその電話帳に載っている住所から女性の住む家庭を探し、妖精たちの住処を探そうとしていた。しかし魔王の息子はさほど熱心ではなく、それより能力の強化と戦力の増強に勤めていた。戦力が整えば、妖精たちなど鎧袖一触と言う訳だ。

(まったく、大変な物だな最近の女子大生とやらは。まああるいは、夢の中に入り込んで少し強化の材料にしてやってもいいかもしれん)

 小学校三年生の姿になっていたインキュバスは、たった今話した相手が妖精のハーウィンであるとは気づくことなく、魔物らしい事を魔物らしくない思考で考えていた。その思考が妖精ひとりにも勝てない魔物にしてしまったと魔王もサキュバスも生前嘆いたりため息を吐いていたりしたが、インキュバスはあまり気にしていなかった。




 ※※※※※※※※※※※※※※※※




 同じころ、伊佐家では朝食を終えたばかりの泰次郎と玖子の据え付け電話が鳴り響いた。電話の主は雄太である。


「母さん、最近どうだい」

「特に何もないよ。それで雄太は元気そうだね」

「そうでもないよ、それでさ今度総司がミュージカルに出るんだけど知ってるかい?」

「へえ、あの子も偉くなったものね」

「他になんかないのか」

「いったい何公演ぐらいやるの」

「半月ほどほぼ毎日だそうだよ」


 役者殺すにゃ刃物は要らぬものの三度も褒めりゃいい、と言う都々逸がある。玖子にしてみれば、それを素直に実行したに過ぎないつもりだった。その冷淡な言葉が吉報を伝えに来たつもりだった雄太の不興を買ったが、玖子はまるで気にしていない。身内の三文役者より、テレビに出るアイドルやお笑いタレントの方がよっぽど玖子にとっては重要な芸能人だった。


「で、なんて演目なの」

「ディッシュマンズって」


 ディッシュマンズと言う単語を聞いたとたん、玖子は電話を切った。おいどうしたんだと言う泰次郎の呼びかけに応じる事もなく5秒ほど震え、作り笑顔で雄太が元気かって聞いて来てねって言う話をしててねとだけ言った。こういう時に話を掘り返すとろくな事にならないのをよく知っている泰次郎は何も言わず、そうか俺の事も元気だって言ってくれたかとだけ質問してそうよと言う返答を得てこの話を終わりにした。

(あんな物、まだ生き残ってたの……)

 ディッシュマンズとは、20年ほど前から漫画雑誌で連載されていた料理漫画である。一人の青年が天才シェフを目指すべく活動する正統派の少年漫画で、とにかく現在のアラサー男子ならば一度は触れた事のある漫画とまで言われている。連載は10年に及び、その間にアニメ・ゲーム・映画・グッズ・実写ドラマとありとあらゆる形でそのコンテンツが広がり大きくなって行った。現在はさすがに消えかかっていたが、此度いわゆる2.5次元ミュージカルの題材として取り上げられる事になり人気が再燃し始めていた。

(あんなのに浮かれ上がれるなんて、本当にみんなバカばっかり。それだけでなく私の夫や息子たちにまで侵食して……)

 子どものなりたい職業ランキングで、料理人がベスト10に10年連続で入った時期がある。それはほぼ、ディッシュマンズの連載期間と2年差だった。いかにもミーハーな、子どもっぽく安っぽい興味。玖子は、その漫画に浮かれ上がる息子たちの同級生やその親たちを内心軽蔑していた。子どもたちが学校で孤立するのが嫌だからしぶしぶ読ませていたが、小学校中学どころか高校大学にまで行っても付きまとうその存在が嫌で仕方がなかった。


「あなた、ホームフードだけには負けないでくださいね」

「唐突だな」

「私は常務の妻ですよ、それが夫の勤める会社の業績に気を配って何が悪いんですか」

「そうだな」


 ホームフードは泰次郎の勤める食品会社のライバル企業であり、早い時期にディッシュマンズとコラボレーションした食品を売り出し相当な業績を上げた。その時既は幹部だった泰次郎はシェアを奪われて会社の立て直しに苦しみ、その事もまた玖子にディッシュマンズへのヘイトを増幅させた。あの漫画のせいで自分の運命は大きく狂ったのだと、彼女は頭から信じて疑わなかった。




「大事にしなさいよ!」


 ある日、玖子はそのヘイトが高じてディッシュマンズの単行本をその時高校三年生だった雄太に投げてぶつけた事がある。帯すら取らないで3年間きちんと読んでいた単行本を、玖子は粗末に扱っているとか言って雄太の頭に投げ付けた。


「一番雑に扱ってるのは」

「うるさい!それよりテストの点数はどうなったの!」

「3日前にも同じ質問をしたじゃない」

「雄太には聞いてないわよ!」

「75点だよ」

「……ったく、新次郎は96点だったのに。そんな調子でよくもまあのんべんだらりとこんな物が読めるわね。下手をすればこの漫画のせいでお父さんの会社が潰れるかもしれないって言うのに」


 小学生とは言え100点満点の75点でここまで怒鳴られる理由は、普通はない。だがその時小学生だった総司がベッドの上でディッシュマンズの本を読んでいたことが、玖子にとってはその数百倍大きな問題だった。本当ならば、目の前で盛大に破いてやりたかったぐらいだ。


「でも自分で買ったから」

「まったくもう、能天気なんだから……いい事、漫画でもゲームでも何でも好きなの買ってあげるから、それだけはもう二度とやめなさい」

「もったいないなあ」

「一冊五百円でしょ、はいこの五千円で好きな物を買いなさい、ああ三人分だって言うんなら一万五千円出すから」


 もし一人だけ殺しても無罪だとか言うのならば、玖子は浅野治郎とか言う漫画家を殺してやりたかった。自分の可愛い可愛い息子たちを惑わし、まったく悪意なく夫たちの生活を脅かす存在を。その殺意は、その事件から十六年経った今でも未だに彼女の中で死んでいなかった。今でもそれほどなのだから、その時の彼女の悪感情は推して知るべしである。まったく私的感情で一万五千円もの大金を吐き出したのに、その翌々日に古本屋にディッシュマンズの単行本を持って行く彼女の顔は実にきれいだった。







 さらに、問題になったのはその二年後、新次郎が高校一年生になった頃の事だった。


「まずいわね、本当にまずいわ!」


 玖子と言う人間が大ウソつきである事は、同じ料理を口にした人間ならばすぐにわかる物だった。でもまずいと言う声を吐く前提で口に運んだ人間の考えを変えさせるのは、漫画でもない限りなかなかできる物ではない。その厳然たる事実もまた玖子にとっては自信を与える武器であり、そして同時に玖子の怒鳴り声がインチキな物である事も証明した。

 新次郎が、と言うより三人の兄弟が自分たちなりに心血を注いで作った料理。ディッシュマンズの単行本を読みふけり、その上でクラスメイトやその親とも仲良くして手に入れたディッシュマンズのレシピ本をも見て作った料理。先に口にした泰次郎にうまいと言う隙を与える事なく皿をひったくった玖子はまったくためらうことなく生ゴミとして放り込み、一仕切り吠えると大きな背中を向けながら食器を洗い出した。その姿は勝利者と言うより絶対者の物であり、誰にも反論を許さない物だった。

(まったく、どうしてこんなに往生際の悪い子に育っちゃったのかしら!)

 せっかく思い通りに育ってくれていると思いきや、最近少しうぬぼれが始まって性格が歪んで来たらしい。そう思った玖子は、これをきっかけに少し世の中の厳しさを教えてやろうと考えた。だからこそ、あの盗難事件に対して玖子はまったく新次郎の肩を持たなかった。それでその後新次郎が不登校でも起こせば、あるいは玖子の考え方は変わったかもしれない。だが新次郎はそれをするには気力が足らず、そして敵が少なすぎた。五部倫太郎は確かに教師や生徒たちの前で理想の教師を演じられる一流の詐欺師だったが、その五部の取り巻きの四人の生徒に人望がなさ過ぎた。新次郎がその後も何とか登校する事ができ、そして無事卒業できたのもその四人の腰ぎんちゃくに反発するクラスメイト達の支えあったればこそだった。


 実際、彼らは卒業前後から受験すらできないほどに疲弊しきった新次郎を必死に支えようとした。幾たびも伊佐家に来ては、総司を通じて新次郎を支えようとした。だがその同級生たちの真摯な振る舞いが、玖子にはうっとおしくて仕方がなかった。


「ふぅ……」

「お母さん、お気持ちはわかりますけど」

「いつまで経ってもあの子は甘えん坊なんだから……間っ子ってきっちりちゃっかり振る舞う物だなんて大ウソよね」

「今の伊佐君はたぶん疲れ切ってますから、思いっきり甘やかさせてやっていいと思いますけど」

「まったく、どこまでもどこまでも……本当に手間をかけさせてすみません」


 あの事件で懲りたはずなのに、なおも人様に迷惑をかけ続ける我が子が玖子は恥ずかしかった。総司が迷惑がっていますからとかあの子が会いたくないからと言っていますとか言う子どもの都合を全く無視した言葉で追い払いにかかりそのたびに不必要にペコペコ頭を下げるその姿を、もちろん泰次郎も傍観していた訳でもない。


「お前な、新次郎の友達の事」

「友達?」

「一応浪人生とは言え塾通いやバイトすらせずに、引きこもって勉強以外していないような存在を支えてくれる人間が友達じゃなきゃなんだ?」

「保身家よ、保身家。苦難の中にある存在を支えてあげてる自分ってカッコいいって気取ってるような背伸びした子どもたち。ったく、困ったお坊ちゃんお嬢ちゃんたちよね」


 新次郎は、携帯電話を持っていなかった。大学に入るか就職するかまではダメと言うのが泰次郎を含む伊佐家の教育方針であり、そして雄太もそれに従って大学に入ってようやく自分のそれを手に入れた。だからいわゆる宅浪である新次郎と外の世界の窓口はたまに外に出て買い物をするような店の人を除くと、家族のみだった。


「お前な!」

「まったく、どうして一年間自分の中に籠ってようやく未来への答えを見つけられそうな時に現れて、過去に引きずり戻そうとするのかしらね。もうあの子も十九歳、来年成人式のはずよ。もういい加減、甘い世界はないって事を教えてあげなきゃいけないんじゃないの」

「もう十分味わったんじゃないのか。あんな冤罪事件を吹っかけられてさ」

「あなたも雄太も総司も甘ったるいのよ、小さい時からちょっと褒めるとすぐ浮かれるような子だったから今ぐらいで十分なの。まったく、よくそんな甘さで大企業の幹部が務まる物よね。そんなんだからホームフードにシェアを持ってかれるのよ」


 あの連中はおそらく、新次郎たちのあのこざかしい駄々に全力で手を貸したに違いない。あんなのに取り憑かれて道を誤るような輩の言う事など、絶対に耳に入れる訳には行かない。兄弟の中で一番出来がいいのは新次郎だ、だからこそ道を誤らせる訳には行かない。玖子は、ずっとそのつもりだった。雑音は少しでも取り除き、彼に理想の人生を歩ませねばならない。

 玖子自身、自分は寛容な母親だと思っていた。多くの母親がためらいがちな性の話について彼女は雄太が小学校の時から三人に話して聞かせ、いわゆるエロ漫画も平気で買い与えた。無論中学校や高校を卒業するまでは新次郎や総司には読ませなかったが、その結果雄太がこの晩婚化の時代に二十六歳で結婚できたことは彼女にとって自慢の種である。本来なら、今頃新次郎と総司の子どもも抱いているはずだったのだ。


「あんな新次郎を手段として使うような子と付き合ってたら、新次郎は絶対に幸福になれないわ」

「お互い様だと思うけどな」

「今のあの子に何ができるの、ただの搾取される捕食者よ。阿諛追従に慣れて浮かれ上がったらまた同じ失敗をするわよ、まだ取り返しがつく内に打ち込んだワクチンが無駄になるわ」

「クスリが強すぎやしないか」

「弱すぎるぐらいよ、仮にも親として威厳を持たなきゃダメじゃない。あなたには雷親父をやって欲しかったけど、あとは何もかもいいのにそこだけが不満なの」


 泰次郎がどう反論しても、玖子は聞く耳を持たなかった。このあまりにも強固な信仰に泰次郎はなすすべもなく、ただうなずくしかなった。


「だが俺には新次郎を怒鳴りつけることはできん」

「別にいいですよ、あの子も頭は悪くないですからきっと私たちの思いをわかってくれますよ」


 泰次郎を言い負かした玖子は心底からの笑みを浮かべながら、日本酒を泰次郎のコップに注いだ。普段から酒はほどほどにと言っている下戸の女性らしからぬ気前の良さに、泰次郎は妻の真剣さを改めて感じた。

 やがて一年間かけて疲れを癒した新次郎が大学に合格すると、玖子は高校の友人たちとの交際を一方的に禁じてしまった。その代わりにそれ以外の物は玖子が望んでいたレベルの大学に合格したせいかやたらに何でも与え、新次郎の穴を無理矢理に埋めにかかった。


「これからはもう、あなたの人生なんだから」

「はい」


 そして二十歳になったのをきっかけに新次郎に一人暮らしを始めさせ、玖子は自分の思い通りに新次郎が育っていたことに心底から安堵していた。それだけにその新次郎が卒業後IT企業に就職したのまではいいとしても、交際相手にも振られた上にわずか3年で退職したあげくバイトもやめて最後には弟のヒモ同然になっていたと言う現実に対する怒りは大きかった。怒鳴る事さえせず、まったくいなかった物として扱う。それがどれほどひどい仕打ちであるか、彼女自身よく知っていた。




「それで今度の金曜日だが」

「何かあるの」

「雄太は昔からこの日になると休むからな、何か雄太とする事はないかなと思って」

「別に。祐樹と由紀は休みじゃないんでしょ、まあとりあえずお嫁さんには代わりに昼ごはんぐらいは作ってあげてもいいかなと思うけど。まったく、秋の連休直前だか知らないけどへんな日に休むのね」


 まったく表情を変えないまま、玖子はへんな日と言う言葉を口にする。その時どんなに祝福されたかわからない存在が生まれ出た日。良きにつけ悪しきにつけ、伊佐家の人間にとって何らかの感慨があってしかるべき日に対する、へんな日と言う言葉。それが、玖子の感情全てを表していた。


「にしても総司もねえ、未だに芝居ばかりにうつつを抜かしてドラマの一つにも出ないで」

「舞台俳優なんてそんなもんだろ」

「去年も収入の半分がアルバイト代でしょ、まったく今からでも頭を下げて戻って来ればいいのに」

「二ヶ月前に戻って来ただろ」

「ああそうね、まあ大変みたいだからちょっとは援助してあげるべきかもしれないけど」


 総司が玖子と最後に会ったのは二ヶ月前だがその前は一年前であり、そのまた前は十年前だった。高校卒業してすぐ家を飛び出し、バイトで稼ぎながら小さな劇団に入り込んで芝居に明け暮れる生活に突入した。泰次郎にも玖子にも、まったく何も言わないままに。


「こそこそと隠れて不動産屋さんと知り合い、そしてほとんど何も言わないままに勝手に家を出て」

「俺は夢があるんだよって言ってたから、犯罪さえしなければ別にいいと思ってたけどな。便りがないのは良い便り、だろ」


 玖子は十時にもならないと言うのに、おととい菊枝といっしょに買いに行った砂糖醤油せんべいを一枚取り出してテーブルに座りかじり始めた。


「おいまだこんな時間だぞ」

「いいの、あなたも一枚どう?」


 砂糖醤油と言う調味料の味がいかなる物か、泰次郎はわかっている。そしてその味こそ、玖子の泰次郎への不満を余すことなく示した物だった。砂糖のように甘ったるく、醤油のようにしょっぱい。なぜ勝手に出て行ったのかと怒鳴る事もせず、俳優になんかなれる物かと怒鳴りつける事もせず、未だにたいした芽も出ていないのに発破をかける事もしないこの甘ったるさ。そしてこの前久しぶりに会ったのにまともに話もしない冷淡な対応。

 玖子は前者はまだともかく後者が、新次郎を慕う総司と憎む自分を天秤にかけた泰次郎が自分を選んだ結果である事などまったく気づかないまま、貴婦人の仮面を脱ぎ捨てて最大限に大きな音を立てて、嫌味ったらしく砂糖醤油せんべいをかじった。

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